お隣さん・1
どうも皆さん、どうも世界。
長谷川橘平とヨイです。
第一志望の大学の受験に呆気なく敗北し、親と喧嘩して家出してから転がり込んだ「よいまち荘」にて新しい生活を始めようとしていた現在。
大家の神代さんにもその正体を教えてもらえなかった隣人が、隣の部屋で大暴れしています。
*
部屋の中央で、橘平とヨイはぴったりと身を寄せ合っていた。
「…………」
二人とも、息を潜めて隣の壁を凝視している。
ついさっきまで采地との電話やヨイの制服について盛り上がっていたはずなのに、今ではすっかりそれどころではなかった。
――ドンッ!
「ひっ……!」
まただ。
壁の向こうから響いたすさまじい衝撃音に、橘平の肩が跳ね上がる。
恐怖のあまり、思わず隣に座っていたヨイの肩をガシッと掴んでしまった。というのは気の持ちようで、実際は空中を掴んでいるのだが。
「……何なんだよ、これ」
「う……」
ヨイも困惑と不安を混ぜ合わせたような表情で、眉を下げている。
それも当然だ。このアパートへ引っ越してきてから、隣の二〇三号室からは一度だって物音が聞こえたことがなかった。人の気配すら皆無だったのだ。
それなのに――。
――ガンッ!
壁の向こうで、またしても重い金属か家具のようなものが倒れた音が響く。橘平はごくりと生唾を呑み込んだ。
「だ、誰かいるんだよな?」
「う……」
「だよな」
しかし、人の話し声や足音のようなものは一切聞こえてこない。壁越しに響くのは、何かを乱暴に叩きつけたり引き摺ったりしている異様な音ばかりだ。
「そういや、神代さんが言ってたよな」
橘平の脳裏に、神代の飄々とした顔が思い浮かぶ。
『ここの入居者、皆自由人ばっかやから』
誰よりも自由人そうな神代がそんなことを言っていた気がするが。
「これが……自由人?」
「う……」
「いや、絶対違うだろ! 自由のベクトルがおかしいだろ!」
思わずセルフツッコミを入れた直後――。
――ドンッ!
「うわぁっ!」
「うっ!」
二人は揃ってビクッと肩を震わせた。橘平は反射的にヨイの前に躍り出ると、両手を広げて彼女を背中に庇い立てする。
……そして、その直後。
「……って、俺が幽霊庇ってどうすんだよ」
ヨイがぽかんとした表情で橘平を見上げていた。
ちらりと背後を振り返った橘平は、ほんの少し頬を赤らめて顔を逸らす。なんだか無性に恥ずかしい。
「……今の、忘れてくれ」
「う」
そんな情けない遣り取りをしている間にも、壁の向こうでは不気味な音が鳴り続けている。
一体、何が潜んでいるというのだ。
ただのガラが悪い人間なのか。それとも――。
橘平の頭に、嫌な予感が過る。
このアパートに来てから、まだ三日目。ヨイという幽霊と同居することになり、ようやくこの現実を受け入れ始めたばかりだというのに。
「……まさか」
橘平はジリジリと壁を見つめた。
あの壁の向こうに、もしかしなくても⋯⋯もしかしなくても。
「隣にも……何か『ヤバい奴』がいるのか……?」
その問いに、ヨイは答えなかった。ただ、怯えたように橘平の服の裾をキュッとつまむ。
――ドンッ!
部屋を揺らす音に、二人は再びぎゅっと身を寄せ合った。
――ドンッ!!
