閑話 漆黒の名簿
セルゲイ・オストリク軍曹は、死んだ翌朝まで三つの名前を持っていた。
本名。
偽装会社が発行した身分証の名。
そして、JED-88の名簿にある六桁の番号。
生きている間は、どれを使っても同じ男へ命令が届いた。
死んだ後は、一つを選ばなければ妹へ通知を送れなかった。
*
ヴァイパー・アクチュアルは、午前五時四十二分に格納庫へ戻った。
海から運ばれた湿気が、半開きの扉から床を這っている。照明は一列おき。AC-130Uの左舷砲口には赤い安全標識が差され、二十五ミリ、四十ミリ、百五ミリの三火器が使われなかったことを示していた。
三つの砲は、十一時間飛んで一発も撃っていない。
機体の下では、整備員が右主脚の油圧配管を拭いていた。主翼後方から排出された熱がまだ金属へ残り、燃料と作動油の匂いが冷えた空気へ混じっている。
「任務乗員十三、帰投十三。機体損傷なし。弾薬消費なし」
整備主任が読み上げた。
「地上班は」
「出動十二。帰投十一。負傷二、死亡一」
数字だけなら、別の作戦に見えた。
空では全員が帰り、地上では一人が帰らなかった。
同じ救出作戦だった。
ヴァイパーは飛行記録へ署名した。署名欄の所属は《第八十八特務支援群航空分遣隊》。登録されたばかりの名称で、端末はまだ入力候補として記憶していない。一文字ずつ打たなければならなかった。
旧内部識別を入れると、一度で通る。
JED-88。
その四文字だけは、どの国の端末でもよく働いた。
「地上班の装備が戻っています」
補給員が言った。
格納庫奥の作業台に、黒い装備が一人分置かれている。
ヘルメット。
暗視装置。
無線機。
濡れた手袋。
弾倉六本。
止血帯二本。
救難灯。
短く切られたファストロープの一部。
防弾ベストには、乾いた血が黒く残っていた。
左上腕側の布地が裂けている。前面の防弾板は、傷一つない。弾丸は板へ当たらず、その外側から腕を抜け、胸腔へ入った。
装備は設計どおりだった。
設計どおりであったことは、遺族への説明にならない。
「洗浄して再交付しますか」
補給員が尋ねた。
「保全」
「どの規程で」
「死亡調査」
「死亡調査の主体は」
ヴァイパーは端末を見る。
公国軍ではない。
ヴァローニュ軍でもない。
《トーベイ》の所属国軍でもない。
作戦へ参加した三部隊は、それぞれ別の指揮権と武器使用権限を持っていた。第八十八特務支援群だけが、作戦時には存在し、事故調査の書式では存在しなかった。
「共同調整室」
「そこは指揮機関ではないと、法務官が四時間かけて説明していました」
「なら、四時間かけて保全させろ」
補給員は防弾ベストへ黄色い証拠札を付けた。
「洗濯は延期ですね」
「不満か」
「血は時間が経つと落ちません」
「落とすな」
補給員の手が止まる。
「了解」
それ以上は聞かなかった。
JED-88では、理由を聞かないことが速さだった。
国の側では、理由を書かないことが遅さになった。
*
午前六時十九分。
作戦記録室の壁面には、二種類の名簿が並んでいた。
一つは白地。
氏名、国籍、階級、給与元、保険番号、緊急連絡先。公国側が航空機登録と死亡補償のために要求した一覧だった。空欄が多く、欄外注記は本文より長い。
もう一つは漆黒の背景に白い文字。
コールサイン、専門、資格、血液型、装備番号、通信鍵、出動可否。JED-88が以前から使ってきた作戦名簿だった。
そこには国籍欄がない。
誰が扉を破れるか。
誰が爆薬を解除できるか。
誰が機体を飛ばせるか。
誰が何分で集合できるか。
戦場で必要なことは、全部あった。
死んだ後に必要なことだけがなかった。
オストリクの行には灰色の斜線が入っている。
《非稼働》
死亡とは書かれていない。
秘密部隊の名簿に、死亡は状態として存在しなかった。通信鍵を失効し、装備を回収し、代替要員を割り当てれば、行は閉じる。名は古い記録層へ沈み、残るのは訓練時間と弾薬消費量だけだった。
ヴァイパーは黒い画面を操作した。
《非稼働》を消す。
代わりに《戦死》と入力する。
警告が出た。
《未定義の状態値》
もう一度入力する。
同じ警告。
「新しい項目を作る権限はありません」
通信員が後ろから言った。
「誰にある」
「元の管理者です」
「回線は」
「閉鎖されています」
「では、今の管理者は」
「いません」
ヴァイパーは権限要求を送った。
宛先のない要求は、送信済みになった。
拒否も承認も返らない。
