二人の朝・4
玄関の鍵を回し、重い鉄の扉をゆっくりと押し開ける。
「……ただいま」
無意識に零れた言葉だった。
薄暗い玄関で靴を脱ぎ、両手のポリ袋を持ち直して畳の部屋へ上がる。
すると――。
「う!」
奥の押し入れから、ヨイがたたっと駆けてきた。
幽霊らしく空中をふわりと漂ってくるわけでもない。まるで生きている人間のように、小さく畳を鳴らしながら一直線に寄ってくる。
「ただいま、ヨイ」
「ん!」
いつもなら、まるで犬のように分かりやすく尻尾を振る勢いで喜んでくれるはずのヨイだった。
だが今日は違った。橘平の顔をまじまじと見つめた瞬間、その表情が固まる。ハッとしたように小さな眉を八の字に下げ、心配そうにこちらの顔を覗き込んできた。
「……なんだよ」
「う……」
「そんな顔すんなって。別に何でもないから」
橘平は無理に口角を上げ、笑ってみせようとした。
けれど、強張った顔の筋肉は上手く動いてくれず、自分でも引きつっているのが分かるような酷い顔にしかならなかった。
持っていた買い物袋を、畳の上にどさりと置く。
「……ちょっとさ。外で、嫌なことがあっただけ」
ヨイは何も言わず、ただじっと橘平を見つめ続けている。逃げ場のないほど真っ直ぐな瞳に耐えきれず、橘平は小さく息を吐いて視線を横に逸らした。
何故だろう。
普段の自分なら、こんな情けない弱音を誰かに漏らすなんて口が裂けても出来なかった。実家にいた頃だって、悔しいことや辛いことがあっても全部自分の中に溜め込んで、平気な顔を作ってきたのだ。
ましてや、相手は出会ったばかりの、言葉すらまともに通じない幽霊の少女。
それなのに――。
「……今日さ」
気づけば、抑え込んでいた感情の栓が外れていた。自分でも止めることができないまま、言葉が口から漏れ出していく。
「スーパーに行った帰りに……佐々木に会ったんだ」
「……?」
「佐々木ってのは、高校の時……いや、中学の時からずっと一緒に勉強してたやつでさ。クラスもずっと同じで、志望校も同じで。ずっと並んで走ってきた親友なんだよ」
ヨイは首を少し傾げ、静かに橘平の話に耳を傾けている。
「……あいつ、受かったんだよ」
口にすると、改めて現実が重く伸し掛かってくる。
「俺は、落ちた」
文字にして口に出した瞬間、胸の奥がずしりと重くなった。喉の奥がキュッと絞めつけられるような苦しさが襲ってくる。
「合格発表の日も、二人で一緒に見に行ったんだ。掲示板の前でさ、あいつの番号はちゃんとあって……でも、俺の番号は何処を探してもなかった。あの瞬間のこと、今でも鮮明に覚えてる」
橘平は力無くその場に膝をつき、畳の上に直接腰を下ろした。
ヨイもまた、橘平の動きに合わせてその正面に静かに座り直す。
「放課後も、休日も、遊ぶのを我慢してずっと勉強したんだ。同じ参考書買ってさ、同じ模試受けて、同じ判定に一喜一憂して……二人で同じキャンパス行こうなって、ずっと話してたのに」
橘平は自嘲気味に鼻で笑った。
言葉にすればするほど、今更嘆いている自分も、過去に必死になっていた自分も馬鹿馬鹿しく感じる。
「……なのに、俺だけ落ちた」
何だかヨイの顔を見る気にはれなくて畳の上に視線を落としていても、足元まで広がったヨイの髪は悲しげに垂れている。
「あいつが悪いわけじゃないんだよ。そんなこと、俺が一番分かってる。あいつは誰よりも努力してたし、受かったのはあいつが掴み取った当然の結果だ。だから、本当なら……『おめでとう』って笑って握手しなきゃいけなかったんだよ。親友なら、そうするべきだろ?」
橘平は膝の上に置いた自分の両拳を、ギュッと強く握り閉めた。
「でも、無理だった。無理だったんだよ……」
深く俯くと、ポタポタと視界が滲んでいくのが分かった。