「…………」
まただ。
何度目になるかも分からない衝撃音に、橘平は眉をひそめた。畳からダイレクトに伝わってくる振動が、神経をジリジリと逆撫でする。
このまま部屋の真ん中で丸くなり、怯えて過ごしていても何も状況は変わらない。
「もう、限界だ」
「う……?」
橘平は意を決して、ゆっくりと立ち上がった。
すると、背後で蹲っていたヨイが慌てて橘平の服の裾へ手を伸ばす。
――すっ。
けれど、その透明な指先は空しく布地をすり抜けた。
「う、う……!」
「え?」
それでもヨイは諦めず、何度も、何度も必死に手を伸ばしてくる。
掴めない。触れられない。
分かっているはずなのに、ヨイは半ば泣きそうになりながら橘平の服を掴もうと指を動かし続けていた。
「……ヨイ?」
「うぅ……!」
目元に涙を溜めたヨイが、ぶんぶんと激しく首を横に振る。
「……行くな、って言いたいのか?」
「う!」
今度ははっきりと、大きく頷いた。
その顔は、今にもポロポロと涙を零しそうだった。
「いや、でもさ……」
橘平は視線をチラリと隣の壁へ向ける。
「このままずっと、あの心臓に悪い音を聞かされ続けるのも嫌だろ?」
「う……!」
「大丈夫だって」
「うぅ……!」
「ちょっと外から様子を見るだけだからさ」
ヨイはなおも必死な顔で首を横に振り続ける。
橘平は困ったようにボリボリと頭を掻いた。
「そんなに怖がるなって。俺だって命は惜しいし、本当にヤバそうだったら一秒で逃げて戻ってくるから」
我ながら情けないことを言ってるが、こういう時は本心を告げた方が相手は安心する。
格好つけた一言も言えない自分に苛立ちながらも、一度屈んでヨイの顔を覗き見た。
「な? だから待っててくれ」
ヨイは不安に押し潰されそうな瞳で橘平を見上げる。
それでも、橘平の決意が固いことを察したのか、最後にはぎこちなく、渋々と頷いてくれた。
その仕草を見て、橘平は満足げに笑うと再び立ち上がる。
「よし」
橘平は筆箱の中から、適当なシャープペンシルを一本手に取った。
当然、こんなものが防犯上の武器になるとは思っていない。
だが、手ぶらで丸腰のまま行くよりは、ほんの少しだけ気持ちがマシな気がしたのだ。
「じゃ、ちょっと行ってくる」
「…………う」
「すぐ戻るからな」
そうと言い残し、橘平は玄関へと向かった。
背中に刺さるヨイの切実な視線を肌で感じながら、ゆっくりと扉を開ける。
廊下へ出ると、やけにひんやりとした外気が肌を撫でた。
先ほどまであれほど激しく鳴り響いていたというのに、廊下に出た途端、嘘のように静まり返る。
(何も、出ないでくれよ⋯⋯)
橘平は、慎重な足取りで隣の扉へと近づいていく。
橘平の部屋は二〇五号室。そして、物音が響いていた問題の部屋は、そのすぐ隣――二〇三号室だ。
「……ここか」
橘平は扉の前で立ち止まり、ゴクリと息を飲んだ。
意を決して、ゆっくりとドアノブへ手を伸ばし、指をかける。軽く力を込めると――。
――カチャ。
「……え?」
開いた。鍵が、掛かっていない。
橘平は思わず目を瞬かせ、手元からゆっくりと室内へと視線を動かした。
「なんで?」
さっきまで、確かに部屋の中に何かがいた。
部屋全体を揺らすほどの物音が響いていたのだ。なのに、鍵すら施錠されていないなんて――。
(ヤバかったら逃げる、ヤバかったら逃げる)
シャープペンシルをギュッと握り直す。
橘平はしばらく扉の前で立ち尽くし、冷や汗を流していた。
そして、意を決して、ギィ……と嫌な音を立てながら、ゆっくりと二〇三号室の扉を押し開けた。
中は、異様なまでに薄暗い。三月下旬とは思えないほど肌寒くもある。
カーテンが固く閉め切られているのか、昼間だというのに部屋の中には妙に光が少なかった。
そして――。
「……何だ、これ」
踏み出した足元には、無造作に転がった大きな鍋。
その隣にはひっくり返ったフライパン。
調理器具や未開封の食材が、部屋のあちこちに散乱していた。台所だけではない。フローリングのあちこちに、醤油や油の瓶までゴロゴロと転がっている。
