第38話 届ける風
センが言った。
「目を閉じるな」
「え」
「風を読むとき、目を閉じてる。目を開けろ」
「目を開けたら、風が見えない」
「風そのものを追うな。追うと体が先に動く。風が来たとき、自分の体がどこで反応するかを見ろ。」
マブロは目を開けた。
高台に立って、装置の塔を見ていた。輪が回っていた。風になろうとしていた空気の動きを、手前で打ち消していた。
「体のどこで感じる?」
センが聞いた。
「……耳の後ろ。首の後ろ。砂漠では、嵐の前に首の後ろが冷たくなった」
「今は?」
「冷たくない。温い」
「温いのは、風が止まってるから。温い空気は動かない。動かない空気は淀む」
マブロは首の後ろを感じた。
温かった。生ぬるかった。
「風が来る前、砂漠では空気が動いた。遠くから何かが来るのが分かった。それが風の始まりだった」
「そうだ。風は端から来る。端から始まって、届くまで動く。届けることが風の仕事だ」
「何を届ける?」
センが畑を見た。
まだ葉が少し欠けた、小さな畑だった。
「種を届ける。花の匂いを届ける。雨の気配を届ける。遠くの誰かの声を届ける。火の熱を、炉から炉へ届ける。そして、人の気配を届ける。あなたは今日ここにいる。あなたの気配が、遠くの誰かに届く。それも風の仕事だ」
ニルが横で聞いていた。
「火の国でも同じです」とニルが言った。「火は燃え広がるものだと思っていた。でも火種を届けるという考え方がある。届けた先で、新しい火が生まれる。燃え移るのではなく、届ける」
「火と風はつながってる」
「そうです。風が届けた場所に、火が生まれる。火が生まれた場所から、熱が上がり、風が動く」
センがマブロを見た。
「やり直す?」
「やり直す」
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今度は力から入らなかった。
方向から入った。
どこへ届けるか、から始めた。
装置が止めている風の、行き先はどこか。種が飛ぼうとしていた。雲が動こうとしていた。声が遠くへ向かおうとしていた。それぞれの行き先があった。
止められていた分が一度に来ないように、小さく、一つずつ、行き先を開ける。
嵐にならないように。届けることを優先して。
マブロは黒砂塊を握った。
ニルが火種の容器を出した。蓋を少し開けた。光が漏れた。
「火が風を誘います」
ニルが言った。
「火の向かう先へ、風を誘います」
火種の光が、ゆらいだ。
空気が動いた。
今度は砂が巻き上がらなかった。
空気の動きが、方向を持っていた。北から南への流れが、かすかに始まった。塔の輪が、わずかに速度を落とした。完全には止まらなかったが、打ち消す力が少し弱まった。
その隙間から、風が動いた。
細かった。
葉一枚を揺らすほどの、細い風だった。
でも方向があった。
センが畑の前に走った。
「来た!」
葉が揺れた。
欠けた葉の残っている部分が、細い風に揺れた。センが両手を広げて、風を受けた。痩せた体が、細い風を全部受けようとするように、広げた。
「来てる!」
マブロは風を感じた。
首の後ろが、少し冷たくなった。
生ぬるかった温い空気の中に、動く空気が生まれた。冷たさではなく、動き始めた気配だった。
遠くへ、何かが届こうとしていた。
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三日間、少しずつ続けた。
一度に全部戻すのではなく、一日ひとすじずつ、風の通り道を開いた。
二日目、帆柱に一枚だけ帆を張ってみた。動いた。小さく動いた。船頭が「三年ぶりだ」と言った。声が普段より小さかった。泣きそうな声だった。
三日目、種の季節を過ぎた草が、でも残っていた種を飛ばした。風が来たから飛んだ。細い風だったが、種には十分だった。種が飛んでいくのを、センが追いかけた。追いかけながら、どこへ落ちるか見ていた。落ちた場所を、指で地面に印をつけた。
「来年、ここに芽が出る」
センが言った。
「記録しておく」
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出発の前の夜、センが高台に来た。
風読みの道具を持っていた。細い骨を糸で繋いだ道具だった。風向きと強さを読む道具だった。
「これを持っていけ」
「お前が使う道具だろ」
「作れる。また作る」
マブロは道具を受け取った。
細い骨が、手のひらの上で揺れた。空気の動きを拾って揺れた。今夜の風を読んでいた。
「一緒に来るか」
「行く」
センは即答した。
「あの畑はソウダのじいさんに頼む。じいさんは種を保存してる。帰ってくるまで、種は残ってる」
「ソウダ? 土の国にも、そういう農師がいるって聞いた」
「同じ一族だ。風の国に残った方のソウダだよ。農師だ。土の仕事を知ってる。おじいさんと仲がいい」
マブロはその名前を、どこかで聞いた気がした。だが思い出せなかった。砂漠の世界は、知らないところで繋がっている。
「この国の風は戻り始めた。でも、戻した風がどこへ届くか、俺はまだ知らない」
センは風読みの道具を握った。
「外の風を見たい。戻った風が、海の向こうでどう動くのか見たい」
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船に乗る前に、マブロは高台に一人で立った。
風を感じた。
首の後ろが、冷たかった。
三日前の生ぬるさとは違う。動く空気の冷たさだった。
風は届けようとしていた。
遠くへ、何かを届けようとしていた。
マブロは懐の火種の容器を握った。
温かかった。
風と火が、手のひらの中と首の後ろで、一緒にあった。
アルブは今、どこにいるか。
水の国か、土の国か。もっと遠いか。
届かないかもしれない。届かなくていい。でも。
「白も、今ごろ拾ってる」
マブロは言った。
風が来た。
細い、方向のある風が、マブロの首の後ろを過ぎた。
「だったら俺は、届ける」
風が、遠くへ向かった。
どこへ届くかは、分からなかった。
でも、届こうとしていた。
それで十分だった。
同じ日の夕方、土の国の高台で、アルブは風を感じた。風のない土地で、ほんの一瞬だけ、動く空気が来た。
首ではなく、手のひらで感じた。水脈を読む手のひらで、風の気配を感じた。
ウラが「風が来た」と言った。ソウダが空を見上げた。
アルブは手のひらを見た。遠い場所の、遠い人間の気配のような何かが、かすかに残っていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第38話では、風を強さではなく、方向から読み直しました。
風は、ただ吹くものではありません。
種を運ぶ。
雲を動かす。
花の匂いを届ける。
火の熱を運ぶ。
遠くの誰かの声や気配を伝える。
マブロは一度にすべてを戻そうとせず、小さな通り道を一筋ずつ開いていきました。
最初に戻ったのは、葉一枚を揺らすほどの細い風です。
けれど、その風は三年ぶりに帆を動かし、残された種を次の土地へ運びました。
マブロの成長テーマだった、
強さとは、壊すことではなく、届けること。
その意味が、今回ようやく形になり始めたと思います。
そして離れた土の国では、アルブもその風を感じました。
言葉を交わさなくても、別々の場所で拾った役目が、少しずつ相手へ届いている。
双子が離れているからこそ描ける、つながりの回です。
次回から、アルブとマブロはそれぞれの仲間を連れ、再び同じ場所を目指します。
細い風が二人の間をつないだ場面が印象に残りましたら、感想で教えていただけると嬉しいです。
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