二人の朝・1
買ってきたばかりの布団を敷き終えた橘平は、畳の上にどっかりと腰を下ろした。
向かいには、ちょこんと座るヨイ。
二人の間には、昨日作ったノートの文字盤と十円玉が置かれている。
「なあ、ヨイ」
「う?」
「ちょっと、聞きたいことがあるんだけど」
含みのある橘平の言い方に、ヨイが不思議そうに首を傾げる。
橘平はノートの中央に置いた十円玉へ、静かに指を添えた。
「昨日からずっと気になってたんだ」
橘平は、真っ直ぐに目の前の不安定な存在である少女の目を見つめた。
「お前……なんで、ここにいるんだ?」
それは、ヨイという存在を受け入れようとし、この空間に馴染み始めたからこそ抱いた疑問。
入居初日から当たり前のようにこの部屋にいたヨイだが、その素性は謎に包まれている。
ヨイも問われるなりバツが悪そうに視線を橘平から逸らした。ヨイの表情はが僅かに曇る。
「生きてた頃から、この部屋に住んでたのか?」
ヨイはしばらく困ったように視線を彷徨わせていたが、やがて橘平の指が置かれた十円玉へと視線を向ける。
もちろん彼女自身が硬貨に触れることはない。けれど、彼女の意思に応えるように、十円玉が橘平の指ごと滑らかに動き始める。
すぅ……。
文字盤の上を滑り、十円玉「はい」の文字の上でピタリと止まった。
「……『はい』」
「う」
「やっぱり、生きている時からこの部屋にいたのか」
少しだけ謎が解けた。けれど、肝心なことは何も見えてこない。
「ここで何をしてたんだ? 学校は? 家族は?」
畳みかけるように尋ねてみるが、十円玉はぴくりとも動かない。
ヨイ自身も、どう答えていいのか分からないといった顔で首を傾げている。
「……覚えてないのか?」
すぅ、と十円玉が「はい」へ滑る。
「じゃあ、自分がどうして死んだのかも?」
長い沈黙のあと、十円玉はゆっくりと、もう一度「はい」を指し示した。
その文字に視線を落とすと、胸の奥が重く沈み込んでいく。
「そっか」
これ以上問い詰めるのは酷に思えて、橘平は口を噤んだ。
一つ一つ問うていく度に、ヨイの表情は暗く曇っていく。あまりにも見ていられないほど痛々しい顔だ。
部屋に落とされた静寂を破るように、橘平はふと顔を上げた。
「……じゃあさ。ここから外に出ることはできないのか?」
ヨイは悲しそうに伏し目がちになり、念で橘平の指ごと十円玉を動かした。
『いいえ』
指し示した言葉は、橘平の問いを否定するもの。
それだけで答えは分かる。そして、ヨイが置かれている状況も。
「……出られない?」
「う」
「玄関からも?」
「う」
「窓からも?」
「……う」
橘平は絶句した。
彼女はこの部屋に留まっているのではない。閉じ込められているのだ。
何も覚えていないまま、自分が死んだ理由すら知らず、ずっとこの狭い五・五畳間の中で独りで過ごしてきたのだ。
「……なんで出られないんだ?」
橘平の呟きに応えるように、十円玉が再び意図を持って滑り始めた。
「み」
「れ」
「ん」
「が」
「あ」
「る」
「……みれんが、ある」
「う」
「未練があるから、ここから離れられないってことか?」
「う」
それが家族への未練なのか、未練を残した事件があったのか、はたまたこの部屋への想いなのか――それすらヨイには分かっていない。
けれど、ただ一つ確かなことは、彼女の時間がここで止まったままだということだ。
「なるほどなぁ」
橘平はしばらく腕を組み、畳を見つめて考え込んでいた。
ありがちな展開だ。
幽霊が成仏できずにこの世を漂っているのは、この世に自身を縛り付けてしまう強い想いがあるから。
それを俗に「未練」と呼び、大抵のファンタジーではその未練を解消すれば晴れて成仏していく。