(気持ち悪い……)
橘平は深く眉を顰め、床に転がるそれらを一つ一つ避けながら部屋の奥へと進む。
まるで、誰かが猛烈な勢いで料理を作ろうとして突然全てを放り投げ、暴れ回ったかのような有様だった。
「誰も、いないのか?」
右手側にあるはずの台所の手前で立ち止まる。
橘平がいる位置からは、自身の部屋と同じ五・五畳の空間が見渡せるはずだった。しかし、薄暗い奥からは一切の人の気配が感じられない。
先ほどまで壁を揺らすほどの音が響いていたというのに、室内には人影一つ見当たらなかった。
「すみませーん……?」
スマートフォンのライトを点け、恐る恐る声をかけてみる。
白い光で室内を照らし出しながら見渡してみるが、橘平の声に返事はない。
「誰か、いませんか?」
もう一度、少し声を張ってみた。
しかしやはり返事はなく、静まり返った部屋に自分の声が空しく響くだけだった。
橘平は、シャープペンシルを固く握り締めたまま、慎重に一歩だけ部屋の奥へ足を踏み入れた。
その瞬間だった。
「――っ!?」
――ガシャンッ!!
すぐ背後で、金属が叩きつけられる激しい音が跳ね跳んだ。
「うわぁっ!?」
橘平は心臓が飛び出るほど驚き、弾かれたように振り返る。
自身の部屋と同じ配置にある台所へスマートフォンのライトを向けると――そこには『それ』が立ち尽くしていた。
(人⋯⋯?)
台所に立ち、橘平に背を向けていたのは一人の女性だった。
年齢は三十代半ばくらいだろうか。長い髪を後ろで無造作に束ね、着古した簡素な部屋着を身に纏っている。
だが、その佇まいには明らかな違和感があった。
橘平にライトで照らされていることにも気づいていないのか、女性は何も言わない。
ただ背を向けたまま、ぼんやりと何処か一点を見つめているようだった。
「あの、すみません」
意を決して声をかけてみると、女性はゆっくりとこちらへ振り返った。
女性は橘平のことを静かに見つめる。その瞳には感情がまるでなく、妙に虚ろだった。
射抜くようなその瞳に見つめられ、橘平はじりじりと一歩後ずさる。
「……誰?」
「っ」
耳から直接入ってくる、ごく普通の人間の声が聞こえた。
「えっと……俺、隣の二〇五号室に昨日引っ越してきた長谷川って言います。あまりにも大きな音がしてたので、様子を見に……」
女性は橘平の言葉に返事をしなかった。
代わりに――開け放たれたドアの先にある廊下へと、ゆったりと視線を移動させる。まるで、誰か別の人間を探しているかのように。
「……あの、大丈夫ですか? 怪我とか……」
橘平が尋ねると、女性はそこでようやく橘平へと視線を戻した。
「……貴方」
「はい?」
「ここに……住んでるの?」
「え、まあ……」
「そう」
女性は、何故か少しだけ寂しそうに口元を綻ばせた。
「そうなんだ」
その瞬間だった。
目の前に立つ女性の身体が――すうっと、薄く透けていく。
「…………え?」
思わずゴシゴシと目を擦って、もう一度見開いて確認する。見間違いではなかった。
女性の着ている部屋着の向こう側に、食器が山積みになったシンクやら食器棚やらが、はっきりと透けて見えていた。
「っ!?」
橘平の顔から、一瞬で血の気が引いていく。
目の錯覚かと思った。けれど、何度瞬きを重ねてみても現実は変わらない。
女性の身体は、確かに薄く透けていた。
白い部屋着の向こう側にあるはずの台所の棚や壁が、ぼんやりと透けて見えている。
「…………」
女性は取り乱す様子もなく、ただ虚ろな目でたたずんでいた。記憶が定着しないのか、それとも現実感がないのか――自分の身体が透けていることすら、意に介していないようだった。
「……どうしたの?」
「い、いや……」
到底現実とは思えない状況に、声が裏返った。
スマートフォンのらいを揺らしながら取り乱す橘平を見て、女性は不思議そうに首を傾げる。
橘平は思わずじりじりと一歩、後ろへ下がった。
(待て待て待て……っ!)
