第7話 行ってくる
ばーちゃんを土に返した翌朝、アルブは夜明け前に目を覚ました。
給水塔の中は、まだ暗かった。板張りの壁の隙間から、細い青い光が入っている。いつもなら、ばーちゃんの咳が聞こえる時間だった。水を飲む音。布団の上で体を起こす音。小石や骨や枝を入れた箱を、ごそごそと探る音。
でも、その朝は何も聞こえなかった。
静かだった。
静かすぎて、アルブはしばらく動けなかった。
仕切りの向こうから、マブロの声がした。
「起きてるか」
「起きてる」
「墓に行く」
アルブは頷いた。マブロには見えていないはずだったが、それでも頷いた。
二人は荷物を持たずに給水塔を出た。砂漠の村では、死者を朝に訪ねる。昼は熱く、夜は冷える。朝の短い穏やかな時間だけが、死んだ者と生きている者のあいだに座っていられる時間だと、ばーちゃんが昔言っていた。
墓は、給水塔から少し離れた村の東の端にあった。
砂漠に近い場所だ。
ばーちゃんが生前に「砂漠のそばがいい、砂漠の声が聞こえる」と言っていた。マブロが覚えていた。アルブは覚えていなかった。マブロが覚えていてよかったと、アルブは昨日も思ったし、今朝も思った。
昨日の夜のうちに、二人で穴を掘った。
砂の下は少し湿っていた。砂漠の夜の底に残った水気だ。ばーちゃんを下ろした穴の底が少し濡れていた。アルブはそれが嫌じゃなかった。乾ききった場所ではなく、ほんの少しだけ水の気配がある場所に、ばーちゃんを置けたことが、救いのように思えた。
墓には、小さな石が置いてあった。
ガラムが選んだ石だった。昨日、葬儀が終わったあと、何も言わずに砂漠の方へ歩いていき、戻ってきたときにはその石を抱えていた。白く乾いた石で、どこか井戸石に似ていた。
マブロが墓の前にしゃがんだ。
アルブも隣にしゃがんだ。
朝の砂は冷たかった。指で触れると、少しだけ湿っていた。昨日かぶせた土は、まだ柔らかい。そこに砂が薄く積もっていた。砂漠に近い場所だから、放っておけば、いつか墓も砂に埋もれる。
でもアルブは場所を覚えていた。
足の裏で覚えていた。砂漠での歩き方と同じやり方で、この場所の感触を体に入れていた。石の位置。土の盛り上がり。近くの枯れ草。朝の風の向き。全部、覚えた。
マブロが小さな黄色い花を置いた。
砂根草の花だった。
「昨日、隣の子が置いてくれたやつ、風で飛びそうだったから」
「うん」
「もう一本、摘んできた」
「うん」
マブロは花を土の前に差した。黄色い花は、小さく揺れた。
そのとき、村の方から声が聞こえた。
「真法婆の墓、あっちだろ」
「朝から行ってるのか」
「あの屑守の孫ども、次はどこへ行くんだ」
「砂漠に帰るんじゃないか、砂漠の屑だから」
笑い声がした。
大人の声と、それに混じった子供の声。
アルブは聞こえていた。マブロも聞こえていた。
マブロの肩が動いた。
立ち上がろうとした。アルブはマブロの腕を掴んだ。
「行くな」
「聞こえたか」
「聞こえた」
「あいつらに——」
「行くな、マブロ」
マブロはアルブの手を振り払おうとした。でも振り払わなかった。アルブが掴んでいるからではなく、自分で止まった。
拳を握って、声のした方向を向いた。
それから、墓の方へ向き直った。
「今じゃない」
アルブが言った。
自分の口からその言葉が出たことに、少し驚いた。
マブロも驚いたように、アルブを見た。
アルブは墓を見ていた。
言い返したい、という気持ちはあった。珍しかった。アルブはいつも言い返せない。言葉が出てこない。でも今日は、言葉が浮かんでいた。
ばーちゃんを笑うな。
屑じゃない。
ばーちゃんは、世界の役目を拾っていた人だ。
そう言いたかった。
でも、それを言っても何も変わらないことも、アルブには分かっていた。
言葉は、受け取れる人間にしか届かない。
ばーちゃんを土に返した次の朝に、その笑い声を向けてくる村に、言葉を届ける意味は、今日はなかった。
今日は、ばーちゃんに言葉を届ける日だった。
マブロはゆっくり息を吐いた。
「ばーちゃん」
声が低かった。
「行ってくる。灯台まで」
アルブも、墓の前で手を膝に置いた。
「行ってくる」
風が吹いた。
砂が舞った。
小さな黄色い花が揺れた。
アルブは、土の下にばーちゃんの体があることを思った。昨日、自分たちの手で土をかぶせた。ガラムも土をかぶせた。隣の女の人と、その子供も少しかぶせてくれた。
