オンボロアパート・1
「うっっっっっっっっっっそだろ……」
灰色の雲が垂れ込める空の下。整然と並べられた大量の受験番号が躍る看板を前に、生まれて初めての挫折に打ち拉がれていた。
全身の力が抜け、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で耐える。
「おーーーいっ! 長谷川、どーだったー?」
「う、うう……っ!」
無神経に駆け寄ってくる親友の顔を見つめ、心の中でその名を激しく叫んだ。
佐々木――。俺は、俺は……。
「落ちたぁ……っ!」
長谷川橘平。
高校生活の全てを捧げ、青春の望みをすべて注ぎ込んだ三年間の努力は、虚しくもこの冷たい掲示板の前で露と消えた。第一志望の大学には、己の居場所など何処にもなかったのだ。
「はっ!? な、なんかの間違いだって! 俺が見てやるっ!」
動揺した佐々木が橘平の手から強引に受験票を奪い取り、突きつけられた数字と看板の文字を激しく往復させる。
一九五八、一九五八、一九五八……。
「……うん。ねぇな!」
「ああああああああ!!!!!! 俺の青春があああ! 三年間、全部犠牲にしてきたのにいいいいいい!!!!」
あまりに呆気なく、そして容赦のない結末だった。
天を仰ぎ、橘平は心の中で神に問いかける。何故自分なのか。この日のために、どれほどのものを捨ててここを目指してきたのかと。
「……佐々木、お前はどうだったんだよ」
「ん? 俺は受かりましたぁ!」
「―――……!!!」
絶句した。喉の奥が引き攣り、もはや声すら出てこない。
長年連れ添った親友に背後から刺されるというのは、まさにこのような心地を言うのだろう。
「ま、まあっ。そう落ち込むなって! 滑り止めの大学は受かってんだろ?」
「そーだけど……」
渋々返した声は重く沈んでいた。
合格を掴み取ったその滑り止めの大学は、自宅から恐ろしく遠い場所にある。
本当はこの第一志望の大学へ通いたかったのだ。だが、「せめて滑り止めでも受かるのなら」と五月蠅い両親を説得し、ようやく出願を許してもらった経緯があった。
結局のところ、四月からはあの果てしなく遠いキャンパスへ通わねばならないのか。
春の訪れが、これほどまでに重苦しく思えたことはなかった。
家に帰れば、両親からは何と言われるだろうか。
『だから最初から専願で受けておけばよかったのよ!』
怒声混じりのそんな小言が、すでに耳元で嫌な現実味を帯びて響いてくる。
「受験に落ちたくらいで死ぬわけじゃあるまいし、気を取り直していこうや!」
「……受かった奴に言われたくはありませんね」
「悪い……」
深い溜息が零れ落ちる。結局、この広大なキャンパスに足を踏み入れたのは、ただ受験のためだけだったのだ。
ふと、疑問が脳裏を掠める。自分は何故、これほどまでにこの大学に執着していたのだろうか。何に拘り、何を求めていたというのか。
「おーい、長谷川? 何処行くんだよー?」
「何処って……帰るんだよ」
「えっ! もう?」
「敗者に、ここに留まる理由なんてないだろ」
容姿も世渡りも調子の良い佐々木のことだ。大学へ進学すれば、瞬く間に新たな友人に恵まれるに違いない。愛らしい恋人だって、すぐにできるのだろう。
引き換え自分は、知り合いなど誰一人としていない隣県の大学で、息を潜めるようにして生きていくしかないのだ。
「……交通費も、費やした時間も、全部無駄だったな」
改札にICカードをかざせば、表示された残高はわずか三百円足らず。またひとつ、重い溜息が白く煙った。
すれ違う人々からの視線が妙に刺さる。向かいのホームに立つ幼い子供までもが、じっとこちらを凝視していた。
「……俺が何をしたってんだよ」
情けなさに胸が疼く。たかが受験に落ちた程度で目頭を熱くするなど、あまりにも惨めだった。
「……褒められると、思ってたのになぁ……」
あれほど威勢のいい大口を叩いて親を説得したのだ。合格という結果を示せなければ、立つ瀬がない。
『三番線に、電車が到着します―――』
高校生活の三年間。部活動も、甘やかな恋愛も、全てを排して勉学だけに身を捧げてきた。
親との会話すら避け、食事の時間さえ惜しんで机に向かった。近所の知人や友人たちとも距離を置き、青春と呼ばれる眩しい季節をすべて投げ打ってきたのだ。
それほどまでに本気で挑んだ結果が、これなのか。
「…………」
思考を巡らせることすら、急速に億劫になっていく。
この先の進路も、将来の展望も、もはやどうでもよかった。約束されたはずの未来は一瞬にして崩れ去り、色を失ったモノクロームの世界だけが広がっている。
「ねー、見て見て! もう三月も終わるのに雪が降ってる」
「あっ! 本当だ!」
窓の外に舞う淡雪を指差す男女の姿が目に入った。互いに雪を見ていると口にしながらも、その瞳には互いの姿しか映っていない。
「……ちょっとー、何私を見てるのー? 雪を見なよ、雪」
「んー? 雪を見てる姿が可愛かったから、つい」
「なーにーそれー」
チッッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!
