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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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第九十一話 白旗の時刻



 白旗は、午前八時十七分に届いた。


 布ではなかった。


 ルーデニア帝国暫定政府の電子署名が付いた、十四頁の文書だった。


 停戦線の固定。


 占領地からの撤兵。


 帝国軍重装備の集積。


 捕虜交換。


 戦争犯罪被疑者の引き渡し。


 皇帝退位と、暫定議会への統治権移管。


 末尾には、アルシェールでの和平予備会談を求める一文があった。


 十四枚の紙は、電子文書を印刷しただけなのに妙に重かった。綴じ針が机を擦る。窓の外では雨が古い石壁を濡らし、破損した庁舎の隙間から石粉の匂いが暖房へ混じっていた。


 白旗には、布の風音がない。


 代わりに、署名鍵の失効時刻と、誰が最後の頁を差し替えられたかという疑いが付いていた。


 共同調整室の壁面へ表示されても、誰も拍手しなかった。


 平和は、画面へ届いた順番では始まらない。


 砲兵が照準器から目を離し、潜水艦が発射鍵を抜き、補給係が次の弾薬列車を止めた時に、ようやく始まる。


「署名は本物です」


 イリーナが言った。


「帝国政府の現用鍵。送信経路も政府通信局です。ただし、送信者が明日も政府にいる保証はありません」


「正直で助かる」


 ヴォロディミルは十四頁目を閉じた。


「皇帝の免責は」


「明記されていません」


 ペトレンコが答える。


「別紙に、退位後の安全な居住地を協議するとあります」


「立派な庭付きか」


 ボンダレンコが聞いた。


「拘置所にも庭は作れます」


 ソフィアが言った。


 誰も笑わなかった。


 彼女も笑わせるつもりはなかった。


     *


 停戦線では、書簡より先に噂が届いていた。


 帝国軍第六砲兵群は、午前七時五十分から射撃を止めている。


 その南十五キロの独立戦車大隊は、午前八時二十二分に前進を開始した。


 同じ政府の命令を受けているはずの二部隊が、白旗を別々に解釈していた。


『こちら停戦監視班。帝国戦車十二、境界線まで四・一キロ』


 共同調整室へ、無人偵察機の映像が入る。


 T-72B3が一列縦隊。


 泥を噛んだ履帯が畑の凍った表土を砕き、排気の黒煙が低い雲へ伸びていた。砲身は走行固定具から外され、照準器の覆いもない。燃料車の薄い外板が戦車の後ろで軋むたび、監視班には装甲より危険なものが列の中央を走っているように見えた。


