二人の朝・3
スーパーに着くと、橘平は買い物かごを片手にふらふらと店内を練り歩く。
「さてと」
まずは今日の朝飯。それから昼と夜の分だ。
幸い小さな冷蔵庫は部屋にあるため、ある程度の買い置きはできる。しかし、買い過ぎても消費できないし、かと言って毎日外食などできるはずもない。
一人暮らしを始めてからというもの、毎日のように何かの問題に追われている気がする。
「食パンに……卵……牛乳……」
必要そうなものを一つずつかごへ入れていく。インスタントの味噌汁、レトルトカレー、数日分の米、安い惣菜。
料理などしたことがないから素材を買ってもどうしようもない。
今はインスタント系を集めて、せめて飢えを凌げればそれで良かった。
「ヨイ、何が好きなんだろう」
幽霊とは言え、生前に好きな食べ物の一つや二つあったのだろう。
好きな食べ物くらい分かれば、親睦を深めるために買っていってやることもできるのだが。
(考えたって仕方がないか)
多少の寂しさは感じつつも、気を取り直してレジに向かう。
会計を済ませ、両手にずっしりと重いポリ袋を提げて店を出た。昼前の暖かな日差しが降り注いでいる。
「…………」
アパートへの道を歩きながら、ふと思う。
昨日までは、自分一人がどうやって生きていくかばかり考えていた。お金のこと。家を出たこと。これからの生活のこと。なのに――。
「ヨイ、大丈夫かな」
それは無意識の内にぽつりと口を突いて出ていた。
留守番を頼んだだけなのだから、何か起きるはずもない。
そもそも相手は幽霊だ。人間より遥かに頑丈……なのかは知らないが、誰かに襲われたとて何か影響があるわけではない。
(何考えてんだ、俺)
お人好しにもほどがあるだろうと、思わず苦笑する。
買い物をしている間も、頭の何処かでヨイの姿が浮かんでいた。押し入れで丸まって寝ていた顔。エア掃除で楽しそうに腕を振る姿。そして、昨日交わした『未練を探す』という約束。
出会って、まだ二日。それなのに、自分の生活の中に彼女がいることが当たり前になりつつある。
「……変なの」
照れくささを誤魔化すように小さく笑った、その時だった。
「――あれ? 長谷川?」
聞き覚えのある声に、ぴたりと足が止まった。
「あ⋯⋯」
前方から歩いてくる青年に、見間違えるはずがなかった。昔から何度も一緒に遊び、高校に入ってからもくだらないことで笑い合った――かつての親友。
「やっぱり長谷川じゃん!」
かつて親友“だった”佐々木は駆け寄ってくると、驚いたように目を丸くした。
「こんなところで何してんの? 合格発表の日以来連絡つかないから、どうしたのかと思ってたわ」
「……ああ。ちょっと忙しくて」
橘平の声は、どうしてもよそよそしくなってしまう。大学受験の不合格を知ってから、あんなに仲の良かった佐々木からの連絡を全て無視していたのだ。
けれど、佐々木は探るような真似はせず、橘平が提げている大きな買い物袋へ視線を落とした。
「ていうか、なんでこんなとこにいんの? ここ、お前の実家と全然方向違うだろ」
「……あー、いや」
言われてみればその通りだ。実家からここまでは電車を使ってもそれなりに距離がある。普段なら訪れる理由すらない地域だ。
「買い物?」
「うん。この近くに住んでるから」
「……は?」
何気なく口にした言葉に、佐々木の動きが止まった。
「近くに住んでるって……お前、引っ越したの?」
「……少し前からな」
「マジで!?」
通行人に奇異の目を向けられようと関係なく、佐々木は驚いたように目を大きく見開いた。
あまりの気迫に、橘平は身を仰け反らせて距離を取ろうとする。
「じゃあ大学決まって、一人暮らし始めたってことか?」
橘平は、喉の奥に苦いものが広がるのを感じながら、曖昧に口を開いた。
「……まあ、そんなところ」
「へぇ! すげーじゃん」
佐々木は素直に感心したように頷く。けれど、すぐに思い出したように首を傾げた。
「でも待てよ……お前が受けるって言ってた大学、実家から通える場所じゃなかったか?」
「それは⋯」
橘平の声が、意図せず低く沈んだ。
