女子高生幽霊・5
それから十分もしない内に「よいまち荘」の駐車場に到着し、車を定位置に停車させた。
橘平と神代は車を降り、後部座席から荷物を取り出す。
布団にカーテン、その他諸々。思っていた以上の大荷物をせっせと持ち上げた。
「きっつ⋯⋯」
「一人で持とうとしなや」
神代は呆れたように笑いながら、重そうな布団セットをひょいと持ち上げた。
そのまま二◯五号室がある二階に行くための階段を登っていこうとする。
「ほら。部屋まで持ってったる」
「え、いいんですか?」
「ここまで付き合ったんやから、最後まで面倒見たるわ」
「……すみません、助かります」
橘平も日用品が入ったビニール袋を抱え、彼の後を追った。
二人でアパートの狭い階段を上がっていく。
やがて二〇五号室の前へと辿り着き、足元に荷物を置くと上着のポケットから鍵を取り出す。
「じゃあ、鍵開けますね」
「おう」
鍵を回して扉を開け放つと、先に中にはいった橘平は神代の手から布団を受け取って玄関に置いた。
狭い玄関では、布団を置くだけで足の踏み場が消えてしまう。
「よいしょ……っと」
次から次へと大きな荷物を抱えたまま部屋へ入り、玄関先に一つずつ下ろしていく。
「布団は……あとで開ければいいか」
「そうやな」
「カーテンも今つけるの面倒だし……」
「今日は疲れたやろ。ゆっくり休み」
橘平はしゃがみ込み、最後の荷物を床へ置いた。
三月下旬とは言え、何度もしゃがんで立ち上がってと繰り返していれば、額には薄っすらと汗が滲んだ。
「ふぅ……」
ようやく一息ついて、橘平は振り返る。
(ん?)
振り返った先にいる神代が、玄関の扉に手を当てて立ったまま動いていなかった。
「……神代さん?」
「…………」
その視線は、橘平には向けられていない。
部屋の奥。
畳の先にある――固く閉ざされた押し入れへ向けられていた。
じっと、何かを見極めるように、その瞳は薄く細められている。
「…………」
橘平は首を傾げた。
まだ家具すら何もない、ただの空っぽの五・五畳間。
それなのに、神代はどうしてそこまで押し入れを凝視しているのだろう。
(まさか……さっきフードコートで言ってたこと……)
胸の奥が少しだけ騒ぐ。橘平は努めて自然な声を装った。
「あんたが管理してるアパートでしょう?」
「ん?」
「別に、気になるものなんてないんじゃないですか?」
苦笑いを浮かべて言った橘平の言葉に、一瞬だけ神代の目が細く光った。
けれど――。
「いやぁ」
次の瞬間には、いつもの気の抜けた笑みに戻っていた。
押し入れから目を話した神代は、橘平を見下ろして意地の悪い笑みを見せる。
「なんや、埃っぽいなぁ思って」
「は?」
「長いこと使われてへんかったんやろな」
「いや、それあんたの仕事でしょうが!」
思わずツッコミが口を突いて出る。
立ち上がった橘平は神代の薄い肩を掴んでグラグラと前後に揺らした。
神代は変わらずヘラヘラとした笑みを浮かべたままだ。
「入居前に掃除くらいしといてくださいよ!」
「いやいや、自分の部屋の掃除は自分でするもんやろ?」
「大家!」
「住人!」
「大家でしょうが!」
「住人やろ?」
「屁理屈だ!」
橘平が呆れたように頭を抱え、壁に額をぶつける。その横で神代は楽しそうに笑っていた。
「まあ、気になるんなら後でちゃんと掃除しとき」
「……分かりましたよ」
橘平は渋々再び荷物へ向き直り、入口を塞いでいる布団を部屋の奥へと引き摺り始める。
その背後で、神代はもう一度だけ、静かに押し入れを振り返った。
「…………」
先ほどまでの笑みは、跡形もなく消えていた。
けれど、それもほんの一瞬。
「ほな、ボクは帰るわ」
「あ、はい。今日は本当にありがとうございました」
「ええって。また困ったことがあったらいつでも来いや」
「分かりました」
