11 見えない向こう側
目の前にいる美しい赤髪の女性、ミラベルは蒼玉の瞳を細め、小さく微笑んだ。
「まぁ、弱いですわね。伊織様」
そして、放たれた真っ直ぐ過ぎる言葉に、伊織は後ろへ勢いよく振り向いた。
「ヴィンセントぉ!」
「ほら、頑張れ」
「アンジェリカぁ!」
「少し手を見直しましょう、伊織様」
ヴィンセントは伊織を見捨て、アンジェリカは寄り添った。もうヴィンセントなんか知らないと思い、伊織はまたミラベルとの間にある遊戯盤を見下ろした。
呆気なく、もはや瞬殺と言っていいほどに圧倒的な力量差で伊織はミラベルに負けた。むしろ清々しいと思うような手だったが、伊織はやはり耐えきれずに声を張り上げた。
「真咲が帰ってきたら教えてもらう……!」
「それより静様とはまだ会えませんの?」
「会わせない!」
「なんてひどい聖女様なのでしょう」
静の代わりに、と伊織は遊戯盤の相手をしたのだ。
そしてぼろ負けした。少し出来るらしいと静から聞いていたのに、まさかこんなに強いだなんて思わなかった。ひどい嘘つきだ。
伊織は感情任せに言えば、ミラベルは分かりやすく眉をひそめて悲し気な顔を見せた。
別に悪いことをしていない、とは断言出来ないからこそ伊織は強い罪悪感に締め付けられた。それなら、と素直に頷きそうになる。けどもそれをしてしまったら今までやってきたことが無意味になる。
だから、伊織は以前にヴィンセントがやってきたことを真似ることにした。
「じゃあ、あの子って誰?」
「会わせていただけるの?」
「考える」
「それはいけませんわね」
ミラベルは伊織が会わせるつもりがないことをちゃんと分かっていたらしい。
見えていても、こういう騙すことは簡単に出来るものじゃないなと伊織は実感しつつ、僅かに見える曇り硝子越しの小さな光を見る。
「……静、遊戯盤が好きってわけじゃないよ」
「あら、そうですの?」
「うん。出来るけど、本読んでる方が好きみたい」
「……そう」
小さな光は、さらに少しだけ小さくなった。と思ったが、何故かより強く光った。一体どういうことか。しかもミラベルの口元はさらに笑みが深くなっている。
伊織は今、ものすごくウーロを撫でまわしたい衝動にかられた。
「ですけど、静様とお話をしたいのは変わりませんわ」
「あの子じゃないよ」
「ええ、もちろん存じております」
ミラベルはむしろ、何故そんな当然のことをと言わんばかりに不思議そうに伊織を見つめてきた。
思ったよりもミラベルの表情はよく変化する。けども真咲より分かりにくいと思うのは、その表情が完全に作られたものだと分かるからだ。
仮面ではない。ただ、曇りがより濃くなって見えるのだ。
そうして、またより曇りは強くなり、白さが増した。
「……なんであの時、あの子なんて知らないとか嘘ついたの」
「ふふっ、嘘ではありませんわよ? だって私、あの子を知らないのですもの」
ミラベルが言葉を吐き出す度、煙草の煙のように薄らと黒い煙が吐き出される。けども、それはほんの一瞬で消え去るものだった。
「……静に、何も分からないとか言ったんだよね?」
「ええ、そうですわね」
「けど、私に理想郷……って言ったよね?」
「ええ、言いましたわね」
「嘘ばっかり」
遠慮なく言った伊織の言葉に、ミラベルはすぅっと表情を消し去った。そして口元に手をあて、頭を傾げる。額に流れ落ちる赤い髪をそのままに、ミラエルはうっそりと微笑んだ。
「ええ、嘘ばかりですの。私は」
また、煙が吐かれる。しかしすぐに消え去った。
嘘。そしてたぶん、本当だった。
きっと、静がこの場にいれば素直に話をしてくれるだろう。けども、あの静がミラベルの様子がおかしいと言うくらいだから、やっぱり嘘は混じったままなのかもしれない。
曇り硝子が揺れている。ごうん、ごうんと。
どうして今ので大きく揺れたのか、伊織は黄金の瞳を瞬かせさらに問いかける。
「嘘をつかないと駄目なの?」