 砲塔は前方。


 砲身に白布はない。


 後続の燃料車もいる。


「警告を」


 ペトレンコが言う。


「どの政府名で?」


 通信士が聞いた。


「現地停戦監視委員会。公国名は出さないでください」


「相手が応答しません」


「帝国暫定政府へ同じ映像を送信」


 三分後、帝国側から撤回命令が出た。


 戦車は止まらない。


 五分後、同じ命令が別の暗号鍵で出る。


 先頭車が減速した。


 六両目まで止まり、七両目が追突しかけて土煙を上げる。


 大隊は境界線の二・八キロ手前で停止した。


「命令系統が二つあります」


 ソフィアが送信記録を見た。


「最初の命令は政府鍵。二通目は旧参謀本部鍵。現場は後者だけを認証しました」


「政府が軍を動かしていない」


 ヴォロディミルが言う。


「少なくとも、この大隊は」


 白旗を受け取る相手が、軍の引き金を握っていない。


 和平交渉は必要だった。


 和平を守るための警戒も、同じ理由で必要だった。


「前線へ停戦文書を公開してください」


 ペトレンコが言った。


「帝国政府の面子が潰れます」


 ナタリア・シェフチェンコ外務卿が指摘する。


 死亡したミハイロ・シェフチェンコ司祭とは血縁がない。同じ姓が死者名簿と代表者名簿の両方にあったため、報道資料には《別人》という注記が付いていた。


「現地兵が政府命令を知らずに撃つ方が潰れます」


 文書の軍事条項だけが、両軍共通周波数へ送られた。


 秘密交渉の価値より、砲身一本が動かない価値を選んだ。


 公開命令の書式には法的根拠を記す欄があった。空欄のまま送信され、正午まで、どの国からも差し戻されなかった。


 正午までに、帝国側七部隊が受信を確認した。


 三部隊は沈黙。


 一部隊は、《暫定政府を承認しない》と返信した。


 白旗は一枚では足りなかった。


     *


 独立戦車大隊の通信少尉アントン・グラドフは、停止した七両目の砲塔脇に立っていた。


 六両目へ追突しかけた車長が、操縦手を殴ろうとしている。


 殴られる操縦手は、前車が急停止した理由を知らない。


 殴ろうとした車長も知らない。


 知っているのは、二種類の暗号鍵で同じ撤回命令を受けた少尉と、先頭車に乗る大隊長だけだった。


「全車、砲口を右へ。道路から外せ」


 グラドフは共通周波数へ送った。


『政府命令か』


 三番車の車長が訊く。


「大隊命令だ」


『どちらの政府だ』


「砲塔を回すのに政府が二つ要るのか」


 返事はなかった。


 十二本の砲身が、少しずつ畑へ向いた。


 完全な武装解除ではない。


 境界線へ照準していないことを、上空の無人偵察機へ見せるだけだった。


 最初の政府鍵は現用で、署名も正しい。


 二通目の旧参謀本部鍵は、軍人が長年使ってきた。


 法的には一通目。


 身体が信じたのは二通目だった。


 グラドフは砲塔上のアンテナへ携帯端末を当て、公開された停戦条項を各車へ転送した。文字列の下に、公国共同調整室の中継印がある。


 大隊長が砲塔から降りてくる。


 五十四歳。


 左耳が遠く、無線を聞く時はいつも顔を傾ける。


「公国の命令か」


「違います。帝国暫定政府の文書を、公国が再送しています」


「同じだろう」


「同じに見えるだけです」


「見えるものが政治だ」


 大隊長は公開文書を最後まで読まなかった。


 捕虜交換。


 重装備集積。


 未払い給与の精算。


 そこで指を止めた。


「給与も出るのか」


「協議事項です」


「出ない言い方だな」


「出ると書けば、いま撃たない兵士は増えます」


「誰へ売り込むつもりだ」


 グラドフは答えなかった。


 停戦後も軍に残るなら、暫定政府へ早く従った部隊の名は役に立つ。退役するなら、未払い給与の名簿へ早く載った方がよい。母と妻を帝国東部へ残している少尉にとって、忠誠より先に必要なのは、次の月も振り込まれる所属だった。


「大隊を《停戦命令へ最初に応じた部隊》として記録します」


 グラドフは言った。


「するな」


「ですが、後の軍籍審査で——」


「我々は最初ではない。北の砲兵は三十二分前から撃っていない」


「向こうは命令前です」


「なら、なおさら負けだ」


 大隊長は十二両を見た。


 泥だらけのT-72B3。


 燃料車。


 雪解けの畑。


 境界線の向こうで、同じように砲口をこちらへ向けている公国軍。


「記録するなら、前進命令を受けた時刻と、撤回命令を二度受けるまで止まらなかったことを書け」


「不利になります」


「停戦の初日に戦果を作るな。昇進したければ、戦争が終わってから人事課へ行け」


 少尉の提案は、そこで止められた。


 大隊長は車列の後方へ歩き、燃料車を道路外へ退避させ始めた。砲撃されれば、戦車より先に燃える。衛生車は反対側。故障した九番車から砲弾を抜き、稼働車へ移さず一か所へ積む。