「あいつの顔を見るだけで、自分の惨めさが突きつけられる気がして……『なんで俺だけなんだよ』って、最低な感情が込み上げてきてさ。合格発表の時も、今日の帰り道も、おめでとうの一言すら言わずに逃げ出してきた」
一度溢れ出したドロドロとした感情は、もう誰にも止められなかった。
逃げ出した自分が情けなくて、全てを捨ててここにいる自分が情けなくて。
「家に帰ったら、母さん俺に何の言葉もかけてくれなかったんだ。ああ、見限られたんだなって。我儘言って大学受験したのに、そこに落ちて、結局滑り止めの大学に入学することになってさ。母さんの顔見たら、昔漫画全部捨てられたこととか、勉強しろ、いい大学に入れって言われ続けたこととか思い出して……だから逃げるみたいに家を飛び出してさ……」
膝に落とした視線の先で、ポツポツと畳の上に小さな濃い染みが広がっていく。
「……俺、何やってんだろうな」
自分を嘲るように、力無く笑う。
「第一志望の大学には落ちて、家からは逃げ出して、親とも喧嘩して、たった一人の親友の合格すら祝えずに壊して……。こんな奴がさ、こんなところで一人で生きていけるわけないよな」
胸の中に溜まっていた泥のような感情を、全て吐き出した。
静まり返った部屋の中に、橘平の荒い息遣いだけが響く。
ヨイは何も言わない。
『大丈夫だよ』とも『可哀想に』とも言わない。ただ、少しも揺らがない真っ直ぐな瞳で、橘平の情けない姿をしっかりと見つめていた。
それが――不思議と、嫌ではなかった。
世間体を取り繕う言葉も、上辺だけの哀れみも、気休めの慰めもそこにはない。ただそこにいて、橘平の吐き出した醜い感情を、そのまままるごと受け止めてくれている。
「変だよな。なんで幽霊のお前に、こんなこと話してんだろ」
ヨイは橘平の目の前まで近づくと、フルフルと首を横に振る。
「ヨイが幽霊で……言葉を返さないから、なのかな」
涙を拭おうとしてくれているのか、何度も透けた手が近づく。
けれど、拭うどころか触れることすらできない。その度に、橘平以上にヨイは悲しげな顔をした。
「はは……」
橘平は目元を袖でゴシゴシと擦りながら、小さく笑った。
何も否定せず、何も求めず、ただ隣にいてくれる小さな存在。
その温もりとも言えない確かな気配を感じている内に、あれほど胸を締め付けていた冷たい苦しみが、少しずつ、少しずつ解けていくような気がした。
「……ごめんな。帰って来て早々暗い話して」
「うう」
「それと……聞いてくれて、ありがとな」
「ん」
ヨイは小さく、けれどとびきり力強く頷いてみせた。
たったそれだけの返事。言葉にならないその一言が、暗闇の中にいた橘平の心を確かに救っていた。
やがてトースターからチーンと軽い電子音が鳴り、香ばしく甘いバターと小麦の匂いが部屋中に漂ってきた。
橘平の止まっていた新生活は、そんな当たり前で小さな日常の一歩から、再び確かに動き始めたのだった。
「ん、焼けたからそこ座って」
元々部屋にあったダイニングテーブルを挟んで椅子に座り、向かいにいるヨイの前に焼けた食パンを差し出す。
すると、
「え!?」
何がどういうわけか、ヨイが食パンに触れるとその食パンが幽体離脱したのだ。
確かに皿の上に食パンはある。しかし、ヨイの手の中にも透けた食パンがあった。
「幽霊ってすげぇ⋯⋯」
ヨイは幽体離脱した食パンを美味しそうに頬張っている。ジャムもバターも塗っていない素材の味を無邪気に楽しんでいる。
(ま、いいか)
幽霊は、実態を直接食べることはできないが、その魂(?)概念(?)を食べることができるらしい。
ヨイが食べ終わった後に残された食パンは、水分が抜かれたようにカラカラに乾いていた。