「もう、そんなつまらないお話ばかりでは嫌ですわ」
そして、ぴたり、と曇り硝子は動きを止めた。完全に拒絶されてしまった。
それならと伊織はつい最近の出来事を話すことにした。
「この前ね、婿投げしたんだよ」
「……なげ……?」
「えっとね。結婚した男の人を雪に向かって投げるの」
元の世界。というより、伊織の祖母の故郷で行われていた祭りだ。前に一度やったらずいぶんと主に貴族達から高評だったらしい。
今年も行ってほしいという嘆願の文書がまとめて送られてきたと、ヴィンセントは束ねられた手紙を伊織に見せながら楽し気に笑っていた。
「それは……。ええ、しかし、ずいぶんと野蛮では?」
「けど、女の人の家族の人達は楽しそうだったよ」
「……そうでしょうね」
曇り硝子が僅かに揺れた。
「疲れましたので、今日はもうお帰りくださいます?」
曇り硝子の向こう側は瞬く間に暗くなる。もう伊織が何かを言っても無駄ということだ。
今日も失敗してしまった。
伊織は小さく肩を落とし、最後にそっぽ向いたミラベルを一瞥して席から立ち上がった。
部屋の外で待っていたクレアからウーロが入っている籠を受け取った伊織は、抱きかかえるようにして持つ。籠の中のウーロはのそり、と頭だけ動かし、赤いくりくりとした目で伊織を見上げる。
未だにどろどろと見えてしまうのは変わらないが、以前に比べてすっきりとしてきた。おかげで伊織から見るウーロの姿はより蛇らしく見えるようになった。けどもやはり、これは蛇以外の何かだと思う。何せ、この寒さだというのに冬眠はしないし、あったかい魔具も必要がなかった。
とはいえ、伊織はウーロが本当に蛇だろうと、何だろうと今はもう構わなかった。何せこんなにもかわいい癒しなのだから。
「……少し、気になることがあるのです」
長い渡り廊下を渡り切った後、アンジェリカが突然、そんなことを呟いた。
前を歩いていた伊織とヴィンセントはそろって足を止め、アンジェリカへと振り返り見る。アンジェリカは僅かに視線を落とし、どこか不安げに両手を握りしめていたがすぐに顔を上げた。
「ミラベル様はいつもお綺麗になさっております」
「それがどうした」
ヴィンセントはもちろん、伊織もアンジェリカの言った言葉の意味を理解することが出来なかった。
いつもと変わらず今日も綺麗だと素直に思えた。けども、それがどうしたのか。
アンジェリカは二人はもちろん、エドヴィンやクレアの反応も確認してから話を続けた。
「殿下にお聞きしたのです。ここの侍女は何人いらっしゃるのか、と。そしたら侍女は二人。そして必要最低限のみ。ですので私の侍女にお願いしてお話を聞いてもらったのです」
「それで何が分かったんだ」
「はい。どうも、お世話というお世話は食事や洗濯といったもののみ。後は何もしていないそうなのです」
「……ほぉ、それは本当か」
笑みを深めるヴィンセントはもちろん、エドヴィンやクレアも何を言いたいのか理解したらしく、顔をしかめていた。
けどもやはり伊織にはどうしても理解することが出来ず、まるで取り残されたような気分に襲われた。
「えっと、それがどうしたの?」
「伊織様。貴族、ましてや側妃とあられたお方が身の回りの世話を一人でこなすと言うのは非常に難しいのです」
「そうなの? じゃあアンジェリカも?」
「お恥ずかしながら、いつも彼女にお願いしていますの」
伊織は貴族ではないというか、元々は違う世界の人間で、着替えなんてものは当然一人でやるのが普通だった。だからこそ伊織が気づけない方が当然のことで、貴族。ましてや王族の婚約者であるアンジェリカが気づくのもまた当然の事実であった。
けども、こっそりと湧き出る悔しさに伊織はどうにか知らんぷりをすることで過ごした。
「異国のお方である以上、文化の違いもあるでしょうからこれ以上の言動は控えさせていただきます。ただ、本当にあの立ち居振る舞いは本物であると断言いたします」
「ああ、分かっている」
