全てを飲み込むもの《暴食の災厄》
北の森。
巨大な沼の中央で、黒紫色の塊がゆっくりとうごめいていた。
水面から現れている部分だけでも、屋敷ほどの大きさがある。
半透明の巨体には、折れた木の幹や獣の骨が浮かんでいた。
「……ガルド。あれは何だ?」
アルベルトが尋ねた。
しかし、ガルドは答えない。
剣を握る手に、わずかに力がこもった。
「……まさか」
そのとき、巨大な身体の一部が岸へ伸びた。
黒紫色の塊が一本の大木を包み込む。
木が軋み、根元の土が盛り上がった。
やがて、大木は根ごと引き抜かれ、ゆっくりと身体の中へ沈んでいく。
枝も、葉も、太い幹も。
最後の一本まで飲み込まれると、巨体がぐにゅりと膨らんだ。
「……大きくなった?」
アルベルトが目を見開いた。
「アルベルト様。兵を下げてくだされ」
ガルドの声は低かった。
「……あれは《グラトニア》。かつて王国の一地方を壊滅させた、暴食の災厄ですぞ」
「グラトニア……?」
「古い戦記に記されております。生き物も、木も、岩も、あらゆるものを飲み込み、自らの身体と一つにする魔物。食えば食うほど巨大になり、かつては王国軍が総力を挙げて討伐したと」
アルベルトの表情が変わった。
「全員、後退! 沼に近づくな!」
兵士たちが動き始めた、その瞬間。
バシャアッ!
沼から太い触手が跳ね上がった。
岸辺にいた兵士へ、黒紫色の塊が迫る。
「ふんっ!」
ガルドが飛び出した。
一閃。
触手は真っ二つに断ち切られ、巨大な塊が地面へ落ちた。
だが、ガルドは剣を下ろさない。
「下がっておれ!」
切り落とされた塊が、ぐにゃりと動いた。
地面を這い、沼へ戻っていく。
本体に触れた瞬間、二つの身体が一つになった。
まるで、最初から切られてなどいなかったかのように。
「……斬っても戻るのか」
「ならば、少々深く斬り込んでみましょう」
ガルドは地面を蹴った。
迫る触手をかわし、その根元へ踏み込む。
「ぬうんっ!」
渾身の斬撃が、黒紫色の巨体を大きく裂いた。
さらに一撃。
剣が閃き、身体の一部が切り離される。
しかし、離れた塊はすぐに動き始め、次々と本体へ戻っていった。
巨大な裂け目も、左右から寄り合うように閉じていく。
ガルドは即座に距離を取った。
「……なるほど。厄介ですな」
あれほど斬られても、グラトニアは少しも小さくなっていない。
「ガルド。弱点はないのか?」
「あります。あの核です」
ガルドが剣先を向けた先。
半透明の身体の奥に、赤黒い球体が見えた。
「かつての討伐では、軍勢と魔法使いたちが同時に攻撃を仕掛け、ようやくあの核を破壊したと記されております」
アルベルトは目を細めた。
核は見えている。
だが、その周囲には膨大な量の身体がある。
ガルドの剣でさえ、そこまで届かない。
「……しかも、あれは今も大きくなっている」
「ええ。これ以上成長すれば、王国軍を集めたところで核に攻撃が届かなくなるかもしれませぬ」
アルベルトはすぐに周囲を見渡した。
沼の北側には、折れた木々が続いている。
調査隊が道中で発見した、途中から欠けた木や途切れた魔物の足跡。
そして、目の前のグラトニアは、南岸の木々を飲み込みながらゆっくりと進んでいた。
「……南へ向かっているのか」
その先にあるのは、グランフェルト領の集落だ。
村があり、畑があり、人々の暮らしがある。
しかも、この怪物は進むほど大きくなる。
「……時間がないな」
アルベルトは即座に部下を呼んだ。
「伝令!」
「はっ!」
「父上に急報だ。災厄級の魔物を確認。現在、領地へ向かって南下中だ。討伐には大規模な戦力が必要だが、成長しすぎれば核への攻撃が届かなくなる。至急、領軍の出動と集落の避難準備を進めるよう伝えろ!」
「承知しました!」
「王都への援軍要請も必要になる。街道の守備隊に馬を用意させろ。急げ!」
伝令の騎士が馬を走らせた。
アルベルトは残った兵士たちに向き直る。
「我々は撤退しつつ、グラトニアの動きを監視する。無理な交戦は避けろ!」
「はっ!」
ガルドが頷いた。
「わしが殿を務めましょう」
「頼む。だが、深入りはするな」
「心得ておりますぞ」
調査隊が動き始める。
その背後で、グラトニアの身体が再び大きく広がった。
岸辺にあった岩を包み込み、そのままゆっくりと飲み込んでいく。
岩が完全に消えたとき、黒紫色の巨体がまた膨らんだ。
ガルドはその光景を見つめ、静かに剣を握り直した。
今はまだ、核が見えている。
だが、このまま巨大化を続ければ、いずれどれほどの軍勢を集めても届かなくなる。
「……急いでくだされ、アルベルト様」
沼を離れる調査隊の背後で、暴食の災厄はゆっくりと南へ進み続けていた。
すべてを飲み込み、その身を膨らませながら。




