『それぞれの』
岩瀬永徳には、嫌いな人物が二人居る。
愛本陽灯。
…そして、一瀬 佳純だ。
「アイツはいつだって俺の前に立ちはだかるんです。」
永徳が決して越えられない、完璧な壁。
それなのにその壁は、天を貫くほどの高さも、欠かさぬ補強をされている痕跡もない。
大した努力をしているようには見えなかった。
自分が努力をしている間、佳純は何もしていなかった。
なのに…、永徳は越えられなかった。
その度に失意し。
そして、自分の努力は足りないのだと、自分は怠けていたのだと感じ
努力をしては…また越えられない。
努力しても、努力しても、越えられない。
それを延々と繰り返していた。
ある日、佳純は消えた。
良いものなのか悪いものなのか解らない、他の何かも引き連れて。
永徳の前から佳純が消えたことで、永徳はやっと一番になった。
「やっと、やっと俺が一番になったんだ。」
自分の上にはもう誰も居ない。
自分の前に立ちはだかるものは何も居ない。
そして、背後にも誰も居ない。
永徳は満たされなかった。
その2年後
愛本陽灯が現れ、永徳はまた一番ではなくなった。
絶望のようなものを感じたようにも。
希望を感じたようにも思えた。
どちらにしても、愛本陽灯が嫌いなことには変わりなかったが。
そして永徳は愛本陽灯を追い掛けた。
越えるために。
勉強も、運動も、そしてそれ以外のものでも越えるために。
永徳はアンゲルスに入っていた。
話し終え、永徳は目の前の人物を見つめた。
「ほら、くだらないでしょ
解ってるんですよ。
でも、嫌いなものは嫌いなんですよ。」
俺の努力が足りないのか?
やり方が違うのか?
何にしたって、俺はトップにはなれない。
その話を聞いていた礼人は、駅に向かって歩いていた。
そしてその隣には以前とは別の、けれどよく似た人物が居た。
「ふふっ…
可愛いでしょう?私の弟。」
佳純はそれはそれは愛おしそうに、今此処には居ない人物を思っていた。
説明が終わったあと、陽灯と晶は話があるらしくアンゲルスに残った。
その晶の代わりに、買い物ついでにと礼人は佳純を送っている。
「だって、それって小学生の頃の話なのよ。
そりゃ越えられないわよ。
小さい頃の二学年の差って大きいのにね。」
佳澄の言う通り、それが小学生2年と4年なら大きな違いになるだろう。
成長してしまえば、2年の差など短いが。
子供の時の2年は大きい。
永徳は、その頃の記憶をずっと抱え、大きくしてしまったのだろう。
佳純と永徳は実の姉弟だ。
永徳が小学五年生の頃、佳純が中学一年生の頃に両親が離婚し、佳純は父と共に引っ越した。
永徳は母と共に。
「えーちゃんがね
あ、こんな呼び方したらまた怒られるかなぁ
えーちゃんがね、一番を目指し始めたのは幼稚園の頃かな」
怒られるかな、と言いながら呼び方を変えない佳純にガクッとなったが、永徳の事を思っているのは強く伝わった。
相手が永徳の場合、それが空振りになるのが目に浮かぶが…。
「誰にも負けないくらい強くなって
一番になって
それで私を守ってくれるんだって。みんなをね。」
と、大人っぽい笑みを浮かべたかと思ったら、デレェと笑顔とも言えない顔に溶け
本当に可愛いでしょ?!!と叫んだ。
恐らく、佳純の脳内には小さい頃の永徳が居るのだろう。
そっとしておこう。
「澤田さん。
私の大切な弟、よろしくお願いしますね」
礼人へ振り返って、姉のような、母のような顔でゆっくりと頭を下げた佳純に、礼人は驚いたが、形式上お辞儀を返した。
佳純は頭を下げたまま、更に続けた。
「万が一にもないと思いますが、
貴方のミスによって、えーちゃんや陽灯ちゃんに何かあった場合…」
飛びきりに低い声で言ったが、それ以上は言葉は紡がれず。
佳純さんはまたゆっくりと顔をあげ、怯える礼人に、冗談ですよと満面の笑顔で笑った。
「あとね、えーちゃんの嫌いは、嫌いじゃなくて
イライラするぅ~!なので嫌われてはないですよ。」
…………?