憶測を語らずに、しかし見たままのミラベルの姿は真実だとアンジェリカは強く断言した。
誰よりも見えているはずの伊織は、無意識に唇を小さく噛んだ。
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もうどうしようもなくなったら相談する。伊織がこの世界で学んだことだ。
「……いや、話は分かったけどさ? なんでここに? アンジェリカもだけど」
「私だってこちらに遊びに行きたい時もありますのよ?」
静は目の前のソファに座るヴィンセントと伊織からの話を聞き、さらに隣に座るアンジェリカもいることに呆れたように小さく息をついた。
ミラベルのことで相談するとしたら静しかいない。
だから今日もレイメイの隊舎の執務室にいるだろうと思い、全員で向かったのだ。そしてもちろん静は執務室のソファに座って本を読んでいたし、ルイスはルイスで机に座って書類と向き合っていた。
一緒にいるのに二人はあまり話さない。とはいえ、穏やかな二人の光を見る限り、一緒にいることが大事なのだろうと伊織は理解していた。
ちなみにちゃんと静の膝の上にはアラレがいる。それに外はすっかり雪に埋もれて寒いからなのか、もう子狼と呼べないくらいにまた少し大きくなった若い四頭の狼達がまったりと過ごしていた。
「ごめんねぇ、ルイス」
「お気になさらずに。ですが外にいますよ」
「はぁい」
一緒に聞いていたルイスは何故か静を置いて、一人でさっさと窓から外へと出て行ってしまった。もちろん、開けた窓は自分で閉めていった。
静はとくに文句を言うことなく軽く手を振るだけだ。そしてルイスが外に出て行ったことに気付いた若い狼の内二頭は起き上がり、執務室から出て行ってしまった。
「逃げたな」
「そう言わないでよ。ルイスってば、ミラベルさんのこと気に入らないっぽいんだから」
「ほぉ、何故だ?」
「なんか好かないらしいよ? よく分からないけど」
「面白いな」
ぱっとヴィンセントの光が数度瞬く。今度、ルイスはヴィンセントにこれについて遊ばれるのだろうな、と伊織はすぐに想像がついた。
静もその姿を想像したのか、燃えているように揺れ動く静の光がさらに大きくゆらゆらと揺れた。ちょっと機嫌は良くなさそうだ。だから伊織は静の考えていることを別のものにするために、静の脇に置いてある本を目にしながら口を開いた。
「静は今日も本読んでたの?」
「そう。明日は地下に行く予定」
「そうなんだ……」
地下ということは、あの地下の書庫だ。今、静が読んでいるのは歴史書や神話だ。たぶんその類の本を探しに行くのだろう。
我らが神も、愛娘達も知らない存在。はじまりの神。それを本当は探さなければいけない。けども手がかりは一切なく、導くことも、見ることも出来ない。
見つけなければ静という存在は消える。だから本当は、こんなことをしないで伊織も一緒になって探した方が良い。とはいえ、やはりミラベルのことを放っておくことが出来なければ、じゃあどうやって探すのかという方法すら思い浮かぶことが出来ず、ただ静に頼まれたことをこなすことしか残されていなかった。
「それでミラベル様、嘘ついてたんだ」
「……うん。けど、嘘じゃないのもあって」
「どれかは本当で、どれが嘘か分からなくなった」
「うん」
いつもの揺らぎに戻った静の光を見て、伊織は静が落ち着いたことを知る。
静はいつものように、あったことを伊織に答えやすいように問いかけた。そうして少しだけ視線を上に向け、また伊織へ真っすぐに銀の瞳を向けた。
「細かく聞くしかないんじゃないの?」
「細かく?」
静は小さく頷く。すると静の光の横に、あのチェックシートがぱっと浮かんだ。
「わたしには何も知らないと言った。そして伊織には理想郷について話をした。もし、その知らないが本当であれば、別の何かを知らないと言った」
一つずつ、丁寧に静はいつも事実を確認する。さらにもしもの話を交えながら、チェックシートに一つずつレ点をつけていく。
