女子高生幽霊・4
ついさっきまで三万円以上入っていたはずなのに、今や、その半分すら残っていない。
「一人暮らしって、怖っ!」
「ははは! 先月までスクールバッグ担いでた若造には痛いやろうなぁ」
洗剤やタオルが入ったビニール袋を片手に、神代が腹を抱えて爆笑していた。
レジを抜けた所で梱包された布団を床に置いた橘平は、そんな神代に牙を向く。
「笑い事じゃないですよ!」
「いやぁ、ええ顔するなぁ思って」
「人の財布の危機を見て笑わないでください!」
橘平が恨めしそうに睨みつけると、神代は笑いながらその肩をポン、と力強く叩いた。
「まあ、長谷ちゃん」
「…………はい」
「一人暮らしなんてな、最初はみんなこんなもんや。生活に必要なもん揃えるだけで金は飛んでく。飯食えばまた飛ぶ。電気使えば飛ぶ。水使っても飛ぶ」
「もう聞きたくないです」
「せやけどな」
もう一度、ポンと肩を叩かれる。
涙目で見上げる橘平に、神代は穏やかな微笑みを向けた。
「全部、自分で決められるんやで。何を買うかも、何を食うかも、何時に寝るかもな」
橘平は黙ったまま、しばらく生気の感じられない神代の目を見つめた。
それからふうと小さく息を吐くと、パチンと財布を閉じる。
もう一度顔を上げた頃には、何処か晴れ晴れとした表情をしていた。
「そうですね」
「それに、まだ始まったばっかりや」
神代はいつもの飄々とした笑みを浮かべ、提げていたビニール袋を握り直す。
一歩先に歩み出ると、振り返って輝かしい笑顔を向けた。
「一人暮らしは、これからやで」
「はい」
橘平は大きく頷くと、買ったばかりの大きな荷物をしっかりと抱え直した。
財布は、恐ろしいほど軽くなってしまった。
けれど――これから始まろうとしている、あの二〇五号室で始まる奇妙な生活を想像すると。
ほんの少しだけ、胸の奥の重荷が軽くなったような気がした。
それから、二人は買ったばかりの重い荷物を抱えてホームセンターを出る。
すると、建物の敷地内にあるショッピングモールのフードコートが広がっていた。
「……なあ、長谷ちゃん」
「はい?」
「飯、食って帰らへん?」
「え?」
迷いなくフードコートの中に入っていこうとする神代の後ろ姿を眺めたまま、思わず立ち止まった。
「いや、でも……」
反射的にポケットの財布へ手が伸びる。
先ほど大量に買い物をしたせいで、残金は一万四千円足らず。これにはこれからの生活費が含まれている。
「俺、あんまり財布に余裕ないんですけど……」
「何言うてんの」
神代は呆れたように笑うと、ポケットからズシッと重みのありそうな長財布を取り出した。
「今日はボクが奢ったる」
「えっ?」
「これから一人暮らし頑張る新生活への労いってことで」
「いやいや、流石に悪いですよ!」
「ええからええから」
神代がパカッと財布を開く。
チラリと見えたその中身には、先ほどのレジで橘平が青ざめた額を軽々と超える、厚みのある札束が挟まれていた。
思わずその中身を見つめ、石像のように固まる。
「ん?」
「……神代さん」
「なんや?」
「めちゃくちゃ金持ってるじゃないですか」
「そら持っとるよ。大家やで」
「じゃあなんで俺の買い物の時は黙って見てたんですか!」
「自分の生活用品くらい自分で払うもんやろ」
「そういうところだけ妙に真面目なんだから……」
結局、神代の強引なペースに押し切られる形で、二人はフードコートへ向かった。
適当なラーメン店で注文を済ませ、空いている席へ腰を下ろす。
「ほら、熱い内に食べ」
「……いただきます」
橘平は手を合わせ、湯気の立つラーメンを啜った。
温かいスープが胃に染み渡った瞬間、今日一日の緊張が一気にけて、腹の底から安心感が込み上げてくる。
「……うまっ」
「そらよかった」
「今日、朝からあんたの部屋行ったり買い出し行ったり、色々ありすぎたんで……」
「せやなぁ」
神代も麺を啜りながら、穏やかに目を細めている。
しばらくは他愛のない会話が続いた。
買った布団の硬さの話、カーテンの色、これから少しずつ揃えなきゃいけない家電の話。
ごく普通の、平和な大家と店主の雑談。
――そんな話をしていた、その時だった。
「……なあ、長谷ちゃん」
「はい?」
不意に一段トーンが下がった声で呼ばれ、チャーシューを口へ運ぶ手を止めた。
神代の声からは、先ほどまでの軽薄なニュアンスが消え去っている。
橘平が顔を上げると、目の前の神代は真っ直ぐ橘平の目を見つめていた。
「ちょっと聞きたいんやけど」
「……なんですか?」
「君のあの部屋な」
神代は一拍置き、ラーメンの湯気越しに呟いた。
「先客が居るはずなんやけど」
グサッと音を立てて何かが突き刺さる。
図星と言うべきか、必然というべきか。
問われぬ方が不自然であると分かってはいるのに、いざ問われると答えるのを躊躇ってしまう。
「……先客、ですか?」
「ああ」
神代の瞳に、冗談を言っているような色はない。
向けられる瞳には、明らかに橘平の隠している存在に探りを入れようとしていた。
「まだ、会ってへんか?」
橘平の脳裏に、あの二〇五号室の光景が嫌でも浮かび上がる。
古びたセーラー服。
薄っすらと透けた身体。
そして――。
『う』
押し入れの奥で小さくなっていた、あの少女の声。
それらを思い出した橘平は、無意識に唇を固く結んでいた。
ここで「います」と言えばどうなる?
