オンボロアパート・3
翌朝、采地の家のソファで目が覚めた橘平は、まだ寝惚けている采地に一言言って家を出た。
向かうは、街の片隅に佇む不動産屋。
商店街の中を通って大通りに出ると、通りの角にある不動産屋の扉を重々しく押し開けた。
「いらっしゃいませー」
「……あの」
店内に足を踏み入れた瞬間、緊張で身が強張る。
昨日までの自分であれば、このような場所へ足を運ぶなど露ほども想像していなかった。
「部屋を、探していまして」
「お、一人暮らし?」
帳場の奥に座っていた男が顔を上げる。
五十を過ぎたあたりだろうか。少し腹の出た、人の良さそうな店主であった。
「はい。春から大学に通うので、それを機に一人暮らししようかなって」
「いいねぇ、大人の階段登るわけだ」
店主は手際よく一冊の帳面を取り出した。
「希望の条件は?」
「えっと……」
促されるまま席についた橘平は、昨夜、采地と交わした会話を脳裏に思い浮かべた。
「学舎から近く、できれば最寄りの駅からも至近で……」
「賃料は?」
「……できる限り、抑え目で」
「ははは!」
店主は豪快に笑い声を上げ、白の紙に「賃科 低」とメモを取った。
メモと橘平を交互に見比べると、何かを納得したように頷く。
「やっぱし家賃は気にするわなぁ。大学生になりたてなら、持ってる分もたかが知れてるし」
「……はい」
「まあ、学徒の身であれば当然のことだ」
店主はペンを片手に、いくつか条件を書き留めていく。
「築年数は?」
「……特には」
「広さは?」
「布団とテーブルが置けるだけのスペースがあれば」
「二階以上を望むかい?」
「どちらでも気にしません」
「駅から徒歩何分まで許容できる?」
「……多少の距離であれば」
口にしながら、己の提示する条件が刻一刻と妥協されていくのを感じた。
最初は「大学に近く、駅にも近く、風呂と便所は別」。
けれど、現実はそれほど甘くはないのだ。
「よし。少し探してみるとしよう」
店主が端末に向かい、手指を滑らせる。
しばしの静寂の後――。
「……何件か候補があるな」
「本当ですか?」
「ただし、条件の全てを満たしているわけじゃないが」
「だ、大丈夫ですっ!」
こうして橘平の住処探しが始まった。
最初に案内されたのは、駅から歩いて十分ほどの距離に建つ立派なマンションだった。
「……綺麗な場所だな」
思わず吐息混じりの声が漏れる。
外観も新しく、室内の色調も明るい。キッチンも申し分のない広さだった。
「ここ、すごく良いですね」
「そうだろう?」
店主が得意そうに胸を張る。
部屋の中を一通り見渡し、再び店主のもとに戻った橘平は受け取った書類に目を落とした。
そこに書かれている大きい見出しの数字を見て、絶句する。
「どうした?」
「……高い」
「まあ、そうだよなぁ」
示された数値を前に、一気に厳しい現実へ引き戻された。
これだけの家賃を支払ってしまえば、日々の食費や光熱費に回す金などほとんど残らない。
「まだ一軒目だ。次行くか」
「はい」
二件目。
今度は少々年月の経った古いアパートだった。
駅から距離はあるものの、家賃は一件目より幾分安い。
「ここなら……」
室内を見渡す。広さは十分であり、日の光もよく差し込んでいる。
「家賃、いくらですか?」
「これくらいだな」
橘平はスマートフォンの電卓アプリを開いた。
大学までの通学費。
日々の食費。
光熱費、その他諸々。
脳内で思いつく限りの費用を打ち込み、細かく計算してみる。
「……無理っす⋯⋯⋯交通費がやばい」
「そうか?」
「すんません⋯」
たった数千円、数万円の差。
けれど今の橘平にとっては、その差こそが到底越えられぬ壁である。
(上手く行かないもんだなぁ⋯⋯)
アパートを出て車に乗り込んだ橘平は、窓の外を見て溜息を吐いた。
三件目は、駅からも大学からも近く、室内の状態も決して悪くはない物件だった。
広々としたリビングの中央から、入口の扉付近にいる店主の方に振り返った橘平は、少し緩んだ笑みを見せる。
「いいかもしれません、ここ」
