お隣さん・2
それからは後ろを振り返ることすらせず、ただ逃げることだけを考える。
「はぁっ……はぁっ……!」
靴の踵を踏んづけたまま、よいまち荘の薄暗い廊下を一目散に駆け抜ける。
向かう先は一つ。
――この「よいまち荘」の大家・神代の部屋だった。
「神代さんっ!」
――ドンドンドンッ!!
色褪せた玄関扉を必死の思いで拳で叩き、中にいるであろう存在に向かって声を張り上げる。
「神代さん! 頼むからいてくれ!」
「……ん?」
中から間の抜けた声が聞こえ、その直後、ガチャリと扉が開いた。
寝起きらしい神代が髪を掻き上げながら顔を出す。そんな彼を弾き飛ばさん勢いで橘平は身を乗り出した。
「なんや、朝っぱらから――」
「助けてください!」
「うおっ!?」
橘平は挨拶もそこそこに、開いた扉の隙間へ強引に身体をねじ込んだ。
「ちょ、長谷ちゃん!? なんやなんや急に!」
「隣! 隣の部屋です!」
「隣?」
「二〇三号室です!」
息を切らしながら、橘平は廊下の先の階段のさらに向こうを指差す。
つい数分前に自分が駆け下りてきた階段が、今はやけに恐ろしく感じられた。
「人が……いや、女の人がいました!」
「……人?」
「しかも包丁持ってたんですよ! それに――身体が透けてて!」
そこまで一息で言った時、神代の表情が、ほんの一瞬だけ固まった。けれど、それは本当に一瞬のことですぐに間の抜けた顔に戻る。
「包丁?」
「そう! デカい出刃包丁! 床に落ちてたやつを急に拾い上げて!」
神代は橘平を押し退けて階段の前に立ち、二階を見上げる。
二〇三号室の扉は、橘平が飛び出してきた時のまま開いていた。薄暗い室内が、廊下の向こうでぽっかりと不気味に口を開けている。
「そら、怖かったなぁ」
神代はいつもの呑気な調子で言いながら、橘平の肩をポンポンと軽く叩いた。
「いや、『怖かったなぁ』で済む話じゃないですよ! あんなの事件か怪奇現象じゃないですか!」
「まあまあ。落ち着き」
「落ち着いていられるわけないだろ!」
橘平は肩で息をしながら、頭を抱え込む。
玄関先の壁にもたれ掛かった神代は、橘平の叫びに耳を塞いだ。
「勝手に入った俺も悪いですけど……謝っても全然会話にならないし、急に包丁持つし! 何なんですか、あの人! このアパート、一体どうなってるんですか!?」
頭を抱えたまま、橘平はまたも一息で捲し立てる。しかし、そんな鬼気迫る橘平の叫びを聞いても、神代はすぐには答えなかった。
ただ、開いたままの二〇三号室をじっと見つめている。
あまりにも静かな彼を見て、少しずつ橘平の頭も冷静になっていった。
「……神代さん?」
「ん?」
「どうしたんですか?」
「いや」
神代はいつものように、へらりと掴みどころのない笑みを浮かべた。
「長谷ちゃん、朝から相変わらず元気やなぁ思て」
「誤魔化さないでくださいよ!」
「ははは」
からからと笑う神代が見せるのは、相変わらずの飄々とした態度だ。
けれど――橘平は気づいていなかった。
神代の目がほんの僅かに細められ、鋭い光を帯びていたことに。そしてその視線が、橘平ではなく、二〇三号室の暗がりに佇む『何か』へ正確に向けられていたことにも。
「……まあ、とりあえず」
神代は橘平の背中を優しく押し込みながら、柔らかく言う。
「お茶でも飲んで落ち着き」
「すみません、いただきます」
今はもう、何も考えたくなかった。
橘平が吸い込まれるように神代の部屋へ入り、バタンと扉が閉まる。
廊下に再び、静寂が戻る。
その直後――。
――カチャ。
誰もいないはずの二〇三号室の暗がりから、包丁が畳と擦れ合うような小さな金属音が、ぽつりと廊下に響き渡った。
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ちゃぶ台を挟んで神代と向かい合う橘平は、カタカタと小刻みに肩を震わせていた。
両手で湯呑みをぎゅっと包み込んでいるものの、温かいはずのお茶の味などほとんど脳裏に残っていない。
「……死ぬかと思った……」
「そら大変やったなぁ」
対する神代は、呆れるほど平然としていた。
自分の分の湯呑みを口元へ運び、ずず、と悠々と茶を啜る。
「…………」
もう一度、ずずず。
「なんでそんな他人事なんですか」
