第5話 流砂の大樹
大砂丘を越えると、景色が変わった。
砂の色が少し赤みを帯びて、丘の形がなだらかになる。風の通り道が違うのだとガラムは言った。この先に大きな朽落がある。むかしは城砦だったらしく、石積みが残っている。素材として価値のある石が採れる。
「急ぐな」とガラムは言いながら、先を歩いていた。
急いでいるのはガラムの方だ、とマブロは思ったが黙っていた。アルブは砂を見ていた。赤みのある砂が、一部だけ色が違う。淡い、濁った色をしている場所がある。
「ガラム」とアルブは呼んだ。
「なんだ」
「あの色の違う砂、あれ何ですか」
ガラムが足を止めて振り返り、アルブが指差す方向を見た。少し目を細めた。
「流砂だ」
「流砂?」
「砂の下が空洞になってる場所がある。踏み込んだら沈む。死ぬほど沈む前に気づけば出られるが、気づかず踏み込んだらまずい」ガラムは顎で示した。「だから避けて右から回る。ここからだと少し遠回りになるが——」
マブロが割り込んだ。「右から回ったらどのくらい」
「半日」
「まっすぐ行ったら」
「朽落まで一刻もかからん。だが流砂を踏んだら終わりだ」
「流砂の端を読めば通れないか」
「読める者がいればな」ガラムはマブロを見た。「おまえに読めるか」
マブロはアルブを見た。アルブは砂を見た。淡い濁った砂と、普通の砂の境目。足の裏に伝わるものが違うはずだ。慎重に歩けば分かるかもしれない。
「端を歩けば」とアルブは言った。「感じながら歩けば、たぶん」
「たぶん、で流砂には近づくな」ガラムは首を振った。「右から回る。半日を惜しんで命を落とすな。それが博守の掟だ」
ガラムが右へ向かって歩き始めた。
二人はついていった。
だが十歩ほど行ったところで、ガラムが止まった。
足が砂に沈んでいた。
「ガラム」
マブロが声を上げた。ガラムの右足が膝まで砂に埋まっていた。右から回る途中にも、流砂があった。地図に載っていない流砂が。
「動くな」ガラムは静かに言った。動揺していない声だったが、顔は違った。「ゆっくり引き抜く。縄を——」
右足が抜けた。しかし抜けた瞬間に体が傾いて、今度は左足が砂に入った。もがくほど沈む。それが流砂の理屈だ。
「縄を投げる」マブロが荷袋から縄を出した。「ガラム、掴め」
縄を投げたが、ガラムまで届かなかった。今や腰まで砂に入っていた。
「アルブ」マブロがこちらを向いた。「何か感じるか」
アルブはすでにしゃがんで、砂に手をついていた。流砂の手前の砂。そこから何かを感じようとしていた。
ガラムが「やめろ、危ない」と言ったが、アルブには聞こえていなかった。
砂の下に何かある。空洞ではなく——空洞の下に、もっと深いところに、何かが眠っている。根だ。根の記憶だ。むかし、ここに木があった。大きな木の根が地面の下を網のように走っていた。根は土を固定していた。砂を固定していた。その根の役目の記憶が、まだここに残っている。
流砂になったのは、根が消えたからだ。根があれば砂は固まっていたのに、根が消えて、砂が流れるようになった。
役目が消えた。
「根だ」とアルブは言った。声が自分のものではない気がした。「ここに根があった。根の役目を拾えば——」
「どうすれば拾える」とマブロが言った。
「分からない。俺が感じるのは土と水の記憶だ。根は土の記憶でもある。でも根を今ここに戻すには——」
ガラムが胸まで沈んでいた。
「マブロ」とアルブは言った。「風を呼べるか」
「風を」
「根が地面の下で眠ってる。根に水が必要だ。水は俺が感じる。でも根を目覚めさせるには上から何かが要る。風で砂をどかせるか」
「砂をどかしたら余計に沈む」
「流砂の中心をどかすんじゃない。端の砂だ。根の先端がある場所の砂を薄くしてくれ。根が空気に触れれば——」
マブロは一瞬考えた。でもマブロが本気で考えるのは一瞬だ。それから黒砂塊を荷袋から取り出して、両手で握った。
「昨日感じた風だ」マブロは呟いた。「種を運ぶ風。雲を呼ぶ風。届ける風。役目のある風——」
砂が動いた。
ガラムの周囲ではなく、三歩ほど離れた場所の砂が、薄く渦を巻いた。表面の砂だけが、風に持ち上がってずれた。その下に、白っぽい繊維のようなものが見えた。
根の先端だ。