黒い名簿は命令を伝えるには十分だった。
責任を引き受けるには、作った者が遠すぎた。
通信員が、白地の装備台帳を隣へ開いた。
M1151は、解体予定だった車両を再登録。
MH-60Mは、保管契約を飛行時間単位の借用へ変更。
AC-130Uは、公国の航空機番号を得たばかり。
小銃の機関部、光学照準器、暗視装置、暗号無線機は、それぞれ別の調達番号を持つ。弾薬は三か国の在庫から供給され、燃料は共同緊急勘定、整備費は公国、飛行場使用料は受入国が負担していた。
一つずつ見れば、すべてに所有者がいる。
一列に並べると、部隊全体の所有者だけが消えた。
「監査室が、装備を国別に色分けしろと言っています」
「やれ」
通信員が自動分類を走らせた。
車体は青。
無線機は橙。
銃架は緑。
暗視装置は白。
同じ車両の一行が、四つの色へ分裂した。
「故障した場合は、どこへ請求します」
「壊れた部品の国だ」
「車両ごと焼失した場合は」
「先に消火しろ」
通信員は笑わなかった。
「正しいですが、回答になっていません」
「質問が財務だ」
どこかで聞いた言い回しだった。
黒い作戦名簿なら、M1151は《即応二》とだけ表示される。燃料満載、無線良好、銃架作動、出動可能。戦場で必要な答えは三秒で出た。
白い台帳は、誰が修理費を払い、事故の責任を負い、残骸を回収するかを答えるためにある。
片方だけでは部隊にならない。
JED-88は、黒い名簿だけで長く動きすぎていた。
*
午前七時三分。
小会議室へ三か国の端末が持ち込まれた。
公国軍籍登録局。
共同緊急勘定監査室。
《トーベイ》側の事故調査官。
机の中央に、オストリクの死亡診断書がある。
死因は失血性ショック。
心停止時刻。
蘇生終了時刻。
弾道推定。
搬送経路。
医療記録には空欄がなかった。
空欄は、その上へ重ねられた軍務記録にあった。
『公国籍は取得前です』
軍籍登録官が画面越しに言った。
「申請中だった」
『申請中は国籍ではありません』
「死亡で申請は失効するのか」
『通常は』
「通常ではない答えを」
『ありません』
登録官は疲れていた。冷たいのではない。存在しない規則を、あるように答えないだけだった。
監査官が別の書式を開く。
『外国人軍務協力者として処理できます』
「戦死者になるか」
『業務中死亡です』
「軍曹だ」
『その階級を授与した国を確認できません』
「我々が確認している」
『あなた方の法的所属を確認できません』
正しい問いだった。
ヴァイパーは答えなかった。
画面右側へ、《トーベイ》側の事故調査官が防弾ベストの画像を表示する。
『装備不良は認められません。被弾位置は前面板の左外側。降下点を四メートル前へ変更すれば、射手から見える左側面を減らせた可能性があります』
「可能性は」
『再現試験で十二パーセント。射手位置を一メートル変えると八から十九まで動きます』
「確定事項だけ書け」
『先頭員は被弾後、右側の射点を指示。後続二名が遮蔽へ移動。二名に被弾なし』
「それを残せ」
『戦術記録には残っています』
「妹へ出す通知にも」
登録官が息を吐いた。
『通知責任者は、ペトレンコ大公妃の指示で指定済みです。問題は、誰の名義で送るかです』
公国。
共同調整室。
旗国。
第八十八特務支援群。
偽装会社。
五つの候補が並んだ。
最後の一つだけは、押せばすぐ送れた。
偽装会社の書式には、世界中で使える保険番号がある。死亡理由を《海上警備業務中の事故》とすれば、審査も要らない。妹の口座へ金が届き、遺体の移送もできる。
銃撃も、人質も、軍曹という階級も消える。
速くて、完全に間違っていた。
「事故ではない」
ヴァイパーは言った。
『では、どの国の戦死者ですか』
答えはなかった。
会議室の扉が開く。
スペード・ゼロが入ってきた。
黒い飛行服。
階級章はない。
書類箱も持っていない。
壁面の五候補を一度見た。
「戦死で出せ」
監査官が聞き返す。
『どの国の戦死者としてです』
「名前を消さずに済む国だ」
『それは法的回答ではありません』
「法的回答にするのが、そちらの仕事です」
スペード・ゼロは机の死亡診断書へ手を置いた。
「こちらは、死んだ場所と理由を出す。装備記録も交戦記録も出す。元の発注者を除いて、必要なものは全部渡す」
『元の発注者を出さずに、部隊の軍事的地位は証明できません』
「証明できないものを、十五人の救出へ使ったのは誰だ」
誰も答えない。
