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果ての銀花と愚者の杭  作者: 丹㑚仁戻
最終章 果ての銀花と愚者の杭
264/264

264. 浮遊する澱み(7/7) - 氷の大地

 ローゼスタット王都に設置された仮設病院。その片隅にある、グレイの遺体が安置されたテント。

 身支度を整えたジルは再び彼の横に立っていた。軍服にも似た黒い衣服はスラリとしたシルエットで、礼装をも思わせる。しかしそれはローゼスタット軍の制服ではない。ジルの私物でもない。ギリアムが念の為と言って用意していた着替えだ。キルドラグの返り血を浴びていたジルはこれともう一着、いつもの庶民に紛れられるような服をギリアムに見せられて、()()()()()も考えこちらを選んだ。そして、腰に差す剣も。


 その剣もまた、いつも使うものとはだいぶ見た目が異なっていた。普段のジルが好むのは、実用性のみを重視したような、無骨で、美しさとは無縁のそれ。しかし今持っている綺羅びやかな装飾をあしらわれた汚れ一つない剣は、まるで貴族が己を飾り付けるために持つようなものだった。

 だから今のジルの姿を見た者は彼を高貴な身分の人間だと思うだろう。身に付けているものだけでなく、ジル自身がそれらを着こなしているのだから誰も疑わないはずだ。実際に着替えてからここに向かって歩くジルを見た市民は畏まり、同時にこの若く麗しい青年は何者だと興味の眼差しを向けた。


 だが、ローゼスタット軍の者は違っていた。彼らはジルの姿よりも、その腰にある剣を見て目を瞠っていた。この剣はただの貴族では持つことはできないと知っていたからだ。柄に施された彫刻はかの英雄を表し、その血を引き継ぐ直系の王族のみが使うことを許されていると軍学校で教えられるのだ。

 そしてその王族でさえも日常的には使わない。彼らがこの剣を持つのは重要な式典の時か、もしくは自らが戦地に赴く時だけ。それも国内の紛争ではなく、他国から国を守るための戦いの場合のみ。

 だから軍人は驚いた。そしてそれまでジルにどう接するべきか決めかねていた彼らは、目の前を通り過ぎていく彼に向かって迷いなく敬礼をした。


 けれどそんなジルの右手には、これまで使っていた剣もあった。量産品で特に値打ちもなく、更には傷と汚れだらけの剣だ。だがそれは王妃と王子を殺し、少し前にこの国で最も誉れある言葉をグレイに贈る際に用いられ、そしてこの国の王を斬りつけた。長いローゼスタットの歴史から見ても、これ以上ないほどに特別な剣であることは間違いないだろう。


 その剣を、ジルはグレイの隣に置いた。誰も文句は言わない。ここには今、ジルとグレイの他には誰もいない。


「……あと少しだ」


 ぽつりと、ジルが呟く。その声からは感情は読み取れない。それほどまでに小さく、抑揚のない声だった。

 ジルは数秒そのままでいると、視線を上げてゆっくりと動き出した。グレイに背を向け、テントの外へ。そこで待っていたのはイェンスを始めとする軍人達と、再び仮面をつけたギリアムだ。彼らはジルがあの剣を持ってここに入っていくところは見ていたが、今その手が何も持っていないことに気付いても驚くことはなかった。


「行かれるのですか?」


 イェンスが問う。「まだ終わりじゃないからな」ジルは答えると、確認するような目を相手に向けた。


「例の件は済んだのか?」

「滞りなく。陛下のことはすぐに告示すべきでしょうか」

「いや、まだだ。全て内々に進めろ。その方がお前も取りこぼしがないか確認できるだろう」


 ジルが言えば、イェンスは小さく頭を下げた。その顔にはジルと同じ表情が浮かんでいる。悪巧みをするような笑みだ。

 ジルはそれを満足そうに見ると、すぐに顔を前に戻した。それまでの進行方向に向かい、歩を進める。けれどそう何歩も離れていない先で、イクセルが厳しい面持ちでジルを見ていた。