お祓いをされるのか? それとも自分が追い出されるのか?
折角、名前をあげて、彼女と暮らしていくしかない現状を受け入れようとしたというのに。
「…そ、れは⋯⋯」
神代はそんな橘平の小さな硬直を、じっと見逃さずに観察している。
最善の答えを探せ。ここで神代に悟られてはいけない。
本能の叫びを脳内で響かせながら、橘平は必死に答えを探した。
「どうしたん?」
「いや……」
橘平は動揺を隠すように、無理やり視線を箸元へ落とした。
「先客なんて、いなかったと思いますけど」
「そう?」
神代はそれ以上、追及するような真似はしなかった。ただ、何かを推し量るように細めた目で橘平を見つめている。
「なら、ええんやけどな」
再び神代の意識がラーメンへと向いたことを確認して、橘平は静かに箸を動かした。
けれど、さっきまであんなに美味しかったはずのラーメンの味が――何処か少しだけ、薄くなってしまった気がした。
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ショッピングモールを出る頃には、空はすっかり濃い茜色に染まっていた。
買い込んだ荷物を神代の車の後部座席へ押し込み、橘平は助手席へと乗り込む。
「……疲れたぁ」
「お疲れさん」
運転席に座る神代がキーを回してエンジンを掛ける。
車はゆっくりと駐車場を抜け、夕暮れの街へと走り始めた。
「今日は、色々ありがとうございました」
「ええって。ボクもええ暇潰しになったし」
「それ、結局最後まで言うんですね」
「大事なことやからな」
橘平はシートに深く背を預け、後部座席へと視線を向けた。
そこには、今日買ったばかりの布団セットやカーテン、細々とした日用品が所狭しと積まれている。
ほんの数時間前までは、何も持っていなかった。けれど今は、少しずつ自分の生活の土台が揃い始めている。
その事実が、よりこれから始まろうとしている波乱万丈の日常を彷彿とさせた。
「……でも」
「ん?」
「一人暮らしって、想像以上に大変なんですね」
橘平は窓の外に広がる見知らぬ町並みを眺めながら、ぽつりと呟いた。
「金も一気に飛んでいくし。買わなきゃいけないものも無限にあるし……」
「まあな」
「これから食費とか、電気代とかガス代も、全部自分で払わないといけないんですよね」
「せやなぁ」
「俺、本当に一人でやっていけるのかな」
弱気な本音が、自然と口から零れ落ちていた。
実家を飛び出した時は、ただあの息苦しさから逃げ出したかった。自分一人でだって何とかなる、と意地を張っていた。
けれど、いざ現実の生活と向き合ってみれば、突きつけられる現実の重さに目眩がしそうになる。
膝の上でリュックを抱える腕には、無意識に力が籠もった。
「……なんか、急に不安になってきた」
すると、ハンドルを握る神代が小さく鼻で笑った。
むすっと表情を歪ませた橘平は神代を睨み付ける。けれど、続く言葉を聞いて自嘲混じりの笑みを浮かべた。
「まあ、そら不安にもなるわな。初めての場所なんやから」
「ですよね」
「でもな」
神代は前を見据えたまま、落ち着いた声で言葉を続ける。
「その分、自由やで」
「……自由?」
「ああ」
ちょうど赤信号にかかり、車が滑らかに停止した。
神代はハンドルに片肘を置き、指先で窓の外を指し示す。
「ほら。この辺、ちょっと歩けばオシャレなカフェもあるし、美味い定食屋もある。駅も近いし、大学にも通いやすいやろ?」
「まあ……そうですね」
「今まで親に決められてたことも、これからは全部自分で決められる。朝何時に起きるかも、何処で何を食うかも、休みの日に何処へ行くかもな」
神代はそこで一度言葉を切り、サイドミラー越しに橘平へ優しい目を向けた。
「これからは、長谷ちゃんの好きにしてええんよ」
橘平は窓の外に流れる街並みを眺めた。
見知らぬ街、見知らぬ道。
昨日まで暮らしていた実家の自室とは、何もかもが違う。
それなのに――不思議と、胸の奥の重苦しさがすっと引いていくのが分かった。
「……好きにして、いいのか」
「せや」
「カフェで勉強してもいいですか?」
「もちろん」
「休みの日に昼まで寝てても?」
「大学遅刻せんかったらな」
「じゃあ、夜更かしは?」
「ほどほどにな」
「なんだ。結局色々口出すじゃないですか」
「最低限の常識は守れってことや」
神代が楽しそうに笑うのを見て、橘平も思わず小さく吹き出してしまった。
「……まあ」
窓ガラスに映る自分の顔を見つめ直す。
そこに映るのは、あの日受験に失敗して、絶望しながら乗った電車の窓に反射した自分ではない。
まだ不安は滲んでいるけれど、何故が笑っている青年の顔だった。
「ほんのちょっとだけ、楽しみになってきました」
「それでええ」
神代はそれ以上何も言わず、青になった信号に合わせて静かにアクセルを踏み込んだ。
やがて車は、見慣れたあの古びたアパートへと続く細い道へと曲がっていく。
「ほら、もう着くで」
「……はい」
橘平はもう一度、後部座席の荷物を振り返った。
布団も、カーテンも、日用品も。全部、自分で選んで買った「自分のためのもの」だ。
これから、あの何もない二〇五号室を、自分の好きなように変えていく。
そう思えば――ほんの少しだけ、明日が来るのが楽しみになっていた。




