二人の朝・2
――朝。
「……ん」
橘平はガバッと勢いよく身体を起こした。
「……っ、ハ?」
寝ぼけた頭で、周囲を見回す。
見慣れない天井。昨日買ったばかりの安いカーテン。そして、最低限の荷物しか置かれていないがらんとした部屋。
「あ」
数秒遅れて、ここが自分の新居だと思い出した。
枕元に転がっていたスマートフォンを確認すると、画面には『10:12』の文字。
ネイビーのカーテンすらも貫通するほどの眩い光が部屋の中に降り注いでいる。
「マジかよ……」
スマートフォンを握り締めたまま、思わず頭を抱えた。
大学はまだ春休み中だ。遅刻の心配なんて何処にもない。それでも、こんな時間まで寝ていたことには、ちょっとした罪悪感が押し寄せてくる。
「……まあ、昨日色々ありすぎたしな」
大家に部屋の中に引きずり込まれるわ。
布団やらカーテンやらを買いにショッピングモールまで行くわ。そして何故か神代は付いて来るわ。
部屋の掃除をして布団を敷いて。
そして――ヨイの未練探しをすることが決まって。
昨日一日だけでも、普通の人間なら一年分くらいの濃厚なイベントを消化した気がする。正式に入居して、幽霊との奇妙な同居生活が始まってしまったのだ。
「……とはいえ」
橘平は布団から起き上がると、ガシガシと頭を掻いた。
「自分の生活まで疎かにするわけにはいかないよな」
大学生活はこれから始まる。講義もあるし、バイトも探さなければいけない。
何より一人暮らしなのだから、飯も洗濯も全部自分でこなさなければ生きていけないのだ。
「ヨイのことばっか考えてるわけにもいかないか」
独り言を呟いたところで――ふと、視線が静まり返った押し入れへ向いた。
昨日から、ヨイはあそこを自分の部屋代わりにしている。
出会った時もあの押し入れの天井裏で、昨晩も自分からあの中に吸い込まれていった。
「そういや、寝てんのかな」
幽霊は寝るのかという質問に「う!」と答えたヨイは、あの中で寝ているのだろうか。勝手に幽霊は寝ないと解釈してしまったが。
橘平は立ち上がり、押し入れへ歩み寄った。襖に手を掛け、静かに引き開ける。
「…………」
いた。
薄暗い押し入れの中。布団も何もない空間で、ヨイが小さく丸まって眠っていた。
長い髪を頬に垂らし、膝を抱えるようにして静かに目を閉じている。
「無防備すぎだろ」
最初に出会った時の、あの警戒心は何処へ行ったのかと思うような姿だ。
「ていうか、こんな板の上で寝ていて身体痛くねぇのかな?」
幽霊だったら板の上だろうが布団の上だろうが痛みを感じないのだろうか。
襖やら壁やら貫通する割に、ちゃんと押し入れの二階に横になっているのだから幽霊の当たり判定はよく分からない。
そんな素朴な疑問が浮かんだが、それを本人に問うのも気が引ける。端からまともな返答などなさそうだし。
(起こした方が、いいのか⋯)
思わず起こすのも躊躇ってしまうほど、目の前のヨイは心地よさそうに眠っている。今のヨイは静かで、何処か儚げだった。
「…………」
しばらく眺めていた橘平だったが――。
「いや、起こすか」
未練探しのために、大学の授業もバイトも何も無い今こそ、動けるだけ動いていきたい。
だから、これからの予定を立てるためにも話がしたいのが現状だ。
「ヨイ」
「…………」
「おーい」
「…………」
何度か声を掛けてみるが、返事がない。
「ヨイ?」
少し声を大きくして、襖を軽く叩いてみる。
すると――。
「……う?」
ヨイの肩がピクッと跳ねた。
「起きたか?」
「…………うぅ」
「おはよう」
ヨイはゆっくりと目を開けた。ぼんやりとした瞳で橘平を見上げて――。
「…………う」
「まだ寝ぼけてんのかよ」
ただでさえ長い髪を全て前に流して、自分の神で視界を塞がれてしまっている。寝惚けているのか、自身の視界が闇に包まれている理由が自身の髪だと気づいていないらしい。
そのあまりの無防備さに、橘平は思わず笑ってしまった。
「ほら、出ておいで」
「ん」
ヨイの身体がふわりと浮かび上がる。そのまま押し入れから滑り出し、畳の上へストッと降り立った。
「さて」
橘平はその場に座り込む。ヨイも向かい側にちょこんと腰を下ろした。
まだ寝惚けているのか、表情が何処かとろけている。幽霊は寝ないと解釈してしまったのは、橘平の誤りだったのだろうか。
「今日の予定を決めよう」
「う?」
「まず一つ目。俺の生活基盤を整える」
指を一本立てる。
「で、二つ目」
二本目を立てた。
「ヨイの未練について調べる」
これは、自身の生活基盤を整えるよりも遥かに困難なこと。
そう簡単に解決できるものではないが、かと言って逃げられるものでもない。
未練を一緒に探すと言ってしまった以上、安易にやめるとも言えないのだ。
