第32話 濁ることも水の役目
浄水場は湖の南岸にあった。
石造りの建物で、屋根が低く、窓が小さかった。中に入ると、装置があった。大きな水槽が並んでいて、水が段階的に流れていた。各槽に魔法の印が刻まれていた。水がその印を通るたびに、何かが取り除かれていた。
「全部の水がここを通ります」
施設の管理者が言った。
四十代の男で、王族の紋章が入った上着を着ていた。丁寧な人間だった。
「泥、微生物、有機物、においの元になるもの、すべてを取り除きます。国民に清潔な水を届けることが、王家の使命ですから」
「いつからこの装置がありますか」
「七十年ほど前から。先々代の王の時代に設置されました」
アルブは水槽を見た。
入ってくる水と、出ていく水が、色が違った。入ってくる水はわずかに濁りがある。出ていく水は完全に透明だ。
「七十年前から、湖の魚は減り始めていますか」
管理者が少し黙った。
「……記録には、五十年ほど前から漁獲量の減少が」
「水辺の虫は」
「四十年前から、報告が」
「水鳥は」
「三十年ほど前から」
アルブは出口の水を見た。
透明な水が、水路へ流れていく。清潔で、匂いがなく、何も含まない水が、この国の全部の水路へ流れていく。
「水が清潔になったのに、魚が減ったのはなぜだと思いますか」
管理者は答えなかった。
答えを持っていないのかもしれなかった。七十年間そうしてきたから、疑わなかったのかもしれなかった。
「説明させてください」
アルブは言おうとした。
言おうとして、詰まった。
どこから言えばいいか分からなかった。水が濁る理由から言うべきか。食物連鎖から言うべきか。有機物が次の命の栄養になることから言うべきか。言葉が多すぎて、どれを先にすべきか整理できなかった。
沈黙が続いた。
「水が運ぶものが、なくなったんです」
ウラが言った。
アルブが振り返った。ウラは管理者の方を見て続けた。
「川や湖の水って、透明じゃないでしょう。本来は。泥が混じる。魚の糞が混じる。死んだ虫が流れる。腐った葉が沈む。それが水底に積もって、微生物が分解して、栄養になる。その栄養で藻が育って、藻を小さな虫が食べて、虫を魚が食べる。その連鎖が全部、水が運ぶもので成り立ってる」
管理者が黙っていた。
「浄水場が全部取り除いた。泥も、有機物も、においの元も。きれいになった。でも連鎖の最初がなくなった。だから魚も来ない。虫も来ない。鳥も来ない」
「あなたは」管理者がウラに言った。「舟守では」
「そうです。水路で生きてきたので、水路が変わったことは知ってます。子供のころは、もっと生き物がいた」
アルブはウラを見た。
言えた、と思った。自分が言えなかったことを、ウラが言えた。同じことを言おうとしていたのに、言葉の形が違った。ウラは水路で生きてきた言葉で言った。だから届いた。
「装置を、止めるのですか」
管理者が言った。
「止めません」
アルブは答えた。
「止めたら、今まで清潔な水に慣れた人が苦しむ。そうじゃなくて、装置を変えます。全部を取り除くのではなく、自然に濁る分は通す。浄水は疫病の原因になるものだけを取り除く。泥と有機物は残す」
「できますか」
「やってみます」
すべての水を変えたわけではない。
まずは湖から東の水路へ向かう一本だけ、泥と有機物を通す流れにした。
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三日かかった。
魔法の印の配列を変えることは、アルブにはできない。だが、浄水槽に流れ込む前の段階で、水の役目を読むことはできた。
取り除かれようとしているものの中に、何が混じっているか。疫病の原因になる微生物と、ただの泥と有機物を、分けて考えることができる。前者だけを取り除き、後者は通すよう、流れの記憶を変えた。
装置は変わっていない。
ただ、水が何を運んでいいかを、水に思い出させた。
魔法の印そのものは変えられない。
だからアルブは、印に入る前の流れを変えた。
疫病の原因になるものは沈む槽へ。泥と有機物は別の細い水路へ。
水が自分で分かれて流れるように、昔の分流の記憶を思い出させた。
五日目の朝、湖の水面に変化があった。
水が、わずかに色を変えた。透明の中に、かすかな茶色の筋が現れた。泥だった。上流から流れてきた泥が、初めて浄水場を通り抜けた。
小さな筋だった。
ほんの細い筋だった。
ウラが水面を見て、竿を持ったまま立っていた。
「変わった」
「うん」
「これで、魚が戻るの?」
「すぐには戻らない。泥が積もって、微生物が戻って、藻が育って、その先に虫が来て、魚が来る。時間がかかる」
「どのくらい」
「……一年か、もう少しか」
ウラは少し黙った。
「一年か」
「うん。すぐには変えられない」
「でも、変わった」
ウラは水面の泥の筋を見ていた。
細い、かすかな、茶色の筋が、透明な水の中をゆっくり流れていた。
「一緒に来る?」
アルブが聞いた。
「次の国に?」
「土の国に。水の後は土だから」
ウラが少し考えた。
「行く」
間を置かずに言った。
「水路は、戻るまで父に任せる。あの人は口は悪いけど、舟は守れる」
「いいのか」
「水が戻るところを待つだけなら、私じゃなくてもできる。でも、あなたが詰まったときに言葉を補うのは、今のところ私しかいない」
「そうだな」
「決まり」
土の国への船の上で、ウラが聞いた。
「砂漠ってどんな場所?」
アルブは少し考えた。
「死んでいるように見えるけど、死んでいない。死なないように、形を変えた場所」
ウラが
「水の国みたいだね」
と言った。
アルブは
「少し違う」
と言いかけて、止まった。
少し違うけど、同じかもしれない、と思った。
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ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第32話では、水の国の浄水場と、失われた水の役目を描きました。
泥も、有機物も、匂いも、すべて取り除けば水はきれいになります。
けれど、泥は水底を作り、有機物は微生物や藻を育て、その先に虫や魚や鳥がつながっています。
水は、ただ透明であればいいわけではありません。
何かを運び、次の命へ渡すことも、水の役目です。
今回はアルブが言葉に詰まったとき、ウラが水路で生きてきた言葉で説明してくれました。
真法は一人の力だけで完成するものではない。
役目を見つける人と、それを他者へ届ける人がいて、初めて変化が始まります。
次回、アルブとウラは土の国へ向かいます。
そこでは今度、使われ続けて疲れ果てた土と向き合うことになります。
透明な水の中に現れた、細い泥の筋が印象に残りましたら、感想で教えていただけると嬉しいです。




