第37話 マブロ、風の国へ
火の国から同行したニルは、甲板で火種の容器を抱えていた。
海が平らだった。
波がない、という意味ではない。波はある。でも帆が動かない。
船頭が困った顔で言った。「風の国の手前から、いつもこうなんです。風が来ない。この三年ほど、この海域では帆が役に立たない」
「オールで行くのか」
「オールで行きます。時間がかかりますが」
マブロは海面を見た。
波があるのに風がない。波は風が作る。なのに風がない。おかしかった。海の深いところで何かが起きているか、あるいは水面より上の空気が動いていないか。
「風の記憶がある」
ニルが言った。
横に立っていた火の巫女が、空を見上げていた。
「火の国でも、風が来なくなった季節があります。風が来ないと、炉の熱が逃げない。溜まる。熱と風は、互いを必要としている」
「どういうこと」
「火が熱を出すと、周りの空気が動きます。動いた空気が風になる。風が来ると、火は酸素を得て燃える。火と風は循環しています。風が止まれば、火も変わる。火が変わると、風も変わる」
マブロは空を見た。
灰色だった。雲が動いていなかった。止まった雲が、空全体に蓋をしているような色だった。
「陰気な空だ」
「風がないと、雲も動かない」
「雲が動かないと、雨も降らない」
「そうなります」
マブロはオールの音を聞きながら、風の国の岸を見た。
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港に着いた。
帆が一枚も張られていなかった。
港というのは、船の帆がはためく場所だ。砂漠の港でも、水の国の港でも、火の国の港でも、帆があった。ここには帆がなかった。帆柱だけが、何本も立っていた。帆のない帆柱が、空に向かって立っていた。
「帆を張っても意味がないから」
港の案内人が言った。
「三年前から、帆が動かなくなりました。風車も止まっています。種の飛ぶ季節も、種が飛ばなくなりました。声が遠くへ届かなくなりました。以前は、丘の上から大声を出せば、二つ先の村に聞こえた。今は、隣に立っていないと聞こえない」
「声が届かない?」
「風が声を運んでいたのだと、今になって分かりました」
マブロは風のない空気を感じた。
空気があった。呼吸はできる。でも、動いていなかった。動いていない空気は、重かった。砂漠の乾いた空気とは違う重さだった。淀んだ重さだった。
「何かした?」
マブロは案内人に聞いた。
「何かというと」
「風を止めるような何かを。魔法とか、装置とか」
「……あります」
案内人が少し顔を曇らせた。
「十年前に、嵐制御装置を設置しました。毎年、秋に来る大嵐で作物が壊れる。家が飛ぶ。人が死ぬ。それを止めるために、王国の技術で装置を作りました。嵐の種になる風を、発生の段階で止める装置です」
「止めすぎた」
「……結果的に、そうなりました」
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装置は国の中心にあった。
高台に建てられた石造りの塔だった。塔の先端に、魔法の印が刻まれた金属の輪が取り付けられていた。輪が常に回転していた。
輪が回るたびに、風が止まった。
正確には、風になろうとしていた空気の動きを、手前で打ち消していた。
「嵐になる風と、普通の風を、どう区別するんだ」
「区別しません」
案内人が答えた。
「強い風を、全部止めます。弱い風は通します。でも弱い風では、帆は動かない。雲は動かない。種は飛ばない」
マブロは塔を見上げた。
「止めればいい」
マブロは言った。
「装置を止めれば、風が戻る」
「試みました。一度止めたとき、翌日に嵐が来ました。三年分の風が一度に来た。村が二つ、潰れました」
マブロが黙った。
「三年分の歪みが、一度に戻ったのか」
「止められていた風そのものではなく、止め続けた歪みが戻ってきました」
「王都の真力炉と同じだ。蓄積が一度に返ってくる」
「そうなります。少しずつ風を戻す方法が分からない。全部止めると今の状態になる。少し戻すと暴走する」
マブロは高台から国を見渡した。
風のない国が見えた。
帆のない港が見えた。動かない風車が見えた。飛ばない種が見えた。
届かない声の国が見えた。
「やってみる」
マブロは言った。
「少しずつ戻す方法を」
黒砂塊と、風鳴り骨を出した。
黒砂塊は火の向かう先を教え、風鳴り骨は風の通り道を鳴らした。
火と風の真法拾いとして、風の記憶を読んだことがある。砂漠で黒砂塊が風を呼んだことがある。あのときは嵐にしかけた。でも今は違う。あのときより多くを知っている。
マブロは目を閉じた。
風の記憶を呼んだ。
来た。
砂漠の夜の風だった。ばーちゃんの村の風だった。マニハを作ったときの風だった。サニワの帆を満たした風だった。
静かな風だった。
方向を持った風だった。
そのまま、その風を引いた。
空気が動いた。
最初はかすかだった。マブロの周りだけ、空気が動いた。動いた空気が少し広がった。広がりながら、少し強くなった。
少し強すぎた。
砂が巻き上がった。
高台の下の畑があった。小さな畑だった。子供が一人、畑の前に立っていた。巻き上がった砂が畑に降りかかった。
「止めろ!」
子供の声がした。
細い声だった。でも怒っていた。
マブロは風を止めた。
砂が落ちた。
子供が畑を確認した。葉が数枚、剥がれていた。
子供がマブロを見た。
「何してるんだ」
十二か三歳の、痩せた少年だった。
「すまない」
マブロは言った。
「風を戻そうとした」
「加減ができてないじゃないか」
「……加減が難しい」
「難しいならやるな」
「でも誰かがやらないと、風は戻らない」
「やり方が悪い」
少年がマブロに近づいた。
「強く吹かせれば戻ると思ってる?」
「そう思ってた」
「違う」
少年は空を見上げた。
止まった灰色の空を見た。
「風はただ吹くもんじゃない。届けるものだ。吹かせるだけなら、嵐と同じだ」
マブロは少年を見た。
「お前、風が読めるか」
「少し」
「名前は」
「セン」
「一緒に来てくれないか」
センが少し考えた。
畑を見た。葉が剥がれた、小さな畑を見た。
「この畑が無事なら、行く」
「補償する」
「金じゃない。ちゃんと届けられるようになったら、来い。それが補償だ」
マブロは空を見た。
止まった風が、動こうとしているのが、かすかに分かった。
まだ届いていなかった。
その夜、センが教えた。
「風を読むときは、強さより方向を先に読む。どこへ行きたいか。何を運びたいか。それが分かってから、力を足す」
マブロは黙って聞いた。
今まで力から入っていた。方向は後から考えていた。
アルブは最初に読んでから動く。俺は動いてから考える。
それが問題だったのかもしれない、と初めて思った。
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ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第37話では、マブロとニルが風の国へ到着しました。
帆が動かない。
雲が流れない。
種が飛ばず、遠くへ声も届かない。
人々を嵐から守るために作られた装置は、危険な風だけでなく、暮らしをつなぐための風まで止めていました。
装置を止めれば、蓄積した歪みが嵐となって戻ってくる。
動かし続ければ、国から風の役目が失われていく。
そしてマブロは、風を戻そうとして失敗します。
強く吹かせればいいと思い、畑を傷つけてしまう。
その失敗を正面から指摘したのが、風を読む少年センでした。
これまで力を先に出していたマブロが、初めて「どこへ届けるのか」を考え始めます。
次回は、吹き荒れる風ではなく、目的地を持った風を取り戻します。
センの言葉や、マブロの失敗について感じたことがあれば、感想で聞かせていただけると嬉しいです。
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