間を開けて、礼人は首をかしげた。
若干理解ができない。
「本当に嫌いな人には、興味がないんです。
単に興味がない場合もありますけどね」
そういい終えて、佳純はまた歩き出した。
「ややこしいな。」
その背中へ向け礼人はポツリと言葉をこぼした。
弟子との付き合い方に、一抹の不安を覚えたが、礼人は笑みを浮かべていた。
電車を降り、家へ帰るたった数分の道。
その途中にポツリとある、決して大きくはない公園を、佳純はいつものように見た。
公園では数人の子供が…、おそらくかけっこで遊んでいた。
それが、小さい頃の永徳と重なった。
もっとも、その永徳は今目の前に映るような笑顔ではなく、やけに真剣な顔だったが。
あの時の永徳が、一体何に挑戦していたのかは、もう誰にも解らないんだろう。
そんなことをぼんやりと考えていると、一人の男の子が転んでしまった。
驚いて駆け寄ろうとした…が、どうやら、それは無用なようで。
男の子のお母さんらしき人が駆け寄った。
安心したのか、それとも痛かったのか、たちまち男の子は泣き出してしまった。
お母さんはその男の子の頭を撫でてあげていた。
「いいな。」
羨ましいな。
…私にも、あんな人が居たら。
私を、慰めてくれる人が居たら。
私を、無条件で愛してくれる人が居たら。
私の、頭を撫でてくれる人が居たら。
「あ」
そういえば居た。
一人だけ。
私の頭を撫でてくれた人。
「お前は完璧だ。」
スッと見上げれば、いつも通り、父は無表情で私を称賛する。
お前は完璧。
一瀬家の長女に相応しい。
それを維持し続けろ。
完璧。
それが父の口癖のようだった。
そしてそれと共に
「…男だったらな……」
残念そうな顔で言う、失意の言葉も口癖だった。
私は羨ましかった。
弟のことが。
完璧じゃないから、不完全だから、でも、頑張っているから。
お母さんに褒めてもらったり、期待してもらえる弟が。
男である弟が。
別に不満な訳じゃなかった。
弟が可愛いことには変わりないし。
女であることを嫌ったこともないし。
父の事も、嫌いな訳じゃない。女であるが故にままならないことは、確かにあるから。
でも、まあ、たまには完璧以外の言葉も欲しかったな。
私が小学校卒業と同じタイミングで、両親は離婚した。
戦災や、えーちゃんの生まれた日や、恐らく、私の進学について…も、離婚の原因のひとつだろう。
別にどうでも良いけど。
私はお母さんに捨てられる父が、可哀想で。
愛していたが故に、触れすぎて出来た傷をどうにも出来ない気持ちが分かるから。
自分と重なって見えて、私は父について行った。
まあ、本格的に私を褒めてくれる人は居なくなったわけだけど。
永徳はお母さんと居られて幸せだろうな。
まあ、私には関係ないか。
勉強
運動
人脈
特出しているわけではなく、常に完璧に。
下過ぎても、上過ぎてもならない、このバランス。
まさに優等生と言う言葉が似合うこの定位置。
誰にも目をつけられない。
誰にも恨まれない。
誰からも否定されない。
誰からも愛されない。
それでも私は完璧。
ほら、貴方に見せる笑顔だって完璧でしょう?
偽物だけれど。
君も貴方も誰も彼もみんなそう。
相手への思いも、相手からの思いも。
あなた自身だって偽物なんじゃない?
私も偽物なんだから。
……あれ?
どうやって笑うんだっけ
あ、これヤバい。
前が真っ暗―
「…何で泣いてんの」
聞きなれない男の子の声に、私は目を開けた。
「……え?」
見ると、男の子は制服を着ていた。
…同じ学校の人みたいだけど……、あれ?
「私、泣いてないよね?」
言っておいて不安になったから、自分の手で確認してみたけど…やっぱり泣いてない。
すると、男の子は頬に当てる私の手に、自分の手を重ねた。
「まあ…今は泣いてないけど。
これから泣くでしょ」
あまりに滑稽だ。
それとも彼は預言者か何かなのか。
私は本当に、次の瞬間に泣いてしまった。
ポロポロと止まることを知らない涙に、私はただただ戸惑った。
何故流すのか
何が悲しいのか
そもそも、人は何故涙を流すなどと言う機能を付けたのかと、今考えても仕方がないことまで考え始めてしまった。
それくらい、この涙は私の意に反してる。
意に反しているのに
名も知らない彼は、さもそれが当然のように私を抱き締め続けていた。
(人間なんか嫌いだ。)
俺は未だ見もしない誰かに向かって、心の中で悪態を吐いた。
(大嫌いだ。気持ち悪い。)
気持ち悪い。
胸くそ悪い。
ヘドが出る。
道を歩く、アイツもソイツもどいつもこいつも気色悪い。
汚らわしい。
信用ならない。
みんな平気で人を騙す。
内心で何を考えてるのか、解ったもんじゃない。
家族以外はみんな、みんな、俺達の敵だ。
俺の家族を傷つける。
孤児だからとか、そんな理由で俺の家族を泣かす。
涙さえも忘れさせてしまうほどに。
なのに俺の家族達は、そういうとき決まって笑うんだ。
目を閉じて、広角だけをあげて。
そう、ちょうど、目の前の奴みたいに―
「…何で泣いてんの」
俺がこう聞くと、家族は驚いた顔をして否定する。
でも撫でると、抱き締めると、やっぱり泣くんだ。
悲しいくせに、溜め込むんだ。
溜め込んで溜め込んで、そのうち、自分が何を思ってるか解らなくなっちまうんだ。
自分に、何があったのかさえ。
俺は、そんな思い…もう二度として欲しくない。
俺は…俺は………
…………そういえば、この美人は誰だ?