参加国はJED-88の素性を確認し終えていなかった。
それでも、火器管制画像は受け取った。
ヘリコプターも地上班も使った。
使える部分だけ先に信じ、死者が出た時になって所属を問うた。
国家だけが卑怯だったわけではない。
JED-88も、問われないことを条件に働いてきた。
沈黙は、双方に便利な契約だった。
オストリクの死が、その契約へ初めて署名を求めていた。
『公国籍を死後に認めることはできません』
登録官が言った。
「認めろとは言っていない」
スペード・ゼロは返した。
「公国のために死んだ、と書けとも言っていない。十五人を救出する共同作戦で死亡した。それだけだ」
『共同作戦従事者という区分には、国籍欄があります』
「消せ」
『必須項目です』
「なら《不問》を足せ」
監査官は困った顔をした。
『一件のために様式を変えるのですか』
「一件目のためだ」
スペード・ゼロはそれだけ言い、会議室を出た。
残された登録官が、画面の書式と死亡診断書を交互に見る。
『あなた方の指揮官は、いつもああですか』
「いいえ」
ヴァイパーは答えた。
「普段は、もっと喋らない」
事故調査官が咳払いをした。
監査官だけが、小さく笑った。
*
通知回線を開くまで、二時間十一分かかった。
その間に、共同緊急勘定へ新しい区分が作られた。
《共同作戦従事者・国籍不問》
補償額。
葬送費。
遺体移送費。
未払い給与。
個人装備の弁償免除。
監査端末は一度止まり、二度目で通った。
ヴァイパーの前に、帝国領内へ接続する音声回線がある。
通知先は妹一人。
オストリクの個人端末に登録された番号と、公国籍申請書に書かれた番号が一致している。本人確認のための質問は三つ。
兄の生年月日。
母親の旧姓。
幼い頃に住んでいた町。
戦死を伝える前に、遺族へ試験を受けさせる。
それも、間違った相手へ悲報を渡さないための手順だった。
呼出音が四回。
『はい』
若い女の声だった。
背後で食器の触れる音がする。帝国領内は朝だった。
「セルゲイ・オストリク軍曹のご家族ですか」
沈黙。
『兄に何がありました』
順番を飛ばされた。
ヴァイパーは本人確認手順を見た。
「確認のため、三点伺います」
『生年月日は十一月二日。母の旧姓はラキティナ。住んでいたのは帝国東部、貨物駅の裏です。兄に何がありました』
三つとも一致。
彼女は、通知を受ける準備だけを先に終わらせた。
「セルゲイ・オストリク軍曹は、海上における人質救出作戦中に負傷しました。医療搬送中に心停止。蘇生処置を行いましたが、死亡が確認されました」
食器の音が止まった。
回線は切れない。
泣き声も聞こえない。
ヴァイパーは次の文章を待った。
端末には、《功績》《哀悼》《補償》《遺体移送》の順で読み上げるよう表示されている。
『一人でしたか』
「何がです」
『死んだのは』
「味方側は一名です」
『助けた人は』
「十五名。全員生存しています」
長い息が、回線の向こうから届いた。
『兄は最初に降りたんですね』
「はい」
『いつも、そうでした』
何に対しても最初だったのか。
ヴァイパーは聞かなかった。
「被弾後も右側の射点を示し、後続二名を遮蔽へ移しました」
『それは通知書に書けますか』
「書きます」
『兄は、どこの兵士として死んだんです』
用意された文章にはなかった。
ヴァイパーは壁面を見る。
白い名簿には、《共同作戦従事者・国籍不問》と表示されている。
漆黒の名簿には、まだ《非稼働》の文字が残っている。
「第八十八特務支援群の軍曹としてです」
『それは、どこの軍ですか』
答えを作る権限はなかった。
嘘を言う理由もなかった。
「今、その責任を引き受ける国を作っています」
彼女はしばらく黙った。
『兄らしいですね』
「なぜです」
『家ができる前に、屋根へ上る人でした』
回線の向こうで、何かが落ちた。
今度は拾う音がしなかった。
ヴァイパーは規定の哀悼文を読んだ。
補償金は当日中に送金されること。
遺体は希望する場所へ移送できること。
氏名は、家族の同意前に公表しないこと。
妹は一つずつ確認した。
最後に、遺品の返却を希望した。
『手袋も返せますか』
「証拠保全が終われば」
『洗わないでください』
「確認します」
『兄は油の匂いがすると、母にいつも怒られていました。最後が海なら、たぶんもっとひどい』
笑ったのか、息を詰まらせたのか、回線越しには判別できなかった。
「そのまま返します」