アルブは走った。流砂を避けて迂回して、白い繊維が見えた場所へ。しゃがんで、繊維に触れた。
冷たかった。
土の冷たさだ。でもその中に、ゆっくりした動きがある。眠っていて、まだ死んでいない根の記憶。
「目を覚ましてくれ」
声に出すつもりはなかった。でも出た。命令じゃない。お願いでもない。思い出してくれという、それだけの言葉。あなたの役目はここにある。砂を固定すること。地面を支えること。
根が動いた。
動いた、と感じた。繊維の下で、震えるような動きがあった。それから、じわじわと、砂の下で何かが広がっていく感触があった。
ガラムの周囲の砂が固まり始めた。
流れていた砂が、止まった。
ガラムが「なんだ」と言った。沈む速度が落ちていた。マブロが縄を投げると、今度は届いた。ガラムが掴んだ。マブロが引いた。アルブは根から手を離さなかった。
ゆっくり、ゆっくり、ガラムが砂から引き出された。
胸まで埋まっていたのが、腰まで、腰から腹まで、腹から太股まで。マブロが全力で縄を引いていた。ガラムも自分で体を引き上げようとしていた。
抜けた。
どさりと音がして、ガラムが砂の上に転がった。マブロが走り寄った。アルブはようやく根から手を離した。
離した瞬間に、根の記憶が遠のいた。砂はまたゆっくり動き始めた。一時的なものだった。根の役目を完全につなげ返したわけではない。ほんの少しの間、思い出してもらっただけだ。
でもその少しの間が、ガラムを助けた。
「ガラム」マブロがガラムの背中を叩いていた。「死ぬなよ、死ぬなよ」
「死なん」ガラムはぼさぼさの声で言った。「砂を飲んだ。うまくない」
「当たり前だ」
アルブが近づくと、ガラムが顔を上げた。砂まみれの顔で、アルブを見た。
「根を拾ったのか」
「ちゃんとは拾えてない。思い出してもらっただけ」
「思い出してもらっただけで、流砂が止まった」
「少しの間だけ」
ガラムはしばらく黙った。砂を吐き出して、水を一口飲んで、それからゆっくり立ち上がった。足がまだ砂に埋まっている。マブロが引っ張って出した。
「博守五十年やってるが」とガラムは言った。「流砂から出してもらったのは初めてだ」
「恥ずかしいか」とマブロが言った。
「少し」
「俺たちに助けられたのが?」
「流砂に嵌まったのが、だ」ガラムは言って、また砂を吐いた。「ありがとうな、二人とも」
それだけだった。ガラムが礼を言うのをアルブは初めて聞いた。短い言葉だったが、ガラムの礼は短ければ短いほど本物だということをアルブは知っていた。
三人が立っていた場所の少し先、根の先端があった場所の真上で、砂が少し盛り上がっていた。その盛り上がりが、ゆっくりと大きくなっていた。
砂が割れた。
木が出てきた。
太い幹。広がる枝。葉は一枚もなかったが、確かに生きている木だった。眠っていた根が砂の上まで幹を伸ばした。大樹が砂漠の真ん中に立った。
だが、その幹には緑がなかった。
生き返ったというより、眠っていた役目が一度だけ身を起こしたように見えた。
三人は黙って見ていた。
砂漠に、木が立っている。
「でかい」とマブロが言った。
「大樹だ」とガラムが言った。
アルブは何も言わなかった。この木はむかしからここにいた。砂漠になる前から。根の記憶が残っていたから、今日また立ち上がれた。枝を広げて、砂漠の風に揺れていた。役目を思い出した木が、そこにいた。
大樹の枝は折れずとも、風が運んだ細い枝が三本、砂の上に落ちていた。ガラムはその枝を拾って「これは高く売れる」と言ったが、帰りの道のりで一度も口を開かなかった。アルブには、ガラムが何かを考え続けているのが分かった——師匠が無口になるとき、それはいつも大事なことを整理しているときだ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第5話では、アルブとマブロの力が初めてひとつにつながりました。
アルブが読む。
マブロが動く。
二人は正反対ですが、だからこそ足りない部分を補い合えます。
そして、今回現れた大樹は、ただの奇跡ではありません。
砂の底に、まだ世界が捨てきれずに残していた役目のひとつです。
次回、第一章は大きな区切りを迎えます。




