第九十二話 二百十二の番号
二百十二基の誘導装置には、二百十二個の製造番号があった。
廃棄証明書では、そのすべてが消されている。
ソフィアは、番号を探さなかった。
番号を消す人間が、消し忘れるものを探した。
梱包箱の重量。
防湿剤の交換周期。
電源自己診断に使う試験器の型式。
輸送中に許容される振動値。
製造番号は嘘をつく。
物理条件は、嘘をつくためにも重い。
「《サント・エレーヌ》は積荷目録上、医療用冷却器を四十八基」
分析官が言った。
「冷却器の総重量は」
「百十四トン」
「船の喫水増加は二百六十八トン相当です」
「差は百五十四」
「燃料補給分を引いて、百三十一」
ソフィアはもう一隻の画面を開く。
「《ノーヴァ・ミラ》は救援食糧。重量差、百二十七トン」
「二隻へ分けた?」
「同じ物とは限りません」
「確率は」
「質問を分解してください」
分析官は息を吐いた。
「誘導装置が積まれている確率」
「現時点で六十二パーセント」
「高い」
「武力行使には低い」
数字を出せば、決断が簡単になるわけではない。
数字は、どこからが飛躍かを見えるようにするだけだった。
*
ロマネンコは、積荷ではなく保険契約を見ていた。
《サント・エレーヌ》は人道輸送保険。
《ノーヴァ・ミラ》は一般貨物保険。
両方とも、沈没時の残骸回収義務が免除されている。
「沈めるつもりだ」
彼が言った。
「証拠は」
ヴァローニュの司法官が聞く。
「港で密輸する奴は、沈んだ後の契約を先に読む」
「経験談ですか」
「教育資料だ」
「どこの」
「税関が押収した会社の」
ロマネンコは契約欄を拡大した。
船体喪失時、積荷所有者の照会を不要とする特約。
救難曳航を拒否できる特約。
海洋汚染賠償だけが、異様に高い。
「燃えるか、漏れるか、両方だ」
「積荷が兵器なら、なぜ冷却設備を最大に」
「人間も積んでいる」
室内が静かになった。
灰環は、前回十五人を鍵として使った。
今回も、荷物だけを運ぶ理由はない。
人質がいれば臨検は速くなる。
同時に、射撃は遅くなる。
それを敵も知っている。
*
午後二時三分、《ノーヴァ・ミラ》から遭難信号が出た。
機関室火災。
乗員二十四名。
負傷者あり。
救援を要請。
位置は、ラトヴァ領海まで十九海里。
「近傍船は」
ペトレンコが聞いた。
「商船二。到着まで四十八分。ラトヴァ沿岸警備隊は六十二分」
「公国側は」
「《トーベイ》、三十一分。リンクスは十九分。MH-60Sなら二十二分」
「旗国回答」
「なし」
「遭難救助としてリンクスを出します」
「臨検は」
「しません。人を拾います」
ペトレンコの声は平らだった。
だが、左手の親指が損失表の縁を一度だけ押した。
前回、一人を失った。
同じ角度から降下させない。
「機体位置を船尾左舷四メートル前へ。射線を船体で切る。降下員は二名ずつ」
「救難任務に火力支援を付けますか」
「《トーベイ》の30ミリは指向だけ。撃たせません」
「相手が撃つまで?」
「相手が武器を見せるまでです」
*
ラトヴァ沿岸警備隊の当直室では、委任同意書がすでに画面へ開かれていた。
当直士官は大尉。
手元の巡視艇は、機関整備中が一隻、荒天待機が二隻。最も速い一隻でも《ノーヴァ・ミラ》まで六十二分かかる。
《トーベイ》なら三十一分。
公国側のヘリコプターなら、その前に着く。
大尉は、指揮を外国艦へ委任する欄へ署名しかけて止めた。
「まだ武器は見えていません」
法務担当の准尉が言う。
「遭難信号は出ている」
「救難への同意と、臨検指揮の委任は別です」
「六十二分後に着いて、沈んだ船へ自国旗を立てるのか」
「速さではなく、条件の話です」
大尉は苛立った。
前回の臨検では、公国の判断が十五人を救った。今回も同じになるなら、早く委任した士官は共同作戦の成功者へ入る。判断を遅らせて人が死ねば、当直日誌に自分の名だけが残る。
どちらも保身だった。
准尉は同意書の発効条件へ一文を足した。
