第30話 四つの異常
地図を広げた。
サニワの甲板に、夜の火種部屋の光が届いていた。地図の四隅の印が見えた。炎・水・土・風。黒ずんでいた。
三日前より、黒ずみが濃くなっていた。
黒ずみは、ただ濃くなっているだけではなかった。
境界が広がっていた。印の外へ、じわじわと染み出していた。
「進んでる」
アルブは言った。
「消えていくのが、速くなってる。一か国ずつ順番に回っていたら、最後の国に着いたとき、最初の国が取り返しのつかないことになってる」
マブロは地図を見た。
四つの国の位置を確かめた。水の国は北東。土の国は東。火の国は南西。風の国は西。この島を中心に、四方に分かれている。
水の国と土の国は、東回りの航路でつながっている。
火の国と風の国は、西回りの古い交易路に残っている。
二手に分かれるなら、その組み合わせしかなかった。
「一人ずつか」
「一人ずつ」
「サニワは?」
「サニワはここに残る。ダウルとガラムがいれば動かせる」
「二人を置いていくのか」
「二人だけじゃない。俺たちが抜けても、二十一人いる。」
マブロは少し黙った。
「アルブが水と土」
「マブロが火と風」
「なんで俺が火と風で、お前が水と土なんだ」
「お前は火と風の真法拾いだから」
「それはそうだが」
「俺は水と土の真法拾いだから」
「それもそうだが」
「他に理由が要るか」
マブロは黙った。
「……ない」
「じゃあそれで決まり」
「簡単に言うな」
マブロが砂に腰を下ろした。アルブも座った。
二人で地図を見た。
四つの国が、地図の四方にあった。この島からそれぞれの国へ向かうには、それぞれの海を越えなければならない。船が要る。王国の船は外洋に出られないが、水の国との交易は細々と続いているという記録があった。水の国への航路は、まだ残っている可能性がある。
「何日かかる」
「水の国まで、船で十日程度。土の国はもう少し近い。火の国と風の国は……遠い」
「遠いのを俺が担当するのか」
「火と風の拾い手は、あなただけだ」
マブロはしばらく何も言わなかった。
夜風が来た。砂漠の夜の冷たい風だった。
「怖くないか」
マブロが聞いた。
「怖い」
アルブは答えた。
「一人で行くのが怖い。正直に言う。マブロがいないと、外に出られない。それはずっとそうだった。灯台まで行ったときも、王都へ行ったときも、お前がいたから出られた」
「だから」
「だから、今回は一人で行く」
マブロが振り返った。
「矛盾してる」
「矛盾してる。でも、怖くても行かなければならないときがある。怖がりでも、世界を受け止めることはできる、ってばーちゃんが言った」
「言ったか?」
「手紙に書いてあった。直接は言われなかったけど」
マブロは少し考えた。
「強がりか」
「強がりじゃない。怖がりのまま行く」
「違いが分からない」
「怖がりが黙って行くのが強がりだ。怖いと言いながら行くのは……なんというか、分からないけど、それをやるしかないと思ってる」
マブロが前を向いた。
砂漠の夜が広がっていた。星が出ていた。
「俺も怖い」
マブロが言った。
小さな声だった。アルブが聞き逃しそうな声だった。
「一人で火と風の国に行くのが怖い。お前がいないと大事なものを見落とす。それはずっとそうだった」
「うん」
「でも、行く」
「うん」
二人は並んで砂漠を見た。
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翌朝、ダウルを呼んだ。
ガラムも来た。
「二人で別々に動く」
アルブが言った。
「サニワとここの人たちを、頼みます」
ダウルが黙って頷いた。
ガラムが何か言いかけた。言いかけて、止めた。
「気をつけろ」
それだけ言った。
ガラムが双子に何かを言い残そうとしていることは分かった。ガラムは言葉が不器用な人間だった。何十年も砂漠を渡ってきて、言葉より行動で伝えてきた人間だった。だから「気をつけろ」の三文字に、それ以外の全部が詰まっていた。
子供たちが来た。
「どこ行くの」
「いくつかの国を見てくる」
「帰ってくる?」
「帰ってくる」
「いつ?」
「……分からない」
子供たちが黙った。
家族連れの娘が、アルブに近づいてきた。前に砂根草の茎を押し込んだ子だった。
「また何か持ってきてくれる?」
「持ってくる」
「砂根草の茎じゃない何か」
「何がいい」
「水の国の、水の匂い」
アルブは少し考えた。
「持ってこられるか分からないけど、覚えてくる」
「覚えてきて」
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別れの場所は、砂丘の手前だった。
ここからアルブは東へ、港町を目指す。マブロは南西へ、火の国への航路がある港を目指す。
二人は並んで立った。
アルブは地図を折りたたんで、マブロに半分渡した。火と風の国の場所が描かれた方だ。
マブロは地図を受け取った。
「ばーちゃんが言ってたこと」
アルブが言った。
「見るだけでも、動くだけでも、世界は戻らない、って」
「覚えてる」
「俺は見る。お前は動く。別々にいても、それは変わらない。」
マブロが鼻を鳴らした。
「詩みたいなこと言うな」
「詩じゃない」
「詩だ」
アルブは少し黙った。
「白だけじゃ、世界は動かない」
マブロが少し顔を上げた。
「黒だけじゃ、世界は残らない」
マブロは何も言わなかった。
「だから、別々に拾って、またつなげる」
砂漠の朝の風が来た。
砂が少し動いた。夜露甲虫が一匹、二人の間の砂を横切っていった。
「行くぞ」
マブロが言った。
「うん」
アルブが言った。
二人は同時に歩き出した。
同じ方向ではなかった。
東と、南西。
砂漠が二人の間に広がっていった。振り返らなかった。どちらも振り返らなかった。振り返ったら、止まってしまうから。
それぞれの砂の色が、それぞれの足の裏に伝わってきた。
三日後、アルブは港町に着いた。
水の国への船を探して、波止場を歩いた。
海の匂いは灯台で嗅いだことがある。
でもあのときは砂漠の後だった。
今は、砂漠を渡り切った後の海だった。
同じ匂いが、違う重さで来た。波止場の端に、古びた船が一艘あった。
甲板に女が一人、網を繕っていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第30話では、水・土・火・風、四つの国の異常が同時に進んでいることが明らかになりました。
順番に回っていては間に合わない。
そのためアルブとマブロは、初めて別々の道を選びます。
アルブは水と土の国へ。
マブロは火と風の国へ。
これまでアルブは、マブロがいたから外へ出られました。
マブロは、アルブがいたから大切なものを見落とさずに済みました。
だからこそ、二人とも一人になることを怖がっています。
怖くなくなったから進むのではありません。
怖いと認めたまま、それでも行くと決める。
白だけでは世界は動かない。
黒だけでは世界は残らない。
別々に拾い、もう一度つなげるための旅が、ここから始まります。
次回からは、アルブとマブロ、それぞれの旅が進んでいきます。
離れた二人が、何を見て、何を拾うのか。
二人の別れや、「怖がりのまま行く」というアルブの言葉が印象に残りましたら、感想で聞かせていただけると嬉しいです。
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