頭の中で、このアパートに引っ越してきてからの出来事が一気に駆け巡る。
よいまち荘。
異様に安い家賃。
誰も住んでいる気配のなかった隣の部屋。
そして、自分の部屋にいた――ヨイ。
(……まさか、ここ事故物件どころか、幽霊アパートなのか……!?)
橘平は、どうにか平静を装って深々と頭を下げた。
「俺、さっき鍵が開いてたので勝手に入ってきちゃって……不法侵入して、本当にすみませんでした!」
もしもこの状態で警察でも呼ばれたりすれば、確実に橘平が捕まる。
いや、幽霊であれば警察など呼ばず己で襲ってくるだろうか。呪ったり祟ったり、今この場で絞め殺されるかもしれない。
そんなもしもを考えながら震え上がっていたが、一向に女性からの反応は感じ取れなかった。
「……?」
不審に思った橘平が恐る恐る顔を上げる。
女性は、橘平のことを見ているようで見ていなかった。身体は橘平に向いたまま、しかしその視線は正面ではなく少し横――開け放たれた玄関の方へ向けられている。
「あの?」
声が届いていないのだろうか。
女性はぼんやりと台所の床を見下ろすと、ゆっくりと腰を屈めた。
「……?」
何をするつもりなのか。
橘平はその場から動けず、引き攣った顔で女性の動作を見つめる。
女性の手が床へ伸び――カチャリ、と硬い金属音が鳴った。
散らばった食材の隙間から先ほど落ちたらしい、大きな出刃包丁を拾い上げたのだ。
(はぁっ!?)
それを見た瞬間、橘平の全身の血液が冷え切る。
女性は包丁を握り締めたまま、その薄暗い刃先をぼんやりと見つめていた。
「……ちょ、ちょっと……」
思わず情けない声が漏れた。
女性が、ゆっくりと顔を上げる。その視線が、今度こそ橘平を真っ直ぐに捉えた。
暗がりの中に浮かぶ、透けた女の輪郭。
手に握られた、鈍く光る包丁。
そして、感情の読み取れない虚ろな瞳。
橘平の喉がゴクリと鳴った。
女性はただ立っているだけだ。それなのに――とてつもなく、怖い。
「……あの」
一歩。橘平が後ろへ下がる。
女性は動かない。ただ包丁を握ったまま、じっと橘平を追うように視線を動かす。
もう一歩。
玄関まで、あと少し。
橘平は、握り締めたシャープペンシルに視線を落とした。こんなプラスチックの文房具、刃物の前では何の役にも立たない。
(いや、そもそも俺は何と戦うつもりだったんだよ!)
完全に冷静さを欠いていた自分に突っ込みを入れるが、それでもシャープペンシルを手放す気にはなれなかった。
「すみません」
小さく呟き、そっと横にスライド移動すると、壁伝いに玄関へと近づく。
その間も女性は橘平の動きを追いながら視線を向けてきていた。
「俺、帰ります!」
女性は何も答えずに透けた身体で包丁を握り締め、静かに橘平を見つめ続けている。
橘平は限界だった。
「す、すみませんでしたぁぁぁっ!!」
ガバッと頭を下げると、勢いよく踵を返す。
散らかった鍋や瓶を必死で飛び越え、靴の踵を踏んづけたまま廊下へ飛び出した。