「あの子について話をした。しかし、あの子を知らないとも言った。これが嘘であれば、あの子は存在しない。しかし、あの子の話をした時、ミラベルさんの反応は変わった。違う?」
「うん。なんか、ちょっと明るかった」
「であれば、本物と仮定しよう」
さらにレ点は増え、役目を終えたらしいチェックシートは瞬く間に消えた。
静は深く背もたれに寄りかかり、また視線を上に向けつつ膝上にいるアラレを優しく撫でる。
「極端な話。ミラベルさんは、あの子という存在だけを知っている。それ以外は知らない」
「え、でも。遊戯盤が得意って」
「名前や性別。年齢。その他の情報を聞いてみないと分からないよ」
指を一つずつ折りながら、伊織がミラベルに聞く必要があることを静は教えてくれた。
「本当はわたしが聞ければ良いんだけど……話が出来ない感じなんだよなぁ……。執着するのは別にどうでも良いんだけど」
伊織だって、静が直接聞いた方が早いということは分かっている。けども、本当に真実を伝えてくれるかは分からないし、何よりも気になるのはあの曇り硝子だった。
「ミラベルさんね、ずっと曇ってるの」
「曇ってるって?」
「なんかね? 曇り硝子、見てるみたいな感じ」
たぶん曇り硝子、だと伊織はそれを見た時からずっと思っている。おかげであれを見る度に、はっきりとそういう風に見えるようになってきていた。
もしあれを霧や何かだと思えばそれに姿が変わるかもしれないが、間に壁のようなものがあるからどうしても曇り硝子という印象しか抱けなかったのが実情だった。
「割れるね」
「割ろうとするな」
「え、なんで」
やはり静は硝子ならば割る、と伊織が想像した通りに判断した。しかし何故かそれをヴィンセントが止めた。伊織も何故というように見やれば、ヴィンセントは呆れたように息をついた。
「破片が飛ぶだろ。いや、伊織にそう見えるだけなのかもしれんが」
「うん。そう見えているだけだから、破片が飛んでも怪我しないよ?」
「その破片が別の何かになったらどうするんだ?」
ヴィンセントはあれから変わったと、伊織は感じていた。
あれから、というのはあの小さな旅をしてからだ。なんと言うか、何かとヴィンセントは伊織に対して口うるさくなった。それなら、その調子で血の誓いについて話してくれても良いのに、ヴィンセントは絶対に話をしてくれない。
本当に伊織はそれだけが不満なのだ。
話してくれるだけで良いのに。だって赤い氷がきらきらと光っている時があって、綺麗だなとついつい思ってしまうくらいに、伊織はもっと綺麗な光を見せてくれるようになったヴィンセントに怒ってなんていないのだから。
そんな伊織とヴィンセントを他所に、静はもう興味を失ったようで隣に座るアンジェリカと話を始めた。
「そう言えば、今回の冬至の儀式ってアンジェリカは出るの?」
「いえ、まだ婚姻をしておりませんのでその資格はございません。しかし、静寂の山の麓までならばと了承していただきましたの」
「そっかぁ。なら道中も楽しそう」
「私も楽しみにしております。そういえばリーリアはどうなさるのですか? 加護持ちのお方とはいえ、今は授かれておりますし……」
「参加する気満々。まだ不安定だけど、絶対に大丈夫だって言い切られたから頷くしかなくって」
「まぁ、とてもお強いのですね」
「レイメイの中で一番強いからねぇ」
やっぱり、リーリアは儀式に参加するらしい。静は困ったと言うが、その光は変わらずにゆらゆらと揺れているだけ。だからそこまで心配はしていないのだと、伊織はすぐに分かった。
それに何かあれば周りにいる皆が教えてくれるから問題ない。
伊織はヴィンセントから大きく顔を逸らし、執務室内でふわふわと浮かんでいる小さな綿毛のような眷属達へと視線を向ける。そうして最後に膝上に乗せた籠にいるウーロを見て、遠慮なくその体を撫でまわした。