「本当に停戦するんですか」


 若い装填手が訊いた。


「いまは撃つなという命令だ」


「明日は」


「明日の命令を今日作るな」


 大隊長はそう答えた。


 グラドフは公開文書と二通の撤回命令を、削除せず同じ記録束へ保存した。


 自分の提案が却下された音声も残した。


 保身だった。


 同時に、後で誰かが大隊を英雄にも反逆者にも作り替えにくくする記録だった。


 無人偵察機が頭上を一周した。


 十二両は撃たなかった。


 境界線の公国砲兵も撃たない。


 停戦は、互いに相手の沈黙を一分ずつ借りて延びていった。


     *


 文書の真正確認と並行して、バルディン元軍需相の復元台帳が開かれた。


 誘導装置、二百十二基。


 多用途信管、四百八十六個。


 移動式電源装置、三十九基。


 帳簿上は、停戦前の混乱で廃棄。


 焼却証明書も、破砕写真も、処分担当者の署名もある。


 問題は、写真の瓦礫が三回使い回されていたことだった。


「同じ割れ方です」


 ソフィアが三枚の画像を重ねた。


「撮影角度と照明だけを変えています。破砕片中央のボルト傷が一致」


「二百十二基を、三枚の写真で埋葬したのか」


 ヴォロディミルが言う。


「官僚は安価な葬儀を好みます」


 ボンダレンコは台帳の運賃欄を見た。


「保険金は高い」


 廃棄品の輸送費が、実用品の三倍だった。


 港湾危険手当。


 低温保管料。


 特殊振動対策。


 壊した物を運ぶには、丁寧すぎる。


「灰環戦線が買った?」


 ペトレンコが聞いた。


「灰環は市場です」


 ロマネンコが答える。


「買い手は別にいる。市場は、金を払った奴の顔を覚えない。港は船の喫水を覚える」


「運んだ船は」


「六隻。うち二隻は解体済み。一隻は沈没。一隻は名前を三回変えた。残り二隻は、今も慈善団体の荷物を運んでいる」


 慈善団体。


 その語だけで、室内の空気が一段冷えた。


 救援物資の標章を撃てば、敵が勝つ。


 見逃して兵器を運ばせても、敵が勝つ。


 ペトレンコは二隻の航路を表示した。


「積荷を断定できますか」


「できません」


 ソフィアが答える。


「位置、運賃、電力消費、冷却設備の改造履歴が一致しています。積荷そのものは未確認」


「では臨検条件を作る」


「条件を見つけます」


 ペトレンコの言葉へ、ソフィアは一語だけ直した。


 作るのは理由ではない。


 存在する理由を、先に見つける。


 その違いが消えれば、共同調整室は裁判所より速い処刑装置になる。


     *


 正午、ソフィアの鎖骨下端子へ保守ケーブルが接続された。


 会議机の端に置かれた端末へ、二つの臓器状態が並ぶ。


 人工心臓。ポンプ回転、正常。


 人工肝臓。代謝負荷、上限の八十一パーセント。


 内部電源、残り十九時間。


 保守推奨時刻、三時間超過。


「会議を止めますか」


 医官が聞いた。


「人工肝臓の濾過カートリッジを交換してください。会議は続けます」


「横になった方が早い」


「判断も横になります」


「あなたの肺は生身です。疲労を診断画面だけで判断しないでください」


 ソフィアは一度、息を深く吸った。


 人工心臓は同じ速度で血液を送った。


 肺だけが、その呼吸を少し遅れて追った。


 機械は疲労を隠せる。


 消せるわけではない。


 医官はカートリッジを交換し、端末へ《任務継続・二時間後再評価》と入力した。


「二時間です」


「了解しました」


「返事が素直だと不安になります」


「記録へ残しますか」


「残しません。医療者にも保身はあります」


 医官が去ろうとしたところで、戻ってきたペトレンコと扉の前でぶつかった。


「中佐。次はあなたです」


「会議後に」


「三胎の経過観察を三日延ばした記録と、乗艦勤務禁止違反二回が同じ画面に並んでいます」


「飛行勤務禁止違反はゼロです」


「誇るところではありません」


 医官が端末を差し出す。受胎推定日は、ヴォロディミルが求婚した日より前だった。日付は再確認済みで、誤記ではない。ペトレンコは画面を伏せた。


「四十分後に行きます」


「二十分」


「三十分」


「交渉を診療へ持ち込まないでください」


「では、二十分後に」


 医官は満足せず、妥協した。


 ソフィアは交換済みカートリッジの封印番号を自分で記録した。


 機械化身体の消耗品は、公国軍医療予算では《高度補装具》に分類される。


 人工心臓の駆動部品は航空部品と同じ倉庫。


 人工肝臓の濾過材は透析資材と同じ冷蔵庫。


 腹部ストーマ装具は一般医療品。


 三つの補給系統のどれか一つが切れれば、彼女は長期任務へ出られない。


 国家が彼女を高性能な機械として扱う時、その国家は粘着剤一枚の在庫まで数える必要があった。


 ソフィアは補給表へ、残数不足の警告を付けた。


「和平会談の議題ですか」


 戻ってきたペトレンコが聞く。


「私の身体の補用品です」


「不足?」


「人工肝臓用カートリッジ、十二日分。ストーマ装具、九日分」


「優先輸送へ」


「いいえ。通常医療便へ統合してください。私だけを別便にすると、その便が止まった時に代替できません」


 ペトレンコは一瞬考え、頷いた。


 特別扱いは速い。


 速いものは、一本切られると止まりやすい。


     *


 外務卿ナタリア・シェフチェンコの仮設執務室には、まだ正規の公印がなかった。