そう言って神代は玄関を出ていく。
バタン、と扉が閉まり、橘平は鍵を閉めるために玄関に駆けた。カチャリと施錠する音が部屋に響く。
ようやく静かになった部屋の中で、橘平は大きく息を吐き出した。
「……ふぅ。緊張した……」
買ってきた荷物を眺める。
これから、この何もない部屋を自分の生活する場所にしていかなければならない。
そして――この部屋には、自分以外にもう一人。
いや、「一人」という言い方が正しいのかは分からないが。
彼女がいるはずだ。
「ヨイ」
試しに名前を呼んでみるが、返事はない。
橘平は静まり返った部屋の中を見回し、気の抜けた息を吐く。何処にいるのかは粗方見当がつくが、敢えて気づかないふりでもしてみよう。
「何処行ったんだ? まさか神代さんが来たから逃げたとか」
その時、さっきまで神代がずっと見つめていた、押し入れの奥から――。
「……う」
小さく、怯えたような声が聞こえた。
昨日の出来事を思い出しながら、橘平は静かに押し入れへ近づいた。
襖に手を掛け、ゆっくりと引き開ける。
「やっぱりいた」
「……う」
薄暗い押し入れの奥よりも上。初めて彼女の存在を目にした時のように、少し外れた天井の板間から顔を覗かせている。
神代の存在に怯えて隠れていたのだろう。橘平の顔を認めると、安心したようにほんの少しだけ表情を綻ばせた。
「ずっとそこにいたのか?」
「う」
「そっか」
橘平は押し入れの襖を大きく開け、天井へとそっと手を差し出した。
「おいで」
「……う?」
「これから部屋、本格的に掃除するから」
橘平は後ろを振り返る。
長い間放置されていた部屋には、まだ至るところに薄っすらと埃が溜まっていた。
「ヨイも手伝ってよ」
天井から逆さまに顔を出すヨイは、差し出された手と、明るい部屋の中を交互に見つめた。
やがて――。
「……う」
こくん、と力強く頷く。
それからふわりと、ヨイの身体が重力から解放されるように浮かび上がった。
そのまま橘平の横をスルスルとすり抜け、畳の上へ滑らかに降り立つ。
「おお……」
昨日見せられた時には腰を抜かしそうになった光景だが、二日目ともなると不思議と怖さは湧いてこない。
「じゃあ、よろしくな」
「う!」
ヨイはえっへん、と小さく胸を張ってみせた。
幽霊であり、小さく張る胸も透けているのに、その仕草だけでも可愛らしく見えるのだから不思議なものだ。
「まずは、この辺りの埃から――」
橘平は買ってきた掃除道具をビニール袋の中から取り出す。
その隣で、ヨイも気合いを入れるように小さく拳を握り締め、床に落ちていた塵屑へ手を伸ばした。
そして――。
(すっ)
手は虚しく空を切り、そのまま紙屑をすり抜けた。
「…………」
「…………」
もう一度、ペシペシと手を動かしてみる。
しかし、なんど振るっても畳の上の紙屑はピクリとも動かない。
(すっ、すっ)
「う……」
ヨイは信じられないといった様子で自分の手を見つめ、困ったように眉を下げた。
「……あー」
橘平はその様子を見て、思わず目を丸くする。
そうだった。忘れていたが、ヨイは幽霊なのだ。物質に触れることすら叶わない。
ヨイは役立たずと言われたと思ったのか、申し訳なさそうに俯いてしまった。
けれど――。
「ははっ!」
「……う?」
「いや、ごめん。なんかさ」
橘平は堪らず吹き出し、雑巾を手にしたまま再び畳の上に立った。
その場に蹲ったヨイの傍に膝を折り、クスクスと笑いを落とす。
「一生懸命手伝おうとしてくれてんのが、ちょっと面白くてさ」
「…………」
「別に気にしなくていいって。幽霊なんだから当たり前だろ」
そう言って、橘平は床の紙屑を自分で拾い上げた。
「掃除は俺がやるから。ヨイは……そうだな」
立ち上がった橘平は少し考えてから、思い立ったように指を立てる。
足元から見上げてくるヨイを見て、屈託のない笑みを浮かべた。
