オンボロアパート・2
橘平は振り返ることもなく、そのまま闇の中へと駆け出した。
背後から自分を呼ぶ母親の声が掠かに聞こえた気がしたが、聞こえないふりを貫く。
今立ち止まり、その声に耳を傾けてしまえば、二度とこの呪縛から逃げ出せなくなる気がしたのだ。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
荒い息を吐き出しながら、冷気で引き攣る両足をただひたすら前へと動かす。
行き先など何一つ考えてはいなかった。
ただ、あの家から遠ざかりたくて。
歪んだ期待を寄せてくる母親の顔を見るのも、青春の犠牲者たる惨めな勉強机を見るのも、今日届かなかった合格通知の絶望を思い出すのも――その全てが耐え難かった。
「……くそっ」
駅前を抜け、見慣れた商店街のアーケードを通り過ぎる。
感情に任せて疾走したせいか、すぐに肺が焼けるような痛みを訴え始めた。
ようやく立ち止まった頃には、街の明かりは静まり返り、周囲はすっかり深い夜の闇に呑み込まれている。
「…………」
ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面が示す時刻は、すでに午後九時を回っていた。
そこでようやく、沸騰していた橘平の頭が一気に冷え冷えとした現実に引き戻される。
「……俺、今日何処で寝ればいいんだ⋯⋯⋯」
血が引いていく感覚がした。
家を飛び出すことだけに心を奪われ、今夜の宿など何一つ考えていなかったのだ。
財布を取り出し、中の札を改める。示された心許ない残高に、固く眉を顰めた。
「無理だろ、これじゃ」
ホテルに身を寄せる資金など、到底あるはずもなかった。
漫画を買う小銭すら惜しんで勉強を強要されていた身なのだから、当然の帰結である。
そもそも、着替えすら携えていない。鞄の中に納まっているのは、財布と携帯端末、そして数本の筆記用具だけだった。
「俺、馬鹿すぎるだろ……」
こめかみを突き刺すような後悔に、思わず頭を抱え込む。
公園のベンチで夜を明かすという選択肢が頭を掠めたが、肌を刺す季節外れの冷気を感じ、すぐさま脳裏から排除した。
「どうすんだよ」
失意のまま、駅前の木製ベンチに身を投げ出す。
街灯の明かりの下、行き交う人々をただ呆然と眺めた。
寄り添って歩く家族連れ。無邪気に笑い合う友人達。仲睦まじく身を寄せ合う恋人たち。
その誰もが輝く世界に身を置いており、今の橘平にとっては何処までも遠い無関係の存在に思えた。
「阿呆らし⋯」
乾いた笑いが、冷たい夜気の中に虚しく漏れ出た。
その時――。
「あれ?」
突然、頭上から掠れた声が降り注いだ。
「…………?」
橘平は不審に思い、ゆっくりと顔を上げた。
背後にある街灯の強い光が影を作り、佇む人物の容貌を鮮明には捉え切れない。
「こんなところで、何してんの?」
見知らぬ不審者かと思い、橘平は警戒するように僅かに身を引いた。
すると、その影は静かな足取りで街灯の下へと一歩踏み出してくる。
「……って、お前かよ」
「…………え?」
街灯の明かりに照らし出されたのは、あまりにも見慣れた顔立ちであった。
「橘平?」
「……さっちん?」
幼い刻より共に過ごしてきた幼馴染。
大竹采地。小中高とずっと同じ学校に通っていて、大学で志望校が別れた友人だ。
まさか電話を切って間もないこの時分に、このような場所で遭遇しようとは夢にも思わなかった。
「何やってんだよ。こんな夜更けに一人で」
あまりの唐突さに、即座に言葉が出てこない。
采地は眉を顰め、橘平の表情を凝視した。
「……お前、泣いたか?」
「泣いてねぇよ」
「目、真っ赤だけど」
「……うるせぇ」
感情を悟られまいと、橘平は乱暴に顔を逸らした。
采地はそれ以上責め立てるような愚は冒さず、ただ隣の木製ベンチへと静かに腰を下ろした。
「で?」
「……何がだよ」
「何があった」
重苦しい沈黙が二人の間に横たわる。
やがて橘平は、諦めたように細い息を吐き出した。
「……家、出てきたんだ」
「は?」
「母さんと、喧嘩して……もう、あの家には戻りたくない」
采地は口を挟むことなく、ただ僅かに眉根を寄せた。
「……泊まるアテは?」
今しがたぶつかっていた図星を指され、橘平は苦しくも視線を逸らす。
その仕草で采地には全て悟られてしまった。
「まさか、お前」
「……ねぇよ」