橘平は昨日の自分が口にしたことを半ば後悔しながら、ノートに書き出したことを思い出していく。
「昨日は、制服が手掛かりになるかもしれないって話しただろ?」
「う!」
「だから今日は、その変から探ってみよう」
ヨイが嬉しそうにこくこくと頷いた。
つられて橘平も表情を綻ばせようとすると――。
―――ぐぅぅぅぅぅ。
明らかに橘平のものである腹の虫が部屋中に響いた。
その音を間近で聞いたヨイが身体をビクッと震わせて怯える。橘平は、昨日、神代にラーメンを奢ってもらったきり何も食べていないことを思い出した。
「ただ、その前に朝飯だな」
ここでもまた実家での暮らしを思い出す。
毎日決まった時間に目覚め、一時間ほど勉強してリビングに行くと朝ごはんが用意されている。
栄養と彩だけを考えた朝ごはん。一度だって美味しいと思ったことはない。
だが、昨日の帰り道の車の中で聞いた神代の言葉が蘇る。
『今まで親に決められてたことも、これからは全部自分で決められる。朝何時に起きるかも、何処で何を食うかも、休みの日に何処へ行くかもな』
もしも、第一志望の大学に受かっていたら。
親の敷いたレールを歩むだけの人生だったのだろうか。
神代が語った自分で何をするか決める自由な暮らしなど訪れなかったのだろうか。
そう思うと、なんだか無性に寂しく感じた。
「ヨイって、なんか食べられたりするのか?」
沈む気持ちを誤魔化すように、目の前の少女へと視線を向ける。
ヨイの視線は、部屋の隅にあるノートと十円玉へ向いた。
「……まず、そこから確認しないとダメか」
「う!」
「はいはい。じゃあ、まずは朝飯の検証からな」
こうして、橘平とヨイの二日目の共同生活が静かに動き出した。
そして、一日の始まりは朝飯から始まる。そう思って部屋の中を見回してみるのだが。
「…………」
食べ物らしいものは何一つ無い。
冷蔵庫の中も確認するが、入居した日に確認したっきり一度も開けていないのだから食料が入っているはずもない。と言うか、まず電源が入っていない。
「そういや、昨日何も買ってなかったな……」
引っ越してきたばかりなのだから当然と言えば当然だ。昨日は生活用品を揃えるだけで手一杯だったのだから。
冷蔵庫を閉めながら考えた橘平は、徐ろにヨイへと振り返った。
「ヨイ」
「う?」
「俺、ちょっと近所に買い物行ってくる」
橘平は財布とスマートフォンをポケットへ入れ、辺りにほったらかしにしていた上着を掴み上げる。
「その間、留守番頼めるか?」
せっせと支度を始める橘平を見つめながら、ヨイは少しだけ首を傾げた。
その仕草を見て、またも橘平は額を抑える。
「まあ、俺が言わなくてもここから出られないんだもんな」
「う……」
「ごめんごめん。じゃあ、すぐ戻ってくるから」
「う!」
玄関へ向き、スニーカーに足を滑り込ませる。扉を開けて部屋を出ると、カチャリと鍵を掛けた。
階段を降り、一階の共有スペースに着いたところで――。
「お」
「……あ」
ちょうどゴミ捨てに出ようとしていた神代と鉢合わせた。その両手には、大きなゴミ袋がいくつか提げられている。
「おはよ、長谷ちゃん」
「おはようございます」
「えらい起きんの遅かったやん。もう十時半やで」
「それ、あんたもですよね」
「ボクはええねん。大家やから」
「その理屈、昨日からずっと意味分かんないんですけど」
神代はけらけらと楽しそうに笑う。
「で、長谷ちゃんは何処行くん?」
「近所のスーパーです。部屋に食べるものが何もなくて」
「あー、そらそうか。昨日は日用品買うだけで手一杯やったもんな」
「はい。朝飯すらないのは流石に困るんで」
「気ぃつけて行って来いや」
「神代さんも、ゴミ捨て頑張ってください」
「なんやその言い方」
「いや、大家さん自らゴミ捨てしてるのがちょっと意外で」
「ボク、こう見えて結構働き者やで?」
「……どう見てもそうは見えないですけど」
「失礼やなぁ!」
神代が大袈裟に肩を落とす。橘平は呆れ混じりの苦笑いを浮かべながら、アパートの敷地を出た。
「じゃ、行ってきます」
「おう、行ってらっしゃい」
軽く手を振って歩き出す。背後では、神代がゴミ袋を抱え直している気配がした。
橘平は振り返らず、歩きながら心の中で呟く。
(……あの人、普段は何やって生計立ててんだ?)
まあ大家なのだから、このアパートの家賃収入があるのだろう。……たぶん。
「まあ、いっか」
今は大家の私生活よりも、目の前の食料だ。
スマートフォンを取り出し、マップアプリで近所のスーパーへの道順を確認する。
昨日まで何もなかった自分の新生活が、今日から少しずつ動き出していく。
まずは、今日の朝飯と――それから、ヨイが食べられるかどうかの実験用の品だ。
「……何買うかな」
橘平は爽やかな朝の街へ、しっかりと踏み出していった。




