第33話 アルブ、土の国へ
水の国から土の国までは、東回りの航路で四日だった。
海は穏やかだったが、船底に当たる水の音は、水の国を離れるにつれて少しずつ重くなった。
土の国は、遠くから見ると緑だった。
段々畑が山の斜面を覆っていた。石垣が幾重にも積み重なって、それぞれの段に土が保たれていた。緑が豊かだった。
「ここは大丈夫に見える」
ウラが言った。
「中に入るまでは」
アルブは答えた。
港から歩いて半日、村に入ると、様子が違った。畑はあった。緑もあった。だが人の顔が疲れていた。子供が少なかった。市場の食料の量が少なかった。売っている野菜が小さかった。
「作物の収量が落ちています」
村の長老が言った。
「七年前の三分の一以下です。同じ種を蒔いても、育ちが悪い。魔法で促成をかけても、前より実りが少ない」
「促成とは」
「成長を早める魔法です。一か月かかるところを十日で育てる。倍の速さで育てる。三倍の実りを一度に出す。王国の真力炉ほど大きなものではありません。ですが、畑ごとに小さな炉を置いたようなものです。」
「それをいつから」
「五十年ほど前から。元々は凶作の年の緊急手段でした。それが、毎年使うようになって」
「土が追いつかないですね」
長老が顔を上げた。
「どういうことですか」
「土が作物を育てるには、時間が要ります。土の中の微生物が栄養を作り、根が伸び、水分が保たれる。それが一つの作物を実らせる時間に必要な過程です。促成で十日にしたなら、土には十日分の負担がかかった。次の作物を植えると、また十日分。五十年間、それを繰り返した」
「土が疲れた、ということですか」
「疲れた、というより」
アルブは言葉を探した。
「……使い果たした、に近いかもしれません。土が持っていた役目を、先取りし続けた。真力でいえば、前借りし続けた」
長老が黙った。
「では、どうすれば」
アルブはすぐには答えなかった。
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畑に行った。
段々畑の一枚に、今季の作物が植えてあった。葉は出ていた。だが色が薄かった。薄くて、小さくて、力がなかった。茎が細かった。
アルブは畑の端に膝をついて、土に触れた。
来た。
疲れた、という記憶ではなかった。
もっと古い記憶だった。
この土は、長い時間をかけて作られていた。山が風化して、石が砂になって、有機物が積み重なって、何百年もかけて今の深さになった土だった。その記憶が来た。
そしてその後に来たのが、削られていく記憶だった。
一年に一度の収穫が、二度になり、三度になり、促成で五度になった。そのたびに土が使われた。栄養が抜けた。微生物が減った。水分を保つ力が落ちた。
最後の方の記憶が、一番苦しかった。
何も持てなくなっていく感覚だった。
受け止めようとしても、受け止めるものが残っていない感覚だった。
子供を抱えたいのに、腕に力が入らない。そういう記憶だった。
アルブは土から手を離した。
目が、少し潤んでいた。
「アルブ」
ウラが横に来た。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
「顔が、大丈夫じゃない」
「受け止めた。今は大丈夫」
ウラが長老に向いた。
「どのくらい待てますか。今年の収穫を諦めることはできますか」
長老が「それは」と言いかけた。
「人が飢えます。今年の収穫がなければ、来年の種もない。待つことが、今は一番難しい」
アルブは立ち上がった。
「全部は待てないと思います」
アルブは言った。
「でも、一部だけ休ませることはできますか。全部の畑ではなく、一割だけ。今年だけ何も植えない畑を、一割だけ」
「一割」
「その畑に、水の国から持ってきた藻を入れます。虫を入れます。砂根草の繊維を混ぜます。土が記憶を取り戻す手伝いをします」
砂根草の繊維は、栄養ではない。
崩れた土を抱え直す骨になる。
水を含み、虫の通り道を残すための、細い網になる。
「それで、どうなりますか」
「来年、その畑だけは、少し回復します。再来年、また少し。五年後、その畑は元に戻ります。元に戻った畑が隣の畑を助けます。十年かかるかもしれません」
長老は黙った。
十年という言葉が、重かった。
「今年、飢える人が出るかもしれない」
「出るかもしれません。一割は今年収穫がなくなるから。申し訳ないと思っています」
「申し訳ない、では済まない」
「分かっています」
アルブは長老の顔を見た。
怒っていない。疲れている。長年疲れ続けた目だった。
「それでも、今年全部使えば、来年はもっと少なくなります。来年全部使えば、再来年はさらに。どこかで止めなければ、土は戻らない」
長老がしばらく黙った。
「……考えます」
それだけ言った。
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夕方、一番痩せた畑の前に戻った。
アルブは再び土に触れた。
今度は記憶を読むためではなかった。
ただ、触れた。
疲れ果てた土に、触れた。受け止める力がなくなっても、まだここにある土に。何百年かけて積み重なった記憶が、削られ続けても、まだかすかに残っている土に。
ありがとう、と思った。
言葉にならなかった。
土が手のひらの中で、さらさらと崩れた。
受け止める力がなくなった土は、形を保てなかった。崩れながら、指の間からこぼれていった。
アルブはこぼれる土を、もう片方の手で受け止めた。
全部は受け止められなかった。
それでも、受け止められた分だけ、受け止めた。
三日後、長老が答えを出した。
「三割にしてください」
一割ではなく三割。今年の収穫が三割減る。それでも三割休ませる。
アルブは
「分かりました」
と言った。
「三割で始めます」
──土に記憶を戻す作業が始まった。
そしてその夜、ウラが言った。
「マブロって、どんな人?」
アルブは少し考えてから、
「俺とは、反対に動く人」
と言った。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第33話では、アルブとウラが土の国へ到着しました。
緑に覆われた段々畑は、遠くから見れば豊かに見えます。
けれど、その土は五十年ものあいだ、成長促進の魔法によって使われ続けていました。
早く育てる。
多く実らせる。
今を乗り切る。
その積み重ねによって、土が回復するための時間が失われていったのです。
今回、アルブが示した方法は、すぐにすべてを救う奇跡ではありません。
畑を休ませ、虫や藻を戻し、土が役目を思い出すまで何年も待つ方法です。
そして長老は、一割ではなく三割を休ませる決断をしました。
今年の収穫を減らしてでも、未来の土を残す。
それはとても重く、勇気のいる選択だったと思います。
次回から、土に記憶を戻す作業が本格的に始まります。
同時に、離れた場所を進むマブロの旅も少しずつ見えてきます。
三割の畑を休ませる決断や、こぼれる土を受け止めるアルブの姿が印象に残りましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。




