第二十三話 恐怖心
「ほふひへは」
「飲み込んでから喋って。いつも言ってるよね?」
馬を走らせて三時間ほど。朝食にありつけなかったヴィクターの空腹が限界を迎えたところで、一行は少しの休憩を挟むことにした。ここまでの進行速度はほぼ想定通り。このまま何事もなければ、一日もかからずに目的地であるラクリマ遺跡に着くことができるだろう。だがそれはギールの一味との衝突の時間が迫っていることと同義。食事が始まってから今に至るまで、重苦しい沈黙が一行を包み込んでいた。
「ほへ……んっ。ごめんなさい」
「シアルが真似したらどうするつもり?」
しかしヴィクターが口火を切ったかと思うと、2人は実に見慣れたやり取りを繰り広げる。そこに先ほどまでの強ばった雰囲気は微塵も感じられなかった。もしや自分だけが勝手に萎縮していたのではないかと、シアルは猛烈な気恥ずかしさを覚える。思えばヴィクターは珍しく険しい顔をしていたが、それは空腹ゆえだったのではないだろうか。ルーノに至ってはそもそも普段から寡黙なのだから言うまでもない。
「貴様らは、怖くないのか?」
「険しい顔して、急にどうしたの」
2人の普段通りの様子を前にシアルの口をついて出たのは純粋な疑問だった。彼とてもちろん覚悟はしているつもりだったのだが、やはり命懸けの戦闘が翌日に迫っているという事実は重くのしかかる。これから先の自分たちの旅路はきっとより険しいものになり、命のやり取りなど何度だって起こり得るというのに、たかだか一度きりでこの体たらくでは情けない。どうすれば2人のように平常心を保っていられるのだろうか。
「僕は怖いよ、全然めちゃくちゃ怖い!」
「私も何も思わないわけじゃない」
だが、2人から返ってきたのはシアルにとって予想外の言葉だった。彼らほどの戦闘力、経験値があっても恐怖は振り払えないと言う。ならば自分はこの恐怖と一生向き合っていかなければならないのだろうか。いや、そもそも。
「なら、なぜ進める……?足を止めたい、逃げたいとは思わないのか?」
「失う方がもっと怖いから。君だってそうでしょ?だから私たちは今ここにいるんだ」
ルーノの言葉はシアルの記憶の奥底からある感情を呼び覚ました。それは失う恐怖。何もできないまま自分だけが生き延びることは、自分の命が失われることよりよほど恐ろしいことだと知っていたはずなのに。今の自分は目先の恐怖に呑まれてしまっていたのだとハッとする。
「どちらも嫌なら選ばなきゃいけない。足踏みする気持ちが分からないとは言わないけど、現実は待ってくれないよ」
「……その通りだ」
家族を失ったあの時、そして姉を失うかもしれない未来。そのどちらもが他の何より恐ろしかったから、自分はルーノたちに命を預けたのだ。それならばやるべき事は決まっている。深呼吸をひとつしたシアルの表情は、ほんの数秒前とは見違えるほど凛々しかった。
「覚悟、固め直せたみたいだね」
「ああ。すまなかった」
ルーノへと頭を下げ、シアルは正面へ向き直る。視界に入ったのはほとんど進んでいなかった食事、先ほどまで食欲など無かったはずなのに、今は自然と手が伸びた。これまでは当たり前だった保存食だけの昼食を少し物足りなく感じてしまうのはヴィクターのせいだろう。そこまで考えたところでシアルの脳裏に何かが引っかかった。自分たちは何かを忘れているような気がする。
「えっと。そろそろ喋ってもいい?」
「あ、忘れてた。何?ヴィクター」
先ほどルーノに話しかけた所をシアルに遮られてしまったヴィクターが遠慮がちに声を発した。ヴィクターが何か言おうとしていたのを自分が遮ったことなどほとんど忘れてしまっていたシアルはわずかな申し訳なさを覚える。忘れられていたこと、そして謝意がほんの少しであることから現状シアルがヴィクターのことをどう思っているのかが顕著に見て取れた。