頭の中で過去に見た幽霊を成仏させる霊媒師のドキュメンタリー番組を思い出しながら、橘平は顔をあげた。
「じゃあさ」
「……う?」
「その未練、俺も一緒に探すよ」
十円玉から指を離し、目の前で悲しげな目をする少女を見つめる。
「お前が何を忘れてるのかも、どうしてここにいるのかも。全部一つずつ、調べていこうぜ」
橘平は少し照れくさそうに笑ってみせた。
自分よりも明らかに年下の少女に向けて言うには、いささか恥ずかしすぎる。
「だってさ。このままずっと押し入れに閉じ籠もってるのも、退屈だろ?」
それでも、自分の発する言葉の一つ一つに、この少女は大袈裟なまでに目を輝かせるのだ。
橘平には、そんなヨイを放っては置けなかったのである。
「何ができるってわけじゃねぇけど、これからしばらくはここに住むし⋯ほら、同居人なら助け合わないと、な」
ヨイの瞳が驚きに丸くなり、ほんの少しだけ揺れた。薄く透けた彼女の頬が、何処となく緩んでいく。
「……ん!」
ぱあっと表情が晴れて、分かりやすく喜びを体現する。
表情豊かですぐに感情が顔に出るし、何より髪の毛まで自在に動くのだからなんとも分かりやすい。
「よし」
橘平は畳の上に広げていたノートを拾い上げ、別のページを開く。
シャープペンを握るとヨイが隣に寄ってきた。二人でノートを覗き込み、【未練探しのためにすること】と殴り書く。
「じゃあ決まりな。今日から二人で『未練探し』だ」
そうと決まれば、やることは一つだ。
「……で、まず何から調べる?」
首を傾げながら橘平が問うと、ヨイもそれを真似て首を傾げる。
忘れていた。自身の未練が何か分かっていないから、今から手がかりを探そうとしていたのだ。
シャープペンで頬を掻きながら、バツが悪くなった橘平は目を逸らす。
「いや、俺に聞かれても困るか」
「う……」
「ごめんごめん」
橘平は苦笑しながら、ノートを引き寄せた。
余白に一本の線を引くと、その上に大きく文字を書き付ける。
【ヨイについて分かっていること】
自身の名前がノートの上に書かれ、ヨイは不思議そうにその文字を見つめた。
「とりあえず、今分かってることを整理しよう」
「う!」
「えーっと……」
行を変えて、始めに「・」を付けると思いつく限りの情報を書き出していく。
「名前は⋯⋯俺が付けたら宛になんねぇな。じゃあ分かってることとしたら、女子高校生であろうことと、幽霊なこと」
「う!」
「それと、この二〇五号室から出られない」
「う……」
「でも、いつからいるのかは分からない」
「……」
「自分が死んだ理由も分からない」
大人しくノートに書き出される文字を追っていたヨイは、表情をしおしおと曇らせていった。
ちらりと横目で様子を伺った橘平は、それを見て慌ててペンを止める。
「……あー、ごめんごめん! これは今は置いとこう」
怯えた子犬のように縮こまるヨイを必死に慰め、気を取り直すと、その横に別の項目を書き込む。
「じゃあ、覚えてることは?」
ヨイは少し考えるように視線を上へ向けた。けれど、やがて困ったように首を横に振る。
「……何も?」
首を傾げ、考え込むも答えは何も出てこない。
「学校の名前も?」
これにはすぐに首を横に振った。
「友達のことも?」
一瞬考える素振りを見せたが、これも首を横に振る。橘平と同じで友達は少ない方だったのだろうか。
「家族のことも?」
「う……」
両人指指を突きながら、ヨイはおよおよと涙を流し始めた。
橘平は眉を顰め、ノートに書き出した情報を見て頭を抱える。
「徹底的に忘れてるな……」
「う!」
「いや、悪口じゃないって!」
決して身体には当たらないながらも、ポカポカと殴られて橘平は必死に弁解する。
