第3話 朽落の枯れ井戸
水の音がした。
川の音だ。どこかで聞いたはずがない。生まれてからずっと砂漠の村にいて、川など見たことがない。でもアルブは分かった。これが川の音だ、と。
白い石が冷たかった。手のひらに伝わる冷気は石のものではなく、もっと深い場所のものだった。地面の底の底から来ている。むかし水があった場所の記憶。
音が広がった。
川の音だけじゃなかった。森の音。風が葉を鳴らす音。雨が土を叩く音。それから人の声。話し声、笑い声、子供の声、誰かを呼ぶ声。水を汲む音、炉に火を入れる音、夜に歌う声。
アルブは立っていられなかった。
膝をついたのか、倒れたのか、自分では分からなかった。ただ石から手が離せなかった。離したら全部消える気がして、離したくなかった。
見えた。
川が見えた。幅の広い川。両岸に木が並んでいる。葉が光を受けてきらきらしている。水面が揺れている。その川の岸に人が来て、甕に水を汲んでいる。女の人だ。子供も来た。膝まで水に入って騒いでいる。遠くに家が見える。石造りの家、木の家、泥の家。煙が上がっている。炉から出る煙だ。
全部、ここだった。
今アルブが手をついている場所、この古い井戸の場所に、むかし川があった。そこに町があった。人が暮らしていた。
痛かった。
急に胸が痛くなった。痛みじゃない、でも痛い。川が消えていくのが分かった。見ている間に水が減って、岸の木が枯れて、土が痩せて、砂が増えて、家が埋まっていく。人が消えていく。最後に残ったのは、この井戸の白い石だけだった。
水を汲んだ記憶を持つ石が、最後まで残った。
「アルブッ!」
声が遠かった。マブロの声。でも遠い。砂漠のどこかで呼んでいる気がした。ここじゃなくて、もっと遠くで。
「アルブ、手を離せ!」
そうか、手を離せばいいのか。
でも離したら忘れる。川のことを。森のことを。人のことを。あの子供たちが水の中で笑っていたことを。
「離せッ!」
マブロの手が肩を掴んだ。強く。痛いほど強く。その痛みで、少し戻れた。
アルブは指を動かした。石の表面を感じた。冷たい。でも今は石の冷たさだ。水の冷たさじゃない。
手を離した。
声が消えた。川が消えた。森が消えた。
残ったのは、砂漠の静けさと、マブロが自分の肩を掴んでいることだけだった。
「アルブ」
マブロの声は近かった。すぐそこにいる。アルブは顔を上げた。マブロの顔が見えた。怒った顔をしていた。でも目が違った。怒った目じゃなくて、怖かった目だった。
「大丈夫か」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない顔してる」
「見えた」とアルブは言った。
「なにが」
「川。森。人。ここにあったものが、全部」
マブロは黙った。アルブの手を見た。手は震えていた。アルブは気づかなかった。
「触ったら見えたのか」
「うん。石が覚えてた。水を汲んだ記憶。その石に触ったら、全部流れてきた」
「流れてきた、って」
「痛みも、一緒に」
マブロはしばらく黙っていた。それから、アルブの手を両手で包んだ。温かかった。マブロの手は砂漠で働いている手で、固くて傷だらけで、でも温かかった。
「痛みって」
「川が消えていくときの。土が痩せるときの。人が去るときの。全部、石が覚えてた」
マブロはアルブの手を握ったまま、しばらく黙っていた。砂漠の音だけがある。風の音。砂の音。
「ばーちゃんが言ってた」とマブロはゆっくり言った。「真法は拾うもの。使うんじゃなくて、拾うもの、って」
「うん」
「おまえ、今、拾ったのかもしれない」
アルブは白い石を見た。さっきまで何かを持っていた石。今はただの白い石に見えた。でもアルブには分かった。まだ持っている。役目の記憶を。水を汲んだ記憶を。ここに川があったという記憶を。
「拾えた、かな」
「分からない。でも、おまえにしか見えなかったはずだ」
そうかもしれなかった。マブロは石に触れていない。アルブだけが触れた。アルブだけが見えた。
真法は見る力ではなく、拾う力だとばーちゃんは言った。世界に命令するんじゃない。世界に思い出してもらう力。では今アルブが見たものは、この石が世界に思い出させた記憶なのかもしれない。
「立てるか」
「立てる」
マブロが引っ張って立ち上がらせた。膝に砂がついていた。アルブは払おうとしたが、手がまだ少し震えていた。マブロが代わりに払ってくれた。
「今日はもう出よう」とマブロは言った。
「うん」
「この朽落はまた来る。今日はここまでだ」
アルブは出口へ歩きながら、白い石を振り返った。石は変わらず白かった。砂漠の中で、川の記憶を持ったまま、ずっとそこにいた。ばーちゃんが言った言葉が頭の中で鳴った。
*拾ったもんは、つなげ返さんとな。*
拾った、という気がした。
でも、それをどうすればいいのか、アルブにはまだ分からなかった。
この石が持っている川の記憶を、どこへつなげ返せばいいのか、アルブにはまだ分からなかった。でも、分からないまま外へ出た。砂漠の風が顔に当たった。乾いた、熱い風。でも確かに、風だった。
マブロが隣を歩いていた。それだけで、少し歩ける気がした。
夜、二人は焚き火を囲んで、虫殻の干したものを噛んだ。食事とも言えない食事。マブロは何も言わなかった。アルブも言わなかった。砂漠の夜は静かで、遠くに王都の光が白く浮かんでいた。
あの光は何の記憶を前借りして輝いているのだろう、とアルブは思った。答えは出なかった。
翌朝、マブロが黙って荷袋の中から黒い砂の塊を出して眺めていた。昨日の朽落で拾ったものだ。「触ってみる」と言ったマブロの目に、アルブは昨日の自分と同じ光があるのを見た——あれは、怖いのではなく、拾おうとしている目だ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第3話では、アルブが初めて「役目の記憶」に触れました。
枯れた井戸。
乾いた石。
けれど、その奥には、かつて水が巡っていた記憶が残っている。
アルブの力は、水を生み出す力ではありません。
水がそこにあった理由を、もう一度拾う力です。
次回は、マブロ側の変化を描きます。
白だけでなく、黒にもまた、拾えるものがあります。