「お前なぁ……」
采地は頭を抱え、深く深い呆れを含んだ息を吐いた。
「行く宛てもなく家を飛び出してきたってのか」
「……悪かったな」
「悪いと思ってんなら、こんな冷え切った場所で意地張ってないで来い」
「え?」
「うちに来ればいい」
思いがけぬ申し出に、橘平は思わず目を見開いた。
「……いいのか?」
「いーよ。別に俺一人暮らしだし、部屋狭いけど」
「でも……」
「今更、俺に遠慮なんてすんな」
采地は手際よく立ち上がると、衣類を払う仕草を見せた。
荷物を抱え直して振り返った姿は、街頭も相まって神々しい。
こういう人が手を差し伸べてくれるから、自分みたいな人間は生きていけるのか。橘平は呑気にもそんな事を考えていた。
「ほら、行くぞ」
促されるまま、橘平もゆっくりと身体を起こす。
「……さっちん」
「ん?」
「……ありがと」
「はいはい」
采地は照れ隠しのように視線を前方へ向けた。
視線の先には、終わりを知らない夜の街が何処までも続いている。
二人は肩を並べ、静かな夜道へと足を踏み出した。
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采地の自室は、目を見張るほどに物が少なかった。
無機質なテレビと低い卓、それから慎ましやかに添えられた二人掛けのソファー。
壁際に佇む棚には数冊の文庫が整然と並んでいるのみで、空間を乱す雑多なものは何一つ存在しない。
「……何もねぇな」
「生きる上で必要なものしか置かない主義なんでね」
軽口を叩きながら笑った采地は、そのまま台所へと足を向ける。
「腹、減ってるんだろ?」
「まあ……」
「待ってろ。適当に何か拵えてやるよ」
「お前が?」
「この場に俺以外の料理人がいるとでも?」
やがて卓上には、手際よく作られた温かな夕食が並べられた。
身に沁みる温もりのある飯を口へ運ぶうち、不思議と身体の芯から引き攣っていた力が抜けていく。
家を飛び出した直後は、これからどうなるのかなんて思案する余裕すら存在しなかった。
けれど今は、こうして温かな食に与かり、湯を借り、ソファーに深く身を沈めている。
まるで、何事も起きなかったかのように。
「……うまいな」
「だろ?」
「自分で言うなよ」
「うるせぇ」
食を終えた二人は、ソファーへと肩を並べて腰を下ろした。
点けっぱなしのテレビ画面には、春からの新生活を特集した華やかな映像が流れている。
ぼんやりと光の揺らめきを眺めていた采地が、不意に口を開いた。
「なあ、橘平」
「ん?」
「お前さ、一人暮らしでも始めてみたら?」
「……は?」
唐突な提案に、思わず隣を凝視した。
リモコンを構えたまま、采地は得意げな顔で笑う。
「一人暮らしだよ」
「俺が?」
「そう」
「……金、無いけど」
「だから、死ぬほど安い物件を探すんだろ」
采地は何でもないことのように言ってのけた。
「春からは大学生だ。いつまでも親の庇護に甘んじている必要もない」
その真っ直ぐ過ぎる言葉に、橘平は押し黙った。
確かに、あの冷え切った家には戻りたくない。その想いに偽りはなかった。
ならば、この先どう生きるべきか。
ここでいつまでも采地に寄生し続けるわけにもいかないのだ。
「……一人暮らし、か」
「嫌なのか?」
「いや……」
橘平は視線をテレビ画面へと戻した。
「悪くないかも」
「だろ?」
采地がニッと薄く微笑む。
持っていたリモコンでテレビを消して、ソファに預けていた背を離した。
ソファに座る橘平の一段下にいる采地は、くるりと振り返って言う。
「なら、まずは譲れない条件を決めよう」
「条件?」
「お前が身を寄せるなら、どんな城がいいかってことだよ」
采地は卓上に転がされていた端末を手に取った。
「第一に、賃料は慎重に決めねぇとな」
「少しでも安いところ」
「当然だな」
「あと、大学に通いやすい立地」
「それも不可欠だ。毎日のことだからな」
「駅からも近い方がいい」
「欲張るなよ」
「うるせぇ」
どれもこれも外せない条件なのだ。妥協はできない。
これから決めようとしているのは、自分の人生を形作る“城”なのだから。
「他には?」
「……風呂と便所が分離していること」
「着の身着のままで飛び出してきた身分の癖に、随分と贅沢な注文だな」
「そこだけは絶対に譲れないんだって」
「まあ、理解できなくもないけど」