「応援係」
「う?」
「俺が掃除してる間、隣にいてくれればいいよ」
ヨイはしばらく橘平の顔をじっと見つめていた。
それから――。
「……う」
嬉しさを隠しきれない様子で、ほんの少しだけ目を細めて微笑んだ。
「よし。じゃあ、始めるか!」
「う!」
橘平は水道で濡らした雑巾を絞り、畳を拭き始める。
ヨイも当然のようにその隣にくっついて応援という名の「う!」コールを口にした。
けれど、やっぱり彼女は何も物理的な作業はできない。
橘平が窓ガラスを拭けば、その横で真似をするようにエア窓拭きで手をシャカシャカと動かす。
橘平が箒を動かせば、ヨイも同じリズムで楽しそうに腕を振る。
当然、埃一つ舞い上がりはしない。
「それ、意味あるのか?」
「う!」
「あるのかよ」
「う!」
「じゃあ、しっかり頼んだ」
「うー!」
橘平は呆れつつも、終始笑いながら雑巾を動かした。
人間と、幽霊。
掃除道具を握れる男と、何ひとつ触れられない少女。
傍から見れば、一人で空に向かって会話している滑稽で奇妙な光景に違いない。
それでも――今の二人にとっては、これがごく自然な日常になりつつあった。
橘平が掃除をして。
ヨイが隣で真似をする。
時々、目が合っては互いに笑い合う。
たったそれだけのこと。けれど――互いに笑みが絶えないのだった。
「なんか、悪くないな」
「……う?」
「いや、こっちの話」
橘平は照れくささを誤魔化すように、再び雑巾を滑らせた。
自身の手元に視線を落とし、ふと、橘平は思う。自分は一体、何をしているのだろう、と。
相手は幽霊だ。しかも、いつの時代に生きていたのかすら分からない女子高生。
言葉をまともに交わすこともできない。
物に触れることもできない。
それどころか、自分の名前すら覚えていなかった。
どう考えたって、狂っているとしか思えない状況だ。
昨日までの自分なら、こんなものに出くわしたら恐怖で泡を吹いて逃げ出していたに違いない。
(イカれちまったかな、俺の頭)
隣ではヨイが、橘平の真似をして一生懸命にエア箒を動かしている。
当然、箒に触れることすらできていない。
空を切るだけの小さな腕が、忙しなく左右に揺れているだけだ。
「……ふっ」
思わず、鼻から笑みが漏れた。
不思議だった。隣でせっせと自分の動きを真似ている存在が、人ならざる化物であるというのに。
怖くないと言えば嘘になる。
彼女がこの世のものではないという事実が消えたわけでもない。
けれど、決して不快ではなかった。
「…………」
誰かと、こうして同じ空間で笑い合えている。それが、どうしようもなく嬉しかった。
家を飛び出してから、まだ一日すら経っていない。
けれど、あの重苦しい実家にいた頃よりも。
受験勉強に追われ、息を殺して何もかもを我慢していた頃よりも。
今の方が、ずっと深呼吸ができる。ずっと息がしやすい気がした。
「……変なの」
「う?」
「いや」
相手が幽霊だからなのか、どうにも距離感が分からない。
気がつけば肩が当たるくらいの距離にまで近づいていて、ヨイには橘平の独り言の全てが届いていた。
「なんでもない」
首を振ってごまかし、そして、また雑巾を絞り直す。
隣には、名付けたばかりの幽霊の少女。
こんな生活が始まるなんて、昨日の自分に言ったところで「頭がおかしくなったのか」と一蹴されるだろう。
それでも、今は、これでいいと思えた。
決して生身の人間ではない不思議な存在。けれど、むしろその冷たさが今の橘平にはちょうど良かったのかもしれない。
「布団、出すか。今日から暖かい布団で寝れるぞ!」
「……う!」
弾んだ、小さな返事が返ってくる。
その声を聞いて、橘平はまた自然と笑みを零した。
何もない空っぽの五・五畳間に、二人分の温かな笑い声だけが静かに響いていた。