「そりゃ他人事やからなぁ」
「大家でしょうが!」
「大家やけど、ボクが二〇三号室に住んどるわけやないし」
「そういう問題じゃない!」
安定した「ボク、関係ないし?」みたいな態度を取る神代に、橘平は思わず声を荒げた。
しかし神代は何処吹く風で、飄々と橘平を手で制す。
「まあまあ。ほら、茶飲み」
「飲んでますよ……!」
橘平は震える手で湯呑みを持ち上げた。ずずっ。
「……熱っ」
「落ち着いて飲み」
「誰のせいでこんな目に遭ってると思ってるんですか……」
「ボク?」
「そうです!」
「なんで?」
「……いや、このよいまち荘を管理してる人だから……」
「それは責任転嫁とちゃうか?」
「理不尽すぎる!」
神代はけらけらと楽しそうに笑った。そのまま、とんと湯呑みを置く。
何故かその音が部屋に響いた瞬間、室内温度が一気に下がったような気がした。
頬杖を着いていた神代が身体を起こして橘平に向き直る。
「で?」
「……で?」
「何がおったん?」
「だから、女の人ですよ」
橘平はあの薄暗い部屋の光景を思い出し、再び身震いする。
「三十代くらいの……髪の長い女の人です。部屋の中で料理を作ろうとしてたみたいで、鍋とかフライパンとか食材がそこら中にぶち撒けられてて……」
「ふぅん」
「それで」
橘平は一瞬、言葉を詰まらせた。
自身の部屋である二◯五号室から二◯三号室行って逃げ出すまでを頭の中で反芻する。
その途中で、あまりにも摩訶不思議な光景を目にした。
決して現実で起こったと言うには浮世離れしていて、到底信じられない光景だ。
「……身体が、透けたんです」
神代が湯呑みに伸ばしていた手が、一瞬だけぴたりと止まった。
「最初は俺の目がおかしくなったのかと思ったんですけど……絶対に、向こう側の壁が見えてました」
「そうか」
「それに、俺のことを見てるようで見てないんですよ。声をかけても謝っても全然まともな反応が返ってこなくて……挙げ句の果てに、床から出刃包丁拾い上げて」
透けていた、ではなく透けた。
それは、始めから透けていたのではなく、途中で透け始めたということ。
橘平は自分の両腕を固く抱え込み、頭の中からその時の光景を消し去ろうとした。
「……怖すぎるって、あんなの」
「そら怖いわなぁ」
笑うわけでも茶化すわけでもなく、神代は淡々と頷いた。そして、何事もなかったかのようにまた茶を啜る。
「……神代さん」
「ん?」
「なんでそんなに驚かないんですか」
「何が?」
「いや……幽霊が出たなんて、突拍子もない話をしてるのに」
神代は一拍だけ間を置いてから、にっこりと意味深な笑みを浮かべた。
「長谷ちゃん」
「はい」
「世の中にはな」
湯呑みをちゃぶ台にことりと置きながら、神代は静かに、けれど逃げ場のない声で言った。
「知らんほうが幸せなことも、ぎょうさんあるんよ」
橘平は、その言葉の裏にある重みに言葉を失い、黙り込むしかなかった。
室内を包む不気味な静寂の中、神代だけが何事もなかったかのように、再びずず、と茶を啜っていた。
「神代さん」
「ん?」
「じゃあ……あの人、これからどうすればいいんですか?」
橘平の問いかけに、神代は少しだけ目を細めた。
「どうすれば、って?」
「いや、幽霊なんでしょう?」
「たぶんな」
「だったら、あの人はこのまま二〇三号室にずっと居続けるってことですよね」
「そうなるやろな」
「……ずっと?」
「未練が残っとる限りは、な」
「未練?」
その言葉を聞いて、橘平の脳裏に先ほどの異様な光景が鮮明に蘇った。
足元に散らかった鍋やフライパン。
フローリングに転がった食材。
そして、あの女性が虚ろな目で固く握りしめていた出刃包丁。
「幽霊って、皆何かしらの未練があるんですか?」
「皆が皆、ってわけやないけどな」
神代は湯呑みをことりとちゃぶ台に置き、少しだけ真面目な顔つきになった。
「死んだ後もこの世に留まる理由がある奴は、大抵なんかしらの心残りを抱えとる。会いたい人がおるとか、やり残したことがあるとか、伝え忘れたことがあるとか」
「……それを解消できたら?」
「逝ける」
「成仏できるってことですか」
「そういうことや」
あまりにもあっさりと答えるものだから、橘平は思わずじっと神代の顔を見つめ返した。
未練という言葉はヨイも十円玉を介して主張していた。