《救難活動に対する武器使用またはその明白な準備を確認した時点》
「これなら、映像が入った瞬間に押せます」
「九秒はかかる」
「三秒で署名、六秒で送信。練習してください」
「委任の練習をする沿岸警備隊は、立派だな」
「沈没後に管轄を主張するよりは」
大尉は署名動作を二度試した。
一度目、確認画面を読み飛ばして准尉に戻された。
二度目、五秒。
三度目、三秒。
リンクスの映像へ発射筒が現れた時、大尉は条件文を読み直さなかった。
練習どおり署名し、九秒後に委任は届いた。
彼の名は成功記録へ残った。
同時に、何を確認して権限を渡したかも残った。
*
リンクスHMA.8は、波頭から二十メートルを切って進入した。
海は鉛色で、低い雲から細かな雨が斜めに走っていた。ワイパーが塩を引き延ばし、風防の端へ白い筋を残す。ローターの振動は座席から骨盤へ入り、救難員の装備金具を同じ周期で鳴らした。
機首下のセンサーが船橋を捉える。
黒煙は出ていない。
甲板員もいない。
遭難船にしては、窓が閉じすぎていた。
『ノーヴァ・ミラ、こちら救難ヘリ。負傷者を船尾甲板へ』
返事は雑音だけ。
リンクスが右へ回った瞬間、船橋脇の防水扉が開いた。
男が一人、携帯式地対空ミサイルの発射筒を肩へ載せる。
『武器確認』
機長が叫ぶ。
リンクスは左へバンクし、海面へ落ちるように高度を捨てた。
射手が発射筒を向け切る前に、《トーベイ》の30ミリ機関砲が船橋前方へ三発撃ち込んだ。
命中点は人間ではない。
甲板へ固定された揚錨機。
一発目で鋼板がめくれ、二発目で鎖が跳ね、三発目で鉄粉と火花が船橋窓を白く覆った。
男は伏せた。
リンクスは海面すれすれで旋回を続ける。
ローターが波を叩き、白い飛沫が窓へ逆向きに走った。
『救難任務への武器指向を確認』
ペトレンコは共同回線へ告げた。
『共同救命措置を発動。臨検を勧告します』
ラトヴァの回答は、九秒後だった。
『同意。沿岸警備隊の到着前、指揮を《トーベイ》艦長へ委任』
旗国はまだ答えない。
沿岸国は答えた。
法務官が、武器指向の映像と発動時刻を同じ証拠番号へ登録する。
速さは、手続を捨てる理由ではない。
速い手続を作る理由だった。
*
第八十八特務支援群の先頭班が船尾へ降りた。
床へ着く前から、短い射撃音が三回。
弾丸が船尾クレーンの支柱を削る。
鋼材から削れた熱い鱗が、吊られた隊員の頬と手袋へ散った。一発は胸の防弾板へ斜めに当たり、身体を索の外へ半回転させる。息が潰れ、胃の中身が喉まで上がった。それでも右手は降下器から離れなかった。
先頭員はフックを外さず、吊られたまま身体を振った。
二人目が甲板へ着地し、盾を立てる。
リンクスは機首を船外へ向け、前回より四メートル前で静止した。
射線が変わる。
銃弾は盾と船体へ散り、降下索へ届かない。
『船尾確保』
『負傷なし』
その二語に、ペトレンコは目を閉じなかった。
安堵は、作戦終了後に数える。
船内の冷蔵区画から、乗員二十四名が発見された。
両手を拘束。
一人は肩を撃たれていた。
火災はなかった。
機関長は冷蔵区画の床へ横たわっていた。
右肩の銃創。
体温三十四・九度。
意識はある。
「機関室火災は」
救難員が聞く。
「起こせと言われた」
「誰に」
「船橋へ来た六人。船長を先に殴った」
「なぜ火災信号だけを」
「本当に火を点けたら、冷却器も人質も焼ける。警報回路だけ短絡した」
機関長は震える指で、作業着の内側を示した。
小さな真鍮鍵。
機関制御盤の手動遮断鍵だった。
「船橋から遠隔で注水弁を開けられる。沈める準備をしていた」
「遮断した?」
「電源だけ。弁は開き始めてる」
船体下部で、低い衝撃音が一つ響いた。
船尾喫水が三センチ増える。
『浸水警報、機関室下部』
救難員二人が機関長を担架へ載せる。
第八十八群の工兵が機関室へ走った。
床下配管の電動弁は半開。
制御箱には、開放側で固定するための針金。
工兵は針金を切り、手動輪へ二人で体重を掛けた。
錆びた軸が動かない。
三人目が延長棒を差し込む。
