第34話 休む土
三割の畑に、何も植えなかった。
アルブは種を持っていなかった。老農師のソウダが種を持っていた。持っていて、植えなかった。アルブが「休ませる」と言ったとき、ソウダは一度だけ目を閉じて、「分かった」と言った。
他の農民たちは、分からなかった。
「何もしないのか」
畑の前に立った男が言った。三十代の農民だった。子供が三人いる。食料が足りなくなれば、一番に響くのは子供だ。
「今年は休ませます」
「なぜ」
「土が疲れているから。無理に使い続けると、来年はもっと減ります」
「来年の話をしても仕方ない。今年、食べなければ死ぬ」
アルブは答えられなかった。
正しかった。その男は正しかった。今年の食料が足りなければ、来年まで生き延びられない人間がいる。その現実の前で、「土を休ませれば十年後に戻る」という話をしても、届かない。
「申し訳ないと思っています」
アルブは言った。
「謝るなら、動けよ」
男が言った。怒鳴ってはいなかった。疲れた声だった。怒る気力も残り少ない声だった。
「動いています。ただ、今すぐ実らせることは、土のためにできない」
「土のために」男が繰り返した。「土のために、俺たちを待たせるのか」
アルブは何も言えなかった。
男が去った後、ウラが横に来た。
「つらそう」
「……つらい」
「正しいと思ってる?」
「思ってる。でも、正しいことがすぐに人を救うとは限らない」
ウラが少し考えた。
「水の国でも、同じだった。装置を変えて、泥の筋が流れた。でも魚が戻るには一年かかる。その一年の間、漁師は収入が減る。正しい方向を向いても、当事者には長い時間だ」
アルブはうなずいた。
「でも、あなたは変えた」
ウラは続けた。
「変えたことで、確かに変わり始めた。今すぐ全部じゃなくても、変わり始めた」
「水の国はそれで良かった。でも土の国は、今年飢えるかもしれない人がいる」
「それは水の国でも、水路で稼げなくなった人がいた。あなたのせいじゃない」
「あなたのせいじゃない、は慰めにならない」
ウラが黙った。
「慰めようとした。それは違った」
「うん」
「でも、アルブのやっていることは間違っていないと、私は思う」
---
夕方、ソウダが来た。
七十を過ぎた老農師で、背が低く、手が大きかった。何十年も土を触ってきた手だった。指の節が太く、皮が厚く、土の色が染み込んでいた。
「見てたよ」
ソウダは言った。
「男に言い返せなかったな」
「返せなかった」
「正しいことが言い返しになるとは限らん」
ソウダは休ませた畑に入った。靴ではなく素足だった。土の感触を足の裏で確かめながら、ゆっくり歩いた。
「この土な」
ソウダが言った。
「俺が若い頃は、もっとあたたかかった。春になると、踏むと温かかった。生き物がいたから。今は冷たい。踏んでも何も返ってこない」
アルブは何も言わなかった。
「お前の言う通りだ」とソウダは言った。「休ませなきゃいかん。でも、お前には分からんことがある」
「何ですか」
「農民は土が友達なんだ。毎日触って、匂いを嗅いで、何十年も一緒にいる。その土が弱ってるのを、農民が一番よく知ってる。知ってて、それでも使い続けた。選択肢がなかったから」
ソウダが畑の端にしゃがんだ。
「選択肢を作ってくれるなら、農民は待てる。待てない農民もいるが、待てる農民もいる。俺は待つ。この土が眠るのを、一緒に見てやる」
アルブはソウダを見た。
「一緒に来てもらえますか。次の畑を回るときも」
「どこへでも行く」
ソウダは素足で土を踏んだ。冷たい土を、温めるように、ゆっくり踏んだ。
「実らせるだけが、土の仕事じゃねえ」
ソウダは言った。
「抱いて、眠らせるのも、土の仕事だ」
アルブは土を見た。
今日は何も植えられなかった土。何も出てこない土。それでも、ここにある土。
眠ることも、役目だ。
そう思ったとき、喉の奥の何かが、少し緩んだ。
その夜、休ませた畑の土に、水の国から持ってきた藻を混ぜた。
ウラが水の配分を担当した。ソウダが深さを指示した。
アルブが土の記憶を読みながら、藻が根付ける場所を選んだ。
三人の作業が、暗い畑の中で続いた。
明け方近く、ソウダが
「今夜はここまでだ」
と言った。
アルブは土を手で撫でてから、立ち上がった。
土は、まだ冷たかった。
この作業は、一晩では終わらない。
三割の畑を眠らせるには、村を何日も歩かなければならない。
それでも、始まった。
---
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第34話では、土を回復させるために「何も植えない」という選択を描きました。
未来のために畑を休ませることが正しくても、その間に食べるものが必要な人たちがいます。
正しい方法が、今苦しんでいる人をすぐに救えるとは限りません。
アルブはその現実に言い返せず、苦しみます。
そんなアルブに、老農師ソウダは、農民たちも土が弱っていることを知っていたと語りました。
知りながら使い続けたのは、他の選択肢がなかったからです。
実らせるだけが土の役目ではない。
抱き、眠らせ、次に備えることも土の役目。
今回は、何もしないことが未来を守るための仕事になる回でした。
次回は、マブロが火の国へ到着します。
そこで待っているのは、国を支えながら暴走寸前まで巨大化した炉です。
ソウダの言葉や、土を休ませる選択について感じたことがあれば、感想で聞かせていただけると嬉しいです。
評価やブックマークでの応援も、とても励みになります。