幽霊という存在は曖昧で、この世を漂っているだけでも何かしらの影響がある。
二◯三号室にいたあの女性が幽霊であるならば、何故あれほどまでの物音を立てることができたのか。
ヨイを数日間間近に見てきた橘平にとって、実物の包丁を握り締められていた女性には確かな違和感があった。
それが何なのかまでが分からないからもどかしい。
「神代さん、妙に詳しいですね」
「まあな」
「なんでですか?」
「大家やから」
「絶対関係ないですよね、それ」
「ははは」
神代は誤魔化すようにからからと笑った。けれど、その奥にある瞳だけは一切笑っていない。
「ただな、長谷ちゃん」
「はい」
「未練があるからって、それを本人がちゃんと自覚しとるとは限らんのよ」
「……え?」
ちゃぶ台に置いた湯呑をクルクルと回しながら、神代はすっとその目を細める。
部屋の照明を反射したからとは言い辛い嫌な光が、彼の目には宿っていた。
「死んだ直後の奴なら、まだ自分が何者で何を望んどるか覚えてることも多い。せやけど、長いことこの世に縛られとると、生前の記憶がどんどん薄れて曖昧になっていく」
「じゃあ、あの人も……」
「自分が一体何をしたかったのか、本人すら分からんくなってる可能性がある」
もしそうならと考えた橘平は黙り込んだ。
あの女性は、確かにあの部屋で何かをしていた。
必死に料理を作ろうとしていた。
けれど、何故あんなにも取り憑かれたように食べ物を撒き散らしていたのか――その理由は本人すら分からなくなっているのかもしれない。
「……だったら、どうやって未練を見つけるんですか?」
「さあな」
「『さあな』って……」
「それを手探りで見つけるんが、未練探しやろ」
「丸投げじゃないですか!」
「いやいや、そんな簡単に答えが出たら誰も苦労せぇへんて」
神代は橘平の反応を見て面白そうに笑う。だが、すぐにすっと表情を引き締め、橘平へと向き直った。
「まずは、あの部屋をよく調べることやな」
「部屋を?」
「未練ってのは、本人が無意識に残した行動の痕跡に出るもんや」
「痕跡……」
「何を大事にしとったんか。何を必死に繰り返しとるんか。何を探し求めてるんか」
神代の言葉に、橘平の頭の中にあの女性が包丁を拾い上げた場面が浮かぶ。
「……料理」
「ん?」
「さっき、あの人……料理をしようとしてたんです」
橘平は記憶を反芻しながら、ぽつりぽつりと説明を始めた。
「鍋やフライパンだけじゃなくて、食材もいっぱい散らばってて。何かを作ろうとして、パニックになって暴れてたみたいで……」
「ほう」
神代が興味深そうに顎に手を当てる。
その仕草をちらりと見た橘平は、ふうと小さく息を吐いて暴れる心臓を落ち着けた。
「なら、まずはそこから探ってみる価値はありそうやな」
「何を作ろうとしていたのか、とかですか?」
「そういうことや」
橘平はしばらく腕を組み、深く考え込んだ。
正直なところ、もう二〇三号室には一歩たりとも足を踏み入れ進みたくはない。
あの透けた身体。
感情の抜け落ちた虚ろな目。
そして、手に握られた鈍く光る包丁。
思い出すだけで、未だに背筋が寒くなる。
それでも――。
「……知ってしまった以上、放っておくのも後味が悪いですし」
「ん?」
「俺が勝手に部屋に押し入ったのも悪かったしな」
橘平は自嘲気味に苦笑した。
突然隣から尋常ではない物音が聞こえてきたのだから気になるのは誰だってそうだが、だからって勝手に部屋に入ってしまったのは良くなかっただろう。
一応謝りはしたが、きっとあの女性には届いていない。
「それに……もしあの人が本当に困ってるなら、俺にできることくらいは手伝ってあげたいです」
神代はそんな橘平の顔を、試すような視線でしばらく見つめていた。
やがて、ふっと満足そうに口元を緩める。
「……関わってしもたんなら、最後まで付き合わなあかんな」
「絶対今思いついたでしょう」
「ばれた?」
「すぐばれますよ」
橘平は呆れながらも、引き攣っていた表情を少しだけ緩めた。
こうして――ヨイの未練探しに続き、二〇三号室に残された女性の未練をも探すことになってしまった。
まずは、彼女がなぜあの散らかった部屋で料理を作り続けているのか。そこから暴いていく必要があるだろう。