「……殿下、ご指示をいただければ後は我々だけで行います」


 そうジルに声をかけたイクセルの目には、相手を労る気持ちが宿っていた。それに気付いたジルは、瞬きをしてそこから目を逸らした。


「それじゃあ意味がない」

「ならば少し休まれてはいかがですか。あなたはもうずっと動き通しです」

「列車の中で散々休んだ」

「そういう意味では……!」

「――イクセル」


 イクセルを止めたのはイェンスだった。彼は黙って首を振り、孫にそれ以上は言うなと示す。だが、イクセルは納得しなかった。


「しかし殿下に何かあっては、グレイルードも……」


 言いながらイクセルがジルに目を戻す。そうされたジルは、呆れたように小さく息を吐き出した。


()()が起こるとすれば、それは俺が読み違えたからだ。グレイは関係ない」


 それだけ言ってイクセルから顔を背ける。そして、再び歩き出そうとした。だが――


「関係あります」


 イクセルの断言する声が、ジルを止めた。


「グレイルードは確かにあなたの護衛ではなかったかもしれません。ですが私の目から見て、あいつは本気であなたの身を案じていました。力不足を疑うわけではなく、ただあなたを想っていたからです。……だから、少しでいいんです。少しでいいからご自身の身の安全を気にかけてください。殿下にグレイルードに対する情があるのなら、ほんの少しだけでもあいつの気持ちを汲んでやってください」


 真に迫る言葉だった。一介の軍人としてではなく、グレイの友人としてジル自身と向き合う言葉だ。

 しかしジルは、表情を変えなかった。


「だったら尚更俺が行かないわけにはいかない」

「殿下……!」


 イクセルが悲痛な声を漏らす。少し前までであれば、彼の声にはジルへの不信感が含まれていたかもしれない。だが、今はそんな感情の欠片もなかった。グレイの死を知った時のジルの姿を見たからだ。ここにいるのは身勝手なグレイの主ではなく、その死を悼むことのできる人間だと知っているからだ。


 そのことを感じさせるイクセルの態度が、ジルには居心地悪かった。イクセルだけではない。周囲にいる軍人達の中には、ジルがグレイに感謝を述べたところを見ている。王族として、身分も何も持たない男に礼を尽くしたところを見ている。

 ジルにとってあれは労うためだけではなく、グレイの名誉を回復するために行ったことだった。しかし事情を知らない者達はそこに勝手に物語を付け足す。この国で最も価値ある栄誉を独断で与えるほど、ジル(イリス)はグレイの死を悲しんでいると。目の前にいるのは忠実な従者を失った傷心の王子であり、守るべき対象であると。


 それが、酷く不快だった。


「俺に一人で生きる術を教えたのはあいつだ。ここで俺が安全な場所に留まれば、俺にはその程度の力しかないと言うようなもの。俺ではなく、俺に力を与えたあいつを貶めることになる」


 よく知らない者達に守るべき存在だなどと思われたくはない。自分にそんな価値はないし、何よりグレイと共に戦ってきたことも否定されている気分になる。


「それにグレイも、俺が立ち止まることは望んでいない」


 たとえそれが、彼がこちらを守ろうとしてのものだと分かっていても。最後まで走り続けなければ、グレイが命を賭けた意味までなくなってしまう気がしたから。


 ジルは感情を隠すようにイクセルに背を向けると、「ギリアム」と軍人の中に紛れていた相手に声をかけた。


「はい」

「グレイのことはお前に任せる」


 途端、周囲からどよめきが起こった。グレイは元軍人で、これまで軍がその遺体を守っていた。それなのに突然ジルがはっきりと指示を出したものだから、ギリアムのことをよく知らない彼らが驚くのも無理はない。

 そしてそれはギリアムも同じだった。ただ、彼は少し違った。一瞬だけ虚を衝かれたように目を見開いたが、すぐにその顔に笑みを湛えたのだ。それもただ喜んでいるものではなく、いくつもの感情が折り重なったような、複雑で、しかし感極まったような笑みを。

 その表情の意味をジルは知っていた。だからギリアムにグレイを預けることにした。彼ならば自分に何があっても、グレイのために一番良い場所を用意してくれると確信がある。


「頼んだ」


 ジルは最後にもう一度言うと、今度は誰のことも振り返らずにその場から離れていった。


 イヒカ達が氷の亀裂に入るよりも一週間以上前の出来事だった。



 § § §



 イースヘルムの氷の下。遠くからの不気味な音はその後も丸一日続いた。しかしどこから聞こえてくるのかは相変わらず分からない。氷のトンネルの奥から聞こえてくるのか、それとも周囲の氷の壁の中から聞こえてくるのか。或いは両方かもしれない。どこかの音が氷を伝って近くのトンネルに届き、それがイヒカ達を追い立てているだけかもしれない。

 だが、分からないからと言ってイヒカ達は足を止めることはできなかった。リタの言うとおり、ヒルデルとは鉢合わせないに越したことはないのだ。


 だからそれまでの問題から目を逸らし、ハルゼを先頭にイヒカ達は黙々と歩き続けた。トンネルの中は一本道ではない。時に何本にも枝分かれし、一歩間違えば迷ってしまいそうになる。そんな場所をこれまでどおり地上への出口も探しながら、氷の中にある木の根を追って進み続けた。


