第15話 真庭マニハ
三日目の朝、草が芽吹いた。
アルブが一番に気づいた。水場の端、赤みがかった土の隙間から、細い双葉が二枚、砂を割って出ていた。砂根草ではない。もっと柔らかい、水辺に生える草の芽だ。
何年ぶりにここへ出てきたのだろう、とアルブは思った。
種はずっとそこにあったはずだ。水が来るのを、土の下で待っていた。待ちながら眠っていた。眠ったまま死ぬかもしれないと思いながら、それでも待っていた。
「草が出た」
声をかけると、マブロが振り返った。
「どこ」
「ここ」
「……本当だ」
マブロはしゃがんで、草の芽の横に指を置いた。踏まないように気をつけながら。こいつが踏まないように気をつけるのは珍しい、とアルブは思った。
「触るなよ」
「触らない」
「まだ根が浅い」
「分かってる」
マブロは草の芽から手を離して、水場を見渡した。
水はまだ少ない。大人が片手で掬えるほどの量しか溜まらない。だが、三日前よりは広がっている。砂根草の根が伸びてきているから、端の砂が固まりすぎず、崩れすぎない。ちょうどいい硬さで、水をじわじわと通している。
虫はいつの間にか増えていた。
夜露甲虫が五匹いる。昨日は三匹だった。砂を掘る小さな虫も来ている。土をほぐしてくれる。根が伸びやすくなる。
何かが、つながっている。
アルブはそれを感じた。感じながら、うまく言葉にできなかった。水があるから虫が来るのではない。虫が来るから土がほぐれるのではない。ほぐれた土に水が染み込むのではない。それぞれが、それぞれの役目を果たしながら、互いを助けている。
役目と役目が、つながっている。
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昼過ぎ、村の子供が来た。
七歳か八歳の男の子で、一人だった。親に連れてきてもらったのではなく、一人で来た。砂の上に素足で立って、水場を遠くから見ていた。
近づいてこなかった。
アルブも近づかなかった。
しばらくして、男の子が草の芽に気づいた。目が丸くなった。砂漠で草を見ることは珍しくない。砂根草はどこにでも生えている。だが水辺の草は違う。あの双葉が意味することを、子供でも直感的に分かる。
水がある。
男の子は後ろを向いて走り出した。
夕方には、老婆が一人来た。
杖をついた、痩せた老婆だった。だれかに連れてきてもらったのではなく、自分で歩いてきた。水場の前で立ち止まって、アルブを見た。アルブを見て、水場を見て、草の芽を見た。
「飲んでいいか」
老婆が言った。
「どうぞ」
水を掬う道具がなかったから、アルブは古い貝殻を手渡した。ばーちゃんの部屋に残されていたものだ。裏には、「灯台守より」と小さく書いてある。
老婆は貝殻で水を掬って、飲んだ。
一口だけ飲んで、しばらく黙っていた。
「冷たい」
「うん」
「砂漠に、冷たい水がある」
老婆の目が細くなった。泣いているのか笑っているのか、アルブには分からなかった。
「お前たちが出したのか」
「出したんじゃない」
アルブは言った。
「戻ってもらった」
老婆はしばらくそのまま立っていた。
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マブロが戻ってきたのは日が傾いてからだった。
「村から何人か来てる。出口のとこで止まってる。入っていいか分からないみたいだ」
「入っていい」
「言ってくる」
マブロが戻って、五人が来た。
皆、水場と草と虫を見た。見て、何も言わなかった。水を飲んだ。飲んで、帰っていった。
ただ帰った。
礼も言わなかった。礼を言うのが怖かったのかもしれない、とアルブは思った。認めてしまったら、何かが変わる気がして。あるいは、信じてはいけないような気がして。
「なあ、アルブ」
マブロが隣に来た。
二人は水場の前に並んで座った。草の芽が夕風にかすかに揺れていた。虫が水面を歩いていた。土が、水が、草が、虫が、それぞれの場所にいた。
「ここ、なんだろうな」
「うん」
「オアシスじゃないよな」
「ああ」
アルブは少し考えた。
正しい言葉が欲しかった。ばーちゃんならすぐに言えただろう。だがばーちゃんはいない。今は自分で言わなければならない。
「オアシスじゃない」
アルブは言った。
「ここは、水だけの場所じゃない。役目が、もう一回つながった場所だ」
マブロは黙った。
長い沈黙だった。
夜露甲虫が一匹、砂根草の茎を登っていった。
「真庭」
マブロが言った。
「ばーちゃんが言ってた。水と土と虫と草と人がつながり直す場所」
「うん」
「マニハ」
二人とも、しばらく何も言わなかった。
ばーちゃんの声が聞こえるような気がした。アルブの耳の奥で、丸くゆっくりとした声が言った。
*拾ったもんは、つなげ返さんとな。*
つなげ返した。
まだ小さい。水は少ない。草は細い。虫は数匹だ。人も半信半疑でしか来ない。それでも、つながっている。役目と役目が、ここでつながっている。
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翌朝、村の路地で男が言うのを、マブロが聞いた。
「屑守の双子が、庭を拾ってきたらしい」
半信半疑の声だった。
信じていいのか分からない、という声だった。
だが、それでよかった。
アルブはそれを聞いて、何も言わなかった。ただ、水場の方角を向いた。朝の光の中で、あの草の芽が今日も生きているかどうか、確かめたかった。
その日の夕方、マニハに見知らぬ人影が来た。博守の革鎧を着た老人と、やせ細った子供が二人。老人は水を一口飲んで、アルブを見た。「ここに、居ていいか」──アルブが答えるより先に、マブロが口を開いた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第15話では、最初の真庭――マニハが生まれました。
まだ水は少なく、草も細く、虫もわずかです。
けれど、水と土と虫と草、そして人が少しずつ集まり始めました。
オアシスではなく、真庭。
水だけがある場所ではなく、失われた役目がもう一度つながり直す場所です。
「屑守の双子が、庭を拾ってきたらしい」
この言葉はまだ半信半疑のものですが、村の中で何かが変わり始めた証でもあります。
次回は、そのマニハに見知らぬ博守の老人と子供たちが現れます。
この小さな水場が、二人だけのものではなくなっていきます。
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