采地は指を折りながら、一つずつ条件を数え上げていく。
「賃料が格安。学舎から近い。駅からも至近。風呂と便所は別」
「あと、書棚に数多くの本……漫画を並べられるスペース」
「……それは今、どうしても必要なのか?」
「絶対いる」
即座に言い切ると、采地は呆れたように肩を竦めてみせた。
橘平が何故こうも拘り続けるのか、本心を察したから。
「受験を乗り越えた途端に、それか」
「あの受験のせいで、俺は自由を失ったから」
「……その反動ってか。ある意味復讐だな」
そう呟くなり、采地ははっと思い出したように声を上げた。
「……そういえば」
「ん?」
「今日、なんで親と喧嘩したんだよ」
その問に、ユラユラと動かしていた橘平の身体がピタリと止まった。
いつかは聞かれるだろうと思ってはいたが、いざ聞かれると頭の中が真っ白になる。
「今日大学の合格発表日で」
「……あぁ、そっか今日か」
服飾の専門学校を目指していた采地は、去年の十月には合格が決まっていた。
だから、今日の一般入試の合格発表など彼には関係ない。
それでも、受験期の橘平を邪魔をせず時に支えてくれたのは彼だけだった。
「で、落ちた」
見上げていた采地の目が大きく見開かれる。
何と言うべきか迷っているのだろうが、口から何かが出てくることはない。
「受験落ちて、家帰って母さんに言ったら⋯怒られるわけでもなくて。ただ、軽蔑っていうの? そんな目向けられた」
橘平は抱えていたクッションをぎゅっと抱き寄せ、言葉を途切れさせた。
「なんかさ……もう俺に、何ひとつ期待していないんだなーって」
何のために高校生活を捧げていたのか忘れてしまった。
采地の様に有名なアーティストの舞台衣装を作ることが夢であるように、橘平にも何かあったはず。
けれど、もう何も思い出せないし、何もかもがどうでもいい。
「そのくせ、高校じゃあ勉強しろーって頑張って集めた漫画も捨てられてさ」
「あんだけあったのが?」
中学時代は毎日采地が家に来て、一緒に漫画を読んだりしたっけ。
今では遠い昔のことを思い出しながら、橘平は自嘲気味の笑みを浮かべた。
「まだ完結してないのとかあったのになー」
「橘平⋯⋯⋯」
半分閉じたカーテンの外には夜の闇が広がっている。
この時間になっても連絡の一つもよこさない当たり、あの両親には完全に見限られたのだ。
「俺さ……第一志望の大学に受かったら、あの家を出て行くつもりだったんだ」
「おまっ⋯!」
「大人になれば、自分の生き方くらい自分で選べるもんだと思ってたし」
けれど、届かなかった。
不合格という無慈悲な現実。
それでも、今日という日だけは、どうしてもあの閉塞感に耐え切れなかったのだ。
「だから……逃げ出してきたんだ」
采地はしばらくの間、沈黙を守っていた。
やがて、小さく細い息を吐き出す。
「まあ……お前がそこまで追い詰められていたんなら、引き留める術もないんじゃないか?」
「……俺の選択は、正しかったのかな」
「何が?」
「俺、考え無しで家飛び出して、さっちんの家に転がり込んでさ?」
「そりゃあ、紛れもなく身勝手だな」
「おい」
「けど」
二カッと笑った采地は、橘平の胸元を突いて言った。
「お前の人生なんだし、お前の意思でこの先を選んでも誰も責める義理なんて無い」
徐ろに立ち上がった采地は、キッチンに向かうと棚から何かを取り出した。
それをそのまま橘平へと投げつける。
「うわっ!」
顔面の前でそれをキャッチして、閉じた掌を開ける。
采地が投げてきたのは、小さなチョコレートだった。
受験期に母親から当分摂取のためにラムネを食べるように強要されたが、橘平の好きなお菓子はこのメーカーのチョコレート。
采地だけは橘平のことをよく知っていた。
「その代わり、どんな手を使ってでも大学には通い通せよ」
「言われなくても分かってる」
「賃料も、自分で稼ぐこと」
「分かってるって」
「それと、ちゃんと飯も食う。これくらいは俺も手を貸してやる」
「……分かってるて。でも、ありがと」
何度も厳しく念を押され、橘平の唇からようやく小さな笑いが零れ落ちた。
「じゃあ……明日、さっそく不動産屋に行ってみようかな」
「あぁ」
「もう屋根があって寝れたら良い」
「いや、さっきの注文はどうなるんだよ」
「あわよくばってことで!」
二人のささやかな笑い声が、静寂に包まれた室内に何処までも朗らかに響き渡った。