ヴァイパーは答えた。
規程にはなかった。
補給員へは、すでに同じ命令を出していた。
*
その日の午後、格納庫脇へ貨物コンテナが四本並べられた。
《エウリュディケ》船尾甲板の再現だった。
実物と同じ幅。
同じ間隔。
左舷には黄色い線でMH-60Sの降下位置が描かれている。射手がいた扉には赤いランプ。空砲も使わない。被弾の時刻だけを光で示す。
ヴァイパーは甲板図の外へ立ち、ストップウォッチを持った。
「開始」
ローター音を録音したスピーカーが鳴る。
先頭員役がロープを滑り、床へ着く。
赤いランプ。
左肩を押さえて倒れる。
右腕だけを上げる。
後続二名がコンテナ陰へ入った。
一・六秒。
「もう一度」
降下位置を四メートル前へ動かす。
先頭員の身体は、着地直前までコンテナ角へ隠れる。赤いランプが点いてから、右の遮蔽まで一・一秒。
射手が扉から半歩出れば、差は消えた。
ヘリコプターが横風で二メートル流れても、差は消えた。
四メートルは、誰かを必ず救う数字ではない。
同じ射手へ、同じ左肩を見せる時間を半秒減らす数字だった。
「次回は前へ四メートル」
ヴァイパーが言う。
「それでも撃たれたら」
先頭員役が聞いた。
「右を示せ」
「軍曹と同じですね」
「同じにするために測った」
訓練はもう一度行われた。
三度目は一・〇秒。
四度目は〇・九秒。
五度目、先頭員役は赤いランプより先に倒れた。
「早い」
「撃たれるのがですか」
「死んだことにするのがだ」
隊員は立ち上がった。
今度は、赤い光を見てから倒れた。
人間は訓練で早くなれる。
死者を増やさないためには、死んだ人間の動きまで正確に遅く再現しなければならなかった。
*
三日目の夜。
オストリクの装備は、透明な保全袋へ収められていた。
防弾ベストだけは事故調査へ回る。
手袋、認識票、腕時計、折り畳みナイフ、濡れて読めなくなった紙の写真。乾燥剤と一緒に密封され、移送番号が付いた。
写真は洗浄しない。
画像修復もしない。
持ち主が最後に持っていた状態を、遺族が選べるようにする。
補給員が黒い弾倉を六本、別の箱へ入れた。
「これは返せません」
「妹も要らないだろう」
「軍曹なら、空でも持っていきそうですが」
軽すぎる冗談だった。
補給員自身が笑わない。
ヴァイパーも笑わなかった。
「五本を再交付。一つは保全」
「不具合はありません」
「最後に装着していた」
「了解」
装備は分けられる。
返すもの。
調べるもの。
次の者が使うもの。
人間だけは、再交付できなかった。
作戦名簿では、オストリクの穴へすでに別の隊員が移されている。
降下班の人数は十二へ戻った。
数字の上では欠員なし。
新しい先頭員は、ファストロープ降下位置を四メートル前へ修正した訓練図を見ている。左側面を射手へ晒す時間を一・二秒減らす。後続は最初から右のコンテナ陰へ入る。
オストリクの死は、訓練手順へ変換された。
忘れないための処理だった。
忘れても実行できるようにする処理でもあった。
*
午前七時五十分。
帝国軍第六砲兵群の射撃が止まった。
理由は届かない。
JED-88の即応班は、格納庫前で装備を確認していた。
M1151、二両。
MH-60M、二機。
AC-130Uは燃料搭載中。
地上班十一名と補充一名。
任務は未定。
目的地も未定。
出動準備時刻だけが、午前八時二十分と指定されている。
ヴァイパーは黒い名簿を開いた。
十二の行が緑。
一つの行が灰色。
管理者権限の要求は、三日間返らなかった。
《非稼働》は消せない。
ヴァイパーは備考欄へ入力した。
《戦死。氏名セルゲイ・オストリク。削除禁止》
備考欄なら、現場指揮権限で書けた。
完全な修正ではない。
それでも、番号だけが残るよりはよかった。
「ヴァイパー」
通信員が呼ぶ。
「共同回線の外縁に接続要求。発信元は帝国政府通信局」
「認証は」
「現用鍵と一致。本文なし。大容量文書の送信前手順です」
時刻、午前八時十六分。
スペード・ゼロが格納庫へ入ってくる。
「全班、待機」
「武装は」
「維持。薬室は空。命令が来るまで動かすな」
隊員たちは弾倉を挿した。
ボルトは前へ送らない。
ヘリコプターのローターは止まったまま。
《スプーキー》の三火器には、赤い安全標識が残っている。
戦争を続ける準備と、撃たずに待つ準備は、外から見ればよく似ていた。
白旗が届く一分前、JED-88は次の戦闘に備えて弾倉を挿していた。