思わず舌打ちが零れる。自分がいったい何をしたというのだ。打ちひしがれる目の前で無邪気な幸福を見せつけられる理不尽さに、腹の底から黒い感情が湧き上がってくる。
「……勝手にやってろ」
目的の駅に到着し、群衆に紛れるように電車を降りた。それでも周囲からの奇異の視線は止まない。堪らなくなって上着のフードを深く被り直し、両手をポケットへと突っ込んだ。
客観的に見れば不審そのものの佇まいだろう。だが、自分は何の罪も犯していない。むしろ被害者とすら言えるはずだ。周囲から怪訝な目を向けられる筋合いなど、何処にもない。
「さっむ……」
行き交うスーツ姿の男達や学生達の間を、冷たい風が吹き抜けていく。
駅前に広がっていたのは、季節外れの、少し遅い白銀の世界だった。
逃げるように駅前を後にし、いつもの帰り道を辿って自宅へと駆け込む。
扉を開けると、暖房の柔らかな温もりだけが優しく迎え入れてくれた。
「おかえりなさい。どうだった?」
「あー……」
避けられぬ問いが投げかけられる。
玄関で靴を脱ぎながら振り返れば、問いかけてきた母親の瞳に期待の色など微塵もないことに気がつき、橘平は再び視線を落とした。
「落ちた」
雑に靴を脱ぎ捨て、母親の横を通り抜けて階段を目指す。
背後で母が何かを言いかけ、居間の卓上には温かな夕食が並べられているのが見えたが、気づかぬふりをして自室へと閉じ籠もった。
部屋に入った瞬間、身体から急速に力が抜け落ち、吸い寄せられるようにベッドへ倒れ込む。追って目の奥がじんじんと痛み始めた。
寝返りを打つと、勉強机の上に積まれた赤本が視界に入る。決して安くはない一冊だった。あれがあれば、漫画本が三冊以上は買えたはずだ。
かつて中学を卒業するまでは漫画で埋め尽くされていた本棚は、今や数冊の参考書が寂しく並ぶばかりである。
『受験勉強に、そんなものは必要ないでしょう』
そう言って、全てを捨て去ったのは母親だった。
「くっそ……っ」
胸の底から湧き上がる怒りと不快感が、頭を酷く苛む。
「……あ、そうだ」
ふと、思い至る。
自分に対して一筋の期待すら寄せていない親の元で、何故今更暮らす必要があるのだろうか。
春からは大学生であり、一人の大人だ。己の進む道くらい、自分で決める権利があるはずだった。
「出て行ってやる……こんな家、こんな街……っ!」
手近にあったリュックをひっくり返し、中に詰まっていた参考書や筆記用具を部屋の床へぶち撒ける。代わりに、財布やスマートフォンといった最低限の荷物だけを押し込み、背に担いだ。
この部屋に愛着など一欠片も無かったからこそ、行動は酷く迅速だった。
娯楽の「娯」の字すら排除された空間。ここはただ、受験のために勉強し、眠るためだけに与えられた部屋に過ぎない。
思い入れなど、残っているはずもなかった。
「……何処に行くの?」
再び外へ出ようと玄関で靴を履いていると、先ほどよりも何処か柔らかくなった母親の声が届いた。
「お世話になりました」
「えっ、何を言っているの?」
「俺、出て行くから」
「はあ!?」
静寂を切り裂くように、母親の刺々しい声が狭い玄関に響き渡った。
「何処でもいいだろ」
視線も合わせず、短く吐き捨てる。
「よくないでしょう! 大学はどうするの? お金だって――」
「自分でなんとかする」
「何とかするって、簡単に言わないで!」
金切り声に近い怒声が、頭上から降り注ぐ。
「今まで誰が貴方のために――」
「俺のため?」
その言葉が耳に届いた瞬間、橘平は靴を履きかける足をピタリと止めた。
ゆっくりと振り返るその瞳には、暗い感情が渦巻いている。
「……何が俺のためだよ」
「橘平」
「俺がいつ頼んだんだよ!」
「そんな言い方――」
「漫画も捨てた! 友達と遊ぶのも駄目! 毎日毎日、勉強しろ、勉強しろって……!」
今まで奥歯を噛み締めて耐え続けてきた感情の濁流が、堰を切ったように喉元から溢れ出した。胸の奥が焼き切れるように熱い。
「俺が何をしたっていうんだよ!」
「お母さんは、貴方の将来を思って――」
「俺の将来を、俺自身が決めちゃ駄目なのかよ!」
「そういうことを言ってるんじゃないでしょう!」
「じゃあ何なんだよ!」
狭い玄関の壁を震わせるほどの叫びが交錯する。
母親は反論しようと口を開きかけたが、何かを察したように言葉を詰まらせ、そのまま固まった。
その言い淀むような沈黙こそが、橘平には何よりも激しい嫌悪感を抱かせた。
「もう、いい加減にしろよっ!!!!」
咽び泣くような叫びと共に、鉄製の重い玄関扉を力任せに押し開ける。
「橘平!」
縋り付くような母親の喚き声が背後から追いかけてきた。
けれど、一度たりとも振り返りはしない。
一歩外へ踏み出せば、ナイフのように尖った冷たい夜風が頬を強く叩く。
重厚なドアが閉まる鈍い音を最後に、自分を縛り付けていた全ての声が遠ざかっていった。
行く当てなど、何処にもない。
それでも――もう二度と、あの冷え切った家へ足を踏み入れるつもりはなかった。