金属が悲鳴を上げ、弁が一度だけ閉鎖側へ回った。
海水の流入量が下がる。
『排水ポンプ始動』
『右舷補機室、二次起爆器を確認』
敵は人質と装置だけでなく、船そのものを証拠処分用の棺へとしていた。
起爆器の表示は残り四分十二秒。
工兵は配線を切らなかった。
二系統あると、前回の証言で分かっている。
信号線を追い、壁の反対側へ小型カメラを入れる。
二つ目の起爆器。
双方の電源を同時に引き抜くため、絶縁索を二本取り付ける。
『三、二、一』
二人が別々の区画で索を引いた。
表示が消える。
爆発は起きなかった。
静かになった機関室で、排水ポンプの回転音だけが残った。
閉鎖弁の手動輪を回した工兵の掌は、手袋の中で裂けていた。錆びた金属の粉が血へ貼りつき、握力を抜くと指が勝手に震えた。機関長の担架が頭上を通るたび、配管から落ちる海水がヘルメットを叩いた。
救出は、銃撃が止まった時には終わらない。
沈む理由を一つずつ閉じるまで続く。
船橋では、最後の三人が航海計器の陰へ籠もっていた。
一人は携帯式地対空ミサイルの空になった発射筒。
一人はAK-105。
一人は起爆器らしい箱を両手で抱えている。
窓の外には《トーベイ》の30ミリ砲口が見えた。
船橋を撃てば三人は止まる。
航海記録装置も、船長室に拘束されている二人の船員も一緒に砕ける。
第八十八群の先頭員は、開いた扉から鏡を出した。
床まで三・二メートル。
右壁に消火器。
天井から配線束。
起爆器を持つ男の親指は、箱の赤い押し釦ではなく側面の留め具へ掛かっている。
「偽物だ」
工兵が囁いた。
「根拠」
「本物なら、両手で抱く必要がない。あれは見せる箱だ」
「中身は」
「分からない」
分からない箱へ、正しい恐怖だけが集まっていた。
先頭員は船内放送のマイクを取った。
『船橋へ。機関室の起爆系は遮断した。船は沈まない。武器を床へ置け』
『嘘だ』
『排水ポンプの音を聞け』
床下から一定の回転音が伝わっている。
船体の傾きも止まった。
AKを持つ男が窓へ目を向けた瞬間、左舷側の扉から閃光音響弾が一個入った。
白い光。
圧力。
ガラスへ身体がぶつかる音。
先頭員は右扉から入り、AKの銃床を踏んだ。二番員が発射筒を蹴り離す。三番員は箱を抱えた男の両手を、箱ごと床へ押さえた。
赤い押し釦は動かなかった。
箱の中身は、鉛板と乾電池だった。
重くするためだけの装置。
「本物はどこだ」
「知らない」
「その箱は何をする」
「お前たちを止める」
「何秒」
男は答えなかった。
突入班が船橋へ入るまでに、十一秒余計にかかっていた。
偽の起爆器は、設計どおり働いた。
船橋へ残った武装員六名は、三名負傷、三名拘束。
積荷の白い箱は、医療用冷却器だった。
ただし、冷却器の緩衝材へ三十九個の試験用コネクタが隠されていた。
誘導装置そのものはない。
「外れですか」
分析官が聞いた。
「いいえ」
ソフィアはコネクタの製造番号を見た。
「二百十二基を一度に自己診断する設備の部品です」
「では本体は」
「《サント・エレーヌ》ではありません」
「なぜ分かる」
「二隻とも見せるために動きました。見せる船は、運ぶ船ではありません」
彼女は航路図から二隻を外した。
残ったのは、AIS上では一週間動いていない三百隻だった。
二百十二の番号は、まだ一つも見つかっていない。
代わりに、敵が何を恐れているかが見えた。
装置が見つかることではない。
装置を一度に起こせる場所が、見つかることだった。
その夜、機関長は医務室から供述を追加した。
「六人のうち、一人だけ船の揺れ方を知っていた」
「船員経験者?」
「違う。船員なら揺れへ逆らわない。あいつは、揺れる前に身体を傾けた」
「予測していた?」
「耳の後ろに小さな装置があった。船体センサーと繋いでいたのかもしれない」
ソフィアは供述へ、《前庭感覚補助または外部姿勢情報》と注記した。
灰環側にも、身体と機械を繋ぐ人間がいる可能性。
技術は陣営を選ばない。