 その木の根が氷の外に出ているところを見つけたのは、最初に氷の中のそれを見つけてから実に五日後のことだった。


「これ、凍ってるワケじゃねェのか……?」


 半分以上が氷に埋まっているにもかかわらず、その根はヒューですら小さく見えてしまうほど巨大だった。それをまじまじと見ていたヒューがそう零したのは、その中で液体のようなものが動いているのが見えたからだ。氷越しでぼんやりと認識できていたそれとは違い、はっきりと。


 イースヘルムの植物らしい、ガラス細工のような見た目だった。中には幾筋もの管があり、そこをキラキラと光を反射する粒子がゆっくりと流れている。まるで星空のように無数の星屑が木の根の中を移動しているのだ。周囲が暗いということもあって、大小無数の天の川が流れているかのような、そんな幻想的な光景だった。


「イースヘルムの生物は凍らない。それはヒューも知っているだろう?」


 ヒューの疑問にリタが答える。「凍らないのは氷の毒のお陰だ」補足するように言いながら、巨大な木の根を撫でるように手を動かす。


「この木に咲く花から氷の毒ができているんだ。毒の素って言えばいいのかな。リカストはその毒の素を使って、ヒルデルの望む氷の毒を作り上げた。だから同じものを使えば、ヒルデルの氷の毒を打ち消す毒を作ることができる」

「……作るのは薬じゃねェの?」


 そう嫌そうに言ったのはイヒカだった。そんな彼にリタは肩を竦めると、「毒も薬も同じだよ」と苦笑を零した。


「生物に害を与えるのが毒で、益となるものを薬と呼んでいるだけ。私が作ろうとしているものは、別に誰かの体を癒やすわけじゃない。だから薬と呼ぶのは正しくないし、リトラもそれは望まなかった」


 言いながらリタが目を落とす。色素の薄い白藍の瞳は、本来であれば暗い色のそれほど表面の反射は目立たない。しかし周囲が暗いせいで、目の前の光が綺麗に映り込んでいた。


「それに、氷の毒のことだってよく分かっていないんだ。極寒の地で水が凍るのは当然の現象だけど、氷の毒に侵された者は凍らなくなる。でもそれはあくまで毒で死ななかったらの話。毒に負ければ凍るどころか氷そのものになる。この理屈は全く分かっていないし、回復者(スタネイド)のように凍らない体質を得たとしても、その肉体を離れれば血液や汗は凍りつく……全く以て意味が分からない現象だよ」


 それは以前からリタが口にしていた内容と変わらなかった。氷の病のことはほとんど分かっていない。治療薬はそれがやってきたイースヘルムの植物の力を借りて作っているだけで、肝心な部分は人間の理解の範疇を超えているのだと。


 そんな彼の口振りに、イヒカは嘘を見つけることができなかった。これまでであれば、情報を隠すために分からないと嘘を吐いていたのだと考えられただろう。だが、今はもう違う。現在蔓延している氷の毒はヒルデルが作ったものだと明かし、それを無害化するために命懸けでその材料を探しに来ている彼に、そんな嘘を吐く理由はない。


 しかしそれでも、イヒカの表情は晴れない。氷の病についてはほとんど分かっていないという事実ではなく、リタが嘘を吐いていないと信じざるを得ない状況が受け入れ難い。


 彼が真実を語っているのなら、本当に氷の病は失くせるのだ。

 だからその手段を持つリタを仇として手に掛けることは、してはならない。


 生かすのは今だけだと自分に言い聞かせて蓋をしてきた考えが、そこから漏れ出してくる。仮にリタがこの場所を必要以上に荒らしても、それを罰することは多くの人間を不幸にしてしまうのだという()()()()考えが、じくじくとイヒカの胸の隅を苛む。


 だがイヒカのその葛藤は、誰にも気付かれない。


「――それなのによく氷の毒だの治療薬だのが作れたな」


 ヒューの発言はリタの説明を受けてのものだった。その声に、木の根に目を落としていたリタが顔を上げる。


「分からない部分には触れていないもの。ヒューだってお酒を飲むけど、アルコールがどうやって作られているかは理解はしていないだろう? でも売られているお酒を混ぜるなりなんなりして自分好みの味のものを作り出すことはできる。それと一緒だよ」

「言いてェことは分かるが……なんつうか、(すげ)ェ無責任なことしたんだな。よく分からないものをよく分からないまま使って、しかもそれに大勢を巻き込むって……何が起こるか分からねェって踏み留まっても良さそうなモンだが……」


 そのヒューの言葉は控えめな語調だったが、それが気を遣ってのものではないことは彼の渋面が物語っていた。

 はっきりと苦言を呈すことができなかったのは、言いたいことがまとめられなかったからだ。かつてのヒルデルの行いが無責任なことだとは感じるのに、それが氷の病を扱えるような研究者にとっても同じことなのかが分からない。だからヒューが自分の言葉だけでどうにか表現すれば、その研究者であるリタは「リカストは思ったかもね」と同意を示した。