それ以上、踏み込まないでくれ。察してくれ。
そう言ってしまいそうになるが、強く口を噤んで堪える。
僅かなその空気の変化に、佐々木の言葉が途切れた。
昔からずっと一緒にいたからこそ、すぐに分かってしまったのだ。橘平がこういう顔をする時は、これ以上触れてはいけない話題なのだと。
二人の間に、気まずい静寂が落ちる。
暖かな春の日差しの中で、橘平の手の中にある買い物袋だけが、やけに重く感じられた。
橘平が押し黙っている間、佐々木は何も言わない。
ただ、気まずそうに静かに視線を逸らす。その反応だけで、橘平には十分すぎるほどだった。
「あの時にも言っただろ」
ぽつりと、俯いて表情を隠した橘平が口を開く。
「俺、落ちたんだよ」
「……」
「お前は受かった」
「……うん」
何を言っても短い返事しか返ってこない。
分かっている。そんなことは、あの日からずっと頭から離れないのだ。
大学の合格発表の日。
二人並んで掲示板を見に行って――佐々木の番号はあって、自分の番号だけがなかった。あの瞬間の凍りついた空気を、橘平はまだ鮮明に覚えている。
「……高校の頃さ」
買い物袋を握り締める手に、ぐっと力が入る。
そうして気づく。佐々木の姿を目にした時から、ずっと怒りで手が震えていたことに。
「俺達、ずっと一緒に頑張ってきたよな」
「……ああ」
「放課後、図書室で残って勉強したりさ」
「うん」
「休日だって、遊ぶの我慢して……同じ問題集やって、同じ模試受けて……」
そこで、橘平は言葉を詰まらせた。胸の奥底にずっと押し込めていたドロドロとした感情が、勢いよく込み上げてくる。
分かっている、こんなの単なる腹いせでしかないと。
大学に落ちたのは佐々木のせいでも何でもない。ただ、自分の実力不足だっただけ。
そう分かっているはずなのに、一度開いた口からは次から次へと言葉が溢れ出してくる。
「なのに、なんでお前だけなんだよ」
「長谷川……」
「……っ」
口にしてから、橘平自身が一番吐き気を覚えた。
こんな汚い言葉を言うつもりじゃなかった。佐々木に怒っているわけじゃない。佐々木が努力して合格を掴み取ったことだって、親友として喜んでやるべきだったのだ。
それなのに、それなのに――。
「……ごめん」
消え入りそうなほど小さい声が聞こえて、橘平は慌てて顔を上げる。
「なんで……なんでお前が謝るんだよ」
「いや……」
「お前は何も悪くないだろ!」
言いながら、自分の声が情けなく震えているのが分かった。
「俺が勝手に落ちただけだ。お前が受かったのは、お前が血の滲むような努力をしたからだろ」
「……うん」
「だったら、俺が嫉妬すんのは……筋違いだろ」
橘平はへらりと笑おうとした。けれど、引き攣った口元は上手く形を作ってくれない。
「頭では分かってんだよ」
佐々木は何も悪くない。今だって、連絡のつかなくなった自分を本気で心配して声をかけてくれたのだ。
それでも――。
「今のお前と並んでると……自分が惨めで、おかしくなりそうなんだ」
佐々木の顔が、衝撃と絶望に染まる。
その顔を見た橘平は、思わず顔を背けた。
「だから……悪い。しばらく俺に関わらないでくれ」
「長谷川――!」
それだけを吐き捨て、橘平は佐々木の横をすり抜けた。
「待ってくれよ、長谷川!」
背後から切羽詰まった声が飛んでくる。けれど、絶対に振り返らなかった。これ以上顔を見れば、もっと最低で酷い言葉で親友を傷つけてしまいそうだったからだ。
「…………」
やがて、追い駆けてくる足音も途切れた。
二人の間に残されたのは、二度と戻らないかもしれない決定的な亀裂だけ。
昔は、何でも話せた。
くだらないことで笑い転げて、同じ夢を見て、ずっとこの関係が続いていくのだと信じて疑わなかった。
けれど、たった一度の受験結果で、こんなにも呆気なく壊れてしまうのか。
橘平は目元を強く拭い、買い物袋を握り直して前だけを見据えて歩いた。
その先に待っている、よいまち荘へ。
そして――冷たい現実の中で、唯一自分を否定せずに待ってくれている、あの少女の元へ。