「明日の事なんだけど、追加で情報が入ってきた」
「そういうことはもっと早く言えっていつも!」
ルーノが珍しく声を荒げたことにシアルは驚き思わずむせ込んでしまう。だがそんなことは目にも入らないようで、ルーノはヴィクターの襟首を掴んでいた。
「で!どんな大切な情報なの!?」
「……とても天気がいいらしいよ」
パァン!と、破裂音に似た音がシアルの鼓膜を揺らす。視界に映るのは手を振り抜いた姿勢のルーノと、数メートルほど先まで転がっていったヴィクターの姿。あまりにも清々しい暴力だが、一連の流れを見ていたシアルの同情心はルーノに向けられていた。
「痛い!結構かなりとても痛い!」
「私も頭が痛いよ」
勢いよく起き上がったヴィクターからの文句を一蹴し、ルーノは彼とは逆方向、同じく昼食を終えて草原でくつろいでいたディアたちの方へと歩き出す。間もなく出発かとシアルは慌てて保存食の残りを水で流し込んだ。だがディアたちの元へ辿り着いたルーノはこちらを振り向きもせず、彼女へ頭を擦り寄せる3頭を代わる代わる撫でている。動物と触れ合うことで、ヴィクターとのやり取りで生まれた疲労を癒しているのだろうか。
「それは大変だ!お薬、いる?」
「そういう意味ではないと思うぞ」
慌てて駆け寄ってきたヴィクターにシアルが冷静な指摘をする。むしろそんなことをされればルーノの頭痛は悪化すること間違いなしだ。動物との触れ合いによって徐々に表情が穏やかになってきているというのに、この男は本当に人を怒らせるのが得意なようだ。
「……?」
「我も少し頭が……。いや、だから薬はいらぬ!」
言葉が終わらないうちに懐から薬を取り出そうとしたヴィクターを勢いよく静止しつつ、シアルはこの天然という言葉では済まされないほどの察しの悪さを誇る魔術師と長年組んでいるルーノの懐の深さを思い知った。自分が同じ立場ならきっともっと怒っているだろう。ヴィクターの方がルーノより二つ年上らしいが、これではまるで姉と弟だ。実際、ルーノからは自分の姉と似たものを感じる。
「今、なんか失礼なこと考えてない?」
「そんなことはない。気のせいだろう」
厳密にはシアルがヴィクターに対して失礼という意識を持っていないだけなのだが、その真実は誰も知り得ない。ヴィクターもそれ以上は追求しようとは思わなかったようで、会話に区切りのついた二人は自然とルーノの方へと向かっていた。彼女のいる方からは時折ディアたちが漏らす気持ちの良さそうな鳴き声が聞こえてくる。ニクスですら心を開いているようで、主人としては人見知りの激しい自分の馬とルーノがあっという間に心を通わせていることが嬉しい反面、少しの嫉妬を覚えた。
「あ、二人も来たんだ」
シアルたちの接近には気づいていたようで、ルーノは振り向きもせず声をかけてきた。まさか見もせずにこちらに気づいていたとは思わず、驚かせないように声をかけようとしていたシアルは逆に盛大に驚く。
「わ!せ、背中に目でも付けてるのか!?」
「足音が聞こえたし、リスタとニクスがそっちを嬉しそうに見てたから」
そう言われると悪い気はしないのが人間というもの。先ほどまでの嫉妬など嘘のように消え、今は二人とも自分の馬が愛おしくて仕方ない様子だ。
「ああリスタ、僕も大好きだよお」
「さっきよりちょっと嬉しくなさそうだ」
ヴィクターはがくりと肩を落とす。目に見えて肩が下がったその様子がおかしくて、シアルは思わず吹き出した。
「なんだよ!」
「二人も来たことだし、そろそろ行こうか。もうあと少しだ」
ヴィクターの言葉など気にもせずにルーノが出発を促す。反対意見はもちろん出ず、数分後には一行はその場を後にしていた。