「科学者だから予測不可能なものは嫌うだろうし。でもレヴァスは違う。そのレヴァスがやるって言ったら止めないのがリカストだよ」


 ふう、と溜息を吐いて、リタは再び木の根に視線を戻した。やはり確認するように根を撫でて、「人間が扱うべきではなかったんだろうね」とぼそりと続ける。


「空気中の氷の毒は全ての生き物を殺しうる。だけどその毒を取り込み、適応した生物の血肉は他の生き物が毒に適応するための薬となる。となると最初に適応した生き物がいないといけないんだけど、残念ながらそれはまだ確認できていない。だから氷の毒の仕組みに関する研究は一向に進まない。そもそもイースヘルムがどこまで続くかだって分かってないしね」


 そこまで言って、再び顔を上げる。「ハルゼだって終わりは見つけられなかったんでしょ?」付け足すように問えば、ハルゼは「ええ」と首肯を返した。


「前にも言ったけど、四年近く最奥を目指してたわ。でもずっと景色は変わらない。遠くに別の土地が見えることもない。この氷の大地が、見える限りずっと続いていただけ」


 これがこの地の現実だ。四年もかければ人間の足でも相当な距離を進めるが、それでも端が見つからない。どれだけ広いのかも分かっていないのだから、氷の毒のことだって調べきれなくて当然なのだ。

 それを示すリタの質問の意味を理解できない者はこの場にはいなかった。ここはそういう土地だと、何が起こってもおかしくはないと思ってきたのだから、分からないことだらけだと言われたところで不思議はない。


 現に今いるのも、ほんの少し前までは彼ら自身が何もないと信じていた場所なのだ。ニムリスが墓場とし、外部の人間は落ちたら助けられないと信じていた、命の果てを示す場所――それがこの氷の下の世界だ。直接目で見たとはいえ、その死の国の存在をすんなりと受け入れられてしまった以上、この土地で起こる不可思議なことに対して拒絶反応のようなものは出ないのだろう。

 誰ともなく理解して、その場が静けさに包まれる。リタはそんな周りの様子に目を細めると、「個人的にはこの木に答えがあるんじゃないかなって気もしてるんだ」と話を再開した。


「この土地では何を口にしても毒に打ち勝つ効果を得られるけれど、毒そのものを作り出すのはこれしか今のところ確認できていないからね。ヒルデルの記録ではこの大木は一本しか見つかっていない。だけどもしかしたらイースヘルム全土に無数に存在しているかもしれないし、本当にこの一本だけでイースヘルムを網羅するほど根を張り巡らせているのかもしれない。この木がイースヘルムの生態系を作っているのなら、この広大な氷の大地はこの大木の上に成り立っているのかも……まあ、このあたりは専門外なんだけど」


 苦笑を零し、「だけど今のところ、これらの可能性を排除できる情報はない」とイヒカに目を向けた。


「だから私はこの木には敬意を持っている。私なんかの言葉では信じられないかもしれないけど、本当にこの木のことはむやみに傷付けたくないんだ。この木が本当にイースヘルムを支えているのなら、これがなくなれば何が起こるか分からない。これほど広い土地で大きな異変が起これば大陸全土を巻き込みかねないから、軽視することなんて絶対にできない」


 リタには珍しい、強い声だった。それを向けられて、イヒカが居心地悪そうに顔を背ける。彼の反応にリタはもう一度苦笑すると、「さて、話はこれくらいにしておこうか」と言って、根の先に視線を移した。



 § § §



 そこからも、これまでと同じような道が続いた。氷の外にあった根はすぐにまた氷の中に入り、かと思えば一行の道を塞ぐように氷を突き出ている時もある。それをこれまでどおり回り道をしてやり過ごし、念の為地上への出口も探し、景色が変わったのは氷の外に出た木の根を最初に見つけてから半日近く経った後のこと。


 広い空間だった。大地の下にこんな場所があっていいのかと不安になってしまうほどに広く、薄暗い空間。何故ならその空間は上ではなく下に続いていたからだ。木の根を追っていたのだからその幹は根よりも高いところにあるはずだという思い込みが、この地でそんなことは有り得ないと一笑に付されたようだった。


「あれ……そうだよな……?」


 呆気に取られたようにヒューが呟く。彼の目は下にある空間の、その奥の壁に埋まったものを映していた。


「氷の大樹……きっとあれだ」


 リタが短く答える。そこには、途方もない大きさの大木があった。

次回更新は5/12です。

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