橘平の言葉一つ一つを素直に受け取りすぎて、もはや心配になってくる。
これは悪徳商法に引っ掛かって怪しい坪生を買わされるタイプだ。
「……怒った?」
「うぅぅぅ!」
「やっぱ怒ってるじゃん! でも、本当に手掛かりゼロだな……」
ノートに書き出した文字を見つめる。分かっていることなんて、ほとんどないに等しい。
「……待てよ」
ふと、橘平の視線がヨイの着ている制服へ向いた。
ヨイの素性を明かすのに適した情報がここにあるではないか。
「制服」
「う?」
「それ、何処の学校の制服?」
橘平が指で指し示すと、ヨイは自分の胸元を見下ろした。
紺色をベースにした、古びたセーラー服。最近の高校生が着ているような現代風のデザインではなく、何処か昭和や平成初期の面影を残すクラシックな形だ。
「学校の名前、分かったりしないか?」
十円玉に指を置きながら問うと、ヨイは目を閉じて「むむむ⋯」と念じ始める。
もう自分を媒介せずとも念で十円玉を動かせばよいのでは?
なんて思ったりもしたが、案外ヨイはこの会話の仕方を気に入ってるらしい。橘平からしてみると少々面倒なのだが。
「むぅぅ⋯⋯」
ぎゅっと目を閉じたヨイは、髪の毛の先まで神経を研ぎ澄ます。
すると、橘平の指が触れる十円玉がすぅっとノートの上を滑り、五十音の上を移動していった。
「わ」
「か」
「ら」
「な」
「い」
橘平はすかさずその文字を追っていく。
「やっぱり分からないか」
「う」
シャープペンを握った手をノートの上に置くと、ヨイの髪が巻き付いてくる。
目には見えているが、巻き付いている感覚など微塵も感じない。
それが余計にヨイという存在を曖昧にしていき、途方に暮れそうだった。
「じゃあ、これもダメか……」
言いかけて、もう一度ヨイの制服をじっくりと凝視する。
「……いや、待てよ。制服そのものが、一番の手掛かりになるんじゃないか?」
「う?」
「本人が学校名を覚えてなくても、このデザインを見たら分かる人がいるかもしれない。それに、昔の制服ならいつ頃の年代のものか調べられるだろ?」
ヨイが着ているセーラー服は、昭和のヤンキー漫画で出てくる女番長が着ているものによく似ている。流石にスケバンのような長いスカートではないし、彼女自身番長とは程遠い性格をしているが。
それでも制服から亡くなった時代と通っていた学校を炙り出せる。これほど重要な手がかりは多くはない。
「そこから、ヨイが生きてた時代や通ってた学校が絞り込めるかもしれない!」
暗雲が立ち込めていた未練探しに、ほんの少しだけ一筋の光が差し込んできた。
「よし!」
橘平はノートに勢いよく新しい項目を書き足した。
【① 制服について調べる】
その一文書き足すと、目立つようにグルグルと円で囲った。
ノートを手に取り、ヨイに見えるように眼前に掲げる。
「まずはここからだな」
「う!」
ヨイも嬉しそうにパチパチと拍手する真似をした。
「……ただ」
橘平はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を眺めた。
「どうやって調べるかな。『昔のセーラー服』で検索しても、流石にヒットしすぎそうだし……」
「う」
「いや、ヨイに聞いたって分かるわけないだろ」
「う……」
「だからごめんって!」
触れられないのに何度も肩に触れようとしたり、頭を撫でようとしながら必死に慰める。
何故か、この時間が楽しいと思っている二人がいた。
「……まあ、なんとかなるか」
「う!」
財布は驚くほど軽くなり、部屋にはまだ何もない。
けれど――橘平とヨイの、未練を探すための奇妙な共同生活が、今確かに走り出したのだった。