来なかった人の方が多かった。
それでも、来てくれた人はいた。
水を分けてもらったと言って、頭を下げてくれた人がいた。
砂根草の花を置いてくれた子供がいた。
何も言わずに、墓石を探してきたガラムがいた。
村全部が冷たいわけではない。
でも、村全部が温かいわけでもない。
そのどちらも本当なのだと、アルブは思った。
マブロが墓の前に座り込んだ。
「アルブ」
「うん」
「俺、昨日、泣けなかった」
「俺も」
「今も、泣けない」
「俺も」
「どこかで泣けるかな」
アルブは少し考えた。
「砂漠の途中で泣くかもしれない」
「砂漠で泣くのはもったいない。塩が勿体ない」
アルブは少しだけ笑った。
マブロも笑った。
ばーちゃんならそれを聞いて、「馬鹿なことを言うな」と言っただろう。そう言って、たぶん少しだけ笑っただろう。
朝日が昇り始めた。
墓の石が、薄く白く光った。
白い井戸石みたいだ、とアルブは思った。けれど触れなかった。今は真法を拾う時ではない。今は、ただここに座っている時だった。
ばーちゃんの声の記憶と、咳の音と、叱られたときの顔と、夕飯の匂い。
それは全部、アルブの中にある。
手紙の紙も、すでに土に返した。
でも、言葉は持っていく。
「行こう」とマブロが言った。
「うん」
二人は立ち上がった。
砂漠から風が吹いた。墓の前の黄色い花が、もう一度揺れた。
アルブは振り返らなかった。
振り返らなくても、場所は分かる。足の裏で覚えたから。砂漠の道と同じように、この墓までの道も、もう体が覚えていた。
給水塔へ戻る途中、村へ続く道の端に、ガラムが立っていた。
いつからそこにいたのか分からなかった。
腕を組んで、二人が戻ってくるのを待っていた。
「出発の用意はできてるか」
「明日でも出られます」とマブロが言った。
「明後日の方がいい。今日は休め」ガラムは低い声で言った。「岬まで十日。俺が同行できるのは途中の分岐までだ。そこから先は二人で行く」
「何があります」
「砂嵐の帯が二か所。事前に読めれば避けられるが、読めなければ巻き込まれる。流砂の帯が一か所。以前ワシが巻き込まれたものより規模が大きい。昼に方角を失う熱砂の平地が一か所。そこに入ったら、出るまで歩き続けるしかない。止まったら死ぬ」
「越えられますか」と今度はアルブが聞いた。
ガラムはアルブを見た。アルブはガラムの目を見た。珍しかった。アルブはいつも人の目を見るのが苦手だ。でも今日は見られた。
「越えてきた人間がいる。俺はその記録を持っている」ガラムは言った。「おまえたちには越えられる。ただし、俺の言うことを聞け。砂漠では俺が師匠だ」
「分かりました」
「分かった」
ガラムはそれ以上言わなかった。踵を返して、村の方へ歩いていった。
その夜、アルブは眠れなかった。給水塔の自分の場所で、天井を見ていた。天井の板の隙間から星が見える。砂漠の星は多い。雲がないから。
ばーちゃんと暮らした場所で、ばーちゃんがいない最初の夜だった。
隣の部屋でマブロの寝息が聞こえた。マブロはすぐ眠る。砂漠でも眠れる。羨ましいと思ったことがあったが、今夜は羨ましくなかった。眠れない夜があってもいい。ばーちゃんのいない最初の夜くらい、眠れなくていい。
明後日、砂漠へ出る。
そのことをアルブは静かに考えた。怖いかどうか聞かれたら、怖いと答える。でも行かない理由がない。ばーちゃんの手紙があって、貝殻があって、灯台守がいる。
拾ったものを、つなげ返しに行く。
出発四日目、ガラムが「今日から水を絞れ」と言った。持ってきた水の底が見え始めていた。この先に水場はない。あるとすれば砂漠の記憶の中だけだ——そのとき初めてアルブは、ばーちゃんの言葉の意味を喉の渇きで理解した。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第7話では、ばーちゃんとの別れを描きました。
村人にとって、ばーちゃんは変人だったかもしれません。
でも、アルブとマブロにとっては、世界の見方を教えてくれた人でした。
失ったものを抱えたまま、それでも二人は進みます。
ここからは、双子だけの旅です。
ばーちゃんの言葉が、どこまで二人を支えてくれるのか。
次回は、砂漠越えの最初の試練です。