身体を補う装置も、他人を殺す装置も、命令された精度で働く。
違いを作るのは、接続した人間が何を選ぶかだった。
ソフィアは供述録の末尾へ、装置の推定用途だけを記した。
敵の男が何を感じたかは書かなかった。
機械へ繋がっていることと、機械のように考えることは同義ではない。自分の身体がその誤解を招くからこそ、他人の内心まで診断結果にしてはならなかった。
*
翌朝、耳の後ろに装置を持つ男は、病院船の診察室で椅子へ縛られていなかった。
両手首に拘束具。
足元には警備員二名。
それでも、診察台へ横になるかは本人へ訊かれた。
「拒否する」
男は言った。
「では座位で確認します」
軍医が答える。
「装置を外すのか」
「生命へ危険がなければ、同意なしには外しません。発熱と感染だけ確認します」
男は疑ったまま、右耳を向けた。
耳介の後ろに、直径八ミリの黒い円盤。
皮膚を貫く端子ではない。
頭蓋骨へ固定された磁性受けへ、外部装置を貼り付ける構造だった。周囲の皮膚が赤く腫れ、安価な接着剤でかぶれている。
ソフィアは一メートル離れて見た。
自分の鎖骨下端子より小さい。
自分の神経接続より浅い。
同じなのは、外から見た者が用途より先に人間性を判断することだけだった。
「船体センサーから何を受けていたのですか」
「答えない」
「医療質問です。入力が途絶えた後、眩暈や吐き気は」
「尋問だ」
「嘔吐すれば誤嚥を防ぎます。黙るなら、顔色だけで判断します」
男は唇を噛んだ。
「右へ傾く」
「何が」
「部屋が。止まっていても右へ落ちる」
軍医が眼球運動を確認する。
右向きの眼振。
脈拍百十八。
鼓膜異常なし。
「外部姿勢情報へ適応しすぎています。急に切れたため、前庭感覚との再統合が遅れている可能性があります」
「治るのか」
「装置を使い始めて何日です」
「二十六日」
「訓練は」
「三日」
軍医が顔を上げる。
「短すぎます」
「金は三十日分だった」
初めて、男が仕事の話をした。
船員ではない。
港のクレーン運転手。
高所作業で眩暈を起こし、職を失った。灰環を通じて紹介された試験へ参加し、装置を付ければ船上警備の三十日契約を与えられた。
「人を殺すために付けたのですか」
ソフィアが訊いた。
「立っているためだ」
「発砲は」
「立っていられたから撃った」
順序が違った。
装置が殺人を命じたのではない。
仕事へ戻りたい男へ、立てる身体と銃を同じ契約で渡した者がいた。
ソフィアは質問を止めた。
「診療記録と尋問記録を分けてください」
警備員が訊く。
「この供述は使えないのですか」
「治療のために答えた症状は医療記録。契約の話は、本人へ尋問へ転用すると告知してから再確認します」
「同じ言葉です」
「同じ言葉でも、渡した目的が違います」
軍医は制吐薬を提示した。
作用。
眠気。
尋問への影響。
男は説明を最後まで聞き、投与へ同意した。
十五分後、右向きの眼振が弱くなる。
装置は外さない。
外部入力だけを遮断したまま、身体が自分の感覚へ戻るのを待つ。
装置の電波記録は、医療班が複製した後で捜査班へ渡された。
姿勢情報は毎秒二十回。
船体の横揺れ、縦揺れ、上下加速度。
発砲指示も照準値もない。
ただし入力元の識別番号は、船内センサーではなく陸上試験装置の形式だった。二百十二基の自己診断用コネクタと、同じ電源規格を使っている。
「手掛かりです」
捜査官が言った。
「一致ではありません」
ソフィアは訂正した。
「規格が同じです。製造者も運用者も、まだ同じとは限りません」
「見出しには長いですね」
「短くして誤るより安い」
捜査官は発表案の《同一組織》を、《関連設備の可能性》へ直した。
一語弱くなった。
追跡線は、その分だけ裁判で切れにくくなった。
その日の尋問は延期された。
早く訊けば、船をもう一隻見つけられたかもしれない。
だが眩暈の中で出た言葉を証拠にすれば、後で全供述を失う。
速さを選ばない判断も、二百十二基を追う仕事の一部だった。