 戦火を逃れた旧図書館の閲覧室。


 机は貸出用。


 暗号端末は旅行鞄の上。


 公国紋章は、若い書記官が複合機で印刷して壁へ貼ったものだった。


「和平予備会談の開催保証です」


 書記官が文案を差し出す。


 公国は代表団の安全を保証する。


 移動経路を保証する。


 停戦線の維持を保証する。


 被疑者引き渡し後の待遇を保証する。


 保証という語が、半頁に六回あった。


「誰が書きました」


「私です」


「誰の指示で」


「指示はありません。先に必要になると思いました」


 書記官は二十六歳だった。


 帝国外務省の地方連絡室から亡命し、公国の臨時外務局では最も低い等級にいる。帝国に残った父は年金生活。妹は大学を休学したまま国外へ出られない。


 和平が成立すれば、臨時職員の半分は契約を切られる。


 会談の最初の文書を書いた者になれば、残る理由になる。


 浅い計算だった。


 間違いではなかった。


「停戦線を維持する兵力を、公国だけで持っていますか」


 シェフチェンコが訊く。


「いいえ」


「代表団の移動先は公国領だけですか」


「ヴァローニュ領を通ります」


「被疑者の拘置施設は」


「未定です」


「では、保証できません」


 彼女は六つの語へ赤線を引いた。


「《確保へ必要な措置を調整する》へ変更。公国が持たない権限を、公国の名で約束しないでください」


「弱く見えます」


「弱い部分を強く書けば、破った時に嘘になります」


「ですが、最初の案をこちらから出さなければ、他国に主導権を取られます」


 書記官は言ってから、視線を下げた。


 救出でも停戦でもなく、主導権という語が先に出た。


 シェフチェンコは叱らなかった。


「あなたの名前は起案者欄へ残します」


 書記官が顔を上げる。


「ただし、出世のために書いた文書ほど、出世した後まで追いかけてきます。約束できない一語を削る方が、署名を足すより長く残る」


「採用されるのですか」


「六つ直せば」


 書記官は赤線の入った紙を受け取った。


 却下ではない。


 全面採用でもない。


 彼は席へ戻り、保証を一つずつ調整へ変えた。


 最後の一つだけ、手が止まる。


 《公国は、停戦交渉を理由として戦争犯罪の審理を停止しないことを保証する》


「これは」


「残します」


 シェフチェンコは言った。


「我々の権限で守れる約束です」


 若い書記官は、その一文の横へ自分の起案番号を入れた。


 勝ち馬へ乗ろうとした手が、最初に覚えたのは手綱ではなく、責任の残る署名だった。


     *


 午後一時、十一か国の代表が映像会議へ入った。


 議題は和平文書だった。


 受諾すべきだという国が七。


 罠だと見る国が二。


 回答を保留した国が二。


 同時通訳席では、《降伏》という語だけが三種類に割れていた。


 帝国文の原語は、軍隊が武器を置く意味にも、政府が統治権を譲る意味にも読める。ヴァローニュ語訳では《軍事的降伏》、北方三国の共同訳では《敵対行為の終了》、公国側の暫定訳では原語を括弧へ残していた。


「統一しますか」


 通訳主任がシェフチェンコへ訊く。


「しません」


「報道で混乱します」


「原文が混乱しているのに、訳文だけ明快にしないでください」


「帝国が逃げ道として曖昧にした可能性があります」


「なら、その逃げ道も証拠です」


 若い通訳が、《降伏》を《停戦受諾》へ直しかけて手を止めた。自国政府は和平を早く発表したがっている。強い語を避ければ、市場も議会も落ち着く。


 だが彼は、修正履歴を消さず主任へ送った。


「政治的配慮による訳語変更案です」


「却下。備考へ残します」


 訳さないことも政治だった。


 だから、誰がどの語を避けたかまで議事録へ入った。


「公国は何を求めますか」


 ヴァローニュ外相が聞いた。


 ヴォロディミルは答える前に、ペトレンコを見た。


 彼女は損失表を開いていた。


 戦死者。


 負傷者。


 所在不明。


 停戦違反。


 数字の最後に、回収されていない誘導装置二百十二基がある。


「会談には応じます」


 ヴォロディミルが言った。


「降伏は受け取る。免罪は与えない。帝国兵の武装解除と給与を同じ机で扱う。飢えた兵士へ、銃だけ捨てろとは言わない」


「軍事警戒は」


「下げません」


「和平へ不信任を示すことになる」


「和平を信じるために、確認します」


 代表の一人が眉をひそめた。


「あなた方は、和平を管理するつもりですか」


 ヴォロディミルは否定しようとした。


 その前に、共同調整室の壁面へ赤い警報が出た。


 慈善船サント・エレーヌ、AIS停止。


 二隻目の《ノーヴァ・ミラ》、予定航路から南へ十二海里逸脱。


 双方の冷却設備が、同じ時刻に最大出力へ入った。


 壁面図の海が二本の白線で裂ける。


 室内の誰も走らなかった。走る代わりに、十一か国の照会票、航海記録、保険証券、燃料購入票が机へ積まれていく。和平文書の十四頁は、その紙の山に半分埋もれた。


「白旗の回答期限は四十八時間です」


 ペトレンコが画面を見た。


「あちらは、回答を待たないようです」


 和平文書は、まだ机の中央にあった。


 その左右で、二隻の船が別々の海へ逃げ始めていた。

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