「家賃、確認してみな」
立地も室内の状態も良好。条件自体は橘平の希望通りの部屋なのだが。
やはり、それだけの好条件であれば家賃も高く付く。
「……無理です」
「だよなぁ」
苦笑いの橘平の答えに、店主は豪快な笑いを部屋に響かせた。
(分かってんなら連れてくんなよ)
苦笑いの裏でそう思ってしまった自分を叱責して、橘平と店主は次なる物件に向かうために駐車場に向かった。
それからは、何件かの物件を巡り、その度に何かしらの壁に行き詰まった。
綺麗にリフォームされた部屋の物件は、家賃が論外。
狭い部屋は布団を置いただけでスペースが埋まる。
駅から遠く離れた部屋は交通費が有り得ないほど高く付く。
築年数の著しく古い部屋は、歩く度に板間が軋んでいつか底が抜けるんじゃないかと肝が冷える。
条件を一つ削れば、その分安くなった。
もう一つ削れば、さらに安くなる。
けれど、それでも橘平の手が届く範囲には収まり切らなかった。
「……すみませんでした」
夕暮れ時。
不動産屋へと戻る車中で、橘平は小さく頭を下げた。
「いや、謝ることじゃないさ」
運転席の店主は笑いながら、タバコの吸い殻を携帯灰皿に押し込んだ。
「学生さんが一人で部屋を探すんだ。金の問題に行き当たるのは当たり前だろ」
「ありがとう、ございます⋯⋯」
赤信号で停まった車の中には、なんとも言えない静寂が流れた。
最後の内見が終わった橘平達は不動産屋へと戻り、カウンターに突っ伏した。
一筋縄ではいかないと分かってはいたが、やはり部屋探しというのは中々ハードだ。
「お疲れさん。これ飲んで元気出しな」
「えっ、そんな⋯悪いです!」
店主から缶コーヒーを差し出され、橘平は慌てて顔の前で手を振る。
遠慮する橘平を無視して、店主は缶コーヒーを眼前に押し付けながらニヤリと笑った。
「いーからいーから。それに、まだお前さんは負けてねぇ」
「え?」
差し出された温かい缶コーヒーを受け取りながら、橘平は驚いて顔を上げた。
「……まだ、あるんですか?」
「ああ」
店主はそう言って、カウンターの奥へと歩いていく。
しばらくして戻ってきたその手には、数枚の資料が挟まれたファイルが握られていた。
カウンターを挟んで二人は向き直ると、広げたファイルを次々に捲る。
「実はな。もう一件だけ、候補があるんだよ」
「もう一件……?」
「ああ。まあ、ちょっとばかしクセのある物件なんだがな」
そう言いながら、店主はあるページを開いて橘平の前に差し出した。
「今日見たところより、家賃はさらに安い」
「……!」
トントンと店主が指す物件に目を落とした橘平は、その家賃の低さに目を輝かせた。
築年数は古いが家賃は安く、風呂とトイレも別々。少し狭いが生活する分には何不自由無い優良物件だ。
店主が意味深に口にした「クセのある物件」という点を除けばだが。
「今日はもう遅いし、明日にでも見に行ってこい。明日は別件で俺は一緒に行けねぇがな」
「一人で行っちゃっていいんですか?」
「別に構わねぇよ。実際に見てみて、良さそうだったら連絡くれや」
店主は手にしていた古びた鍵と名刺を橘平の掌に押し付ける。
「ほら」
「……鍵?」
「その部屋の鍵だ」
橘平の掌に、ひんやりとした金属の重みが落ちる。
鍵には、擦れて文字の掠れた小さなタグが付いていた。
「まあ、なんとかなるさ。たぶん」
「……めちゃくちゃ不安なんすけど」
「人生当たって砕けろ。何でもやってみるが勝ちってやつさ」
最後の一言がやけに気になる。部屋探しをしている客に言って良い言葉でない気がするが、文句を許さない圧力がある。
橘平は苦笑紛れにぎゅっと鍵を握り締め、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
「なぁに。せっかくの新生活だ。納得できる部屋を探そうや」
「……はい」
店主は優しく笑いながら、空になったファイルを棚へ戻す。
橘平は掌の中の鍵をじっと見つめ、ただ言いようのない不安に後ろ髪を引かれた。




