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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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第九十三話 七割の帰還



 シェレメートの飛行許可証には、三人が署名した。


 外科医。


 機械化身体技師。


 航空医官。


 本人の署名欄だけが空いている。


「私が飛ぶんだから、私も書く〜」


「患者の同意は別紙です」


 航空医官が答えた。


「許可する側には入れません」


「七割は機体部品みたいなものなのに〜」


「残り三割が勝手に飛ぼうとするので駄目です」


 格納庫の隅で、サンソンが診断端末を見ていた。


 左人工肺、定格出力八十六パーセント。


 強化胸郭、交換材固定済み。


 高G対応インプラント、制限モード。


 左側人工腱群、負荷上限六十八パーセント。


「合格〜?」


 シェレメートが聞く。


「不合格だ」


「飛行許可は出てるよ〜」


「帰還許可が足りない」


 サンソンは端末へ、緊急時の切離手順を追加した。


 人工肺が停止した場合、生身の気道を確保し、胸郭駆動を強制解除する。


 人工腱が固着した場合、射出座席の拘束具を手動で切る。


「私の身体に勝手に項目を増やしてる〜」


「前回、勝手に壊れた」


「敵の弾だよ〜」


「弾に署名させろ」


 シェレメートは笑い、笑った振動で左胸を押さえた。


 サンソンの目が、すぐ診断表示へ戻る。


「痛いか」


「少し〜」


「数字は」


「正常〜」


「聞いていない」


 彼は検査着の留め具を一つ外し、胸郭フレームの固定部へ指を当てた。


 皮膚の下で、硬い輪郭が呼吸に合わせてわずかに動く。


 人工肺の駆動音は、格納庫の送風機に紛れるほど小さい。


 サンソンには聞こえていた。


「帰ったら再締結する」


「帰ったら、ね〜」


「そう言った」


「約束?」


「整備予定だ」


「似たようなもの〜」


「違う」


 否定は短かった。


 ケーブルを外す手だけが、少し丁寧だった。


 格納庫へソフィアが入ってきた。


 左鎖骨下には、人工心臓と人工肝臓の保守端末へ繋ぐ細い線。


 シェレメートの胸元には、人工肺と強化胸郭を読む太い診断ケーブル。


 同じサイボーグでも、端子規格は違う。


「私のログを比較用に使う〜?」


 シェレメートが聞いた。


「高G負荷の基準には使えません。私の肺は生体です」


「交換しないの〜?」


「必要がありません」


「便利だよ〜。息止めても警告が出る〜」


「息を止めないでください」


「ほら、警告された〜」


 ソフィアは診断画面を一枚送り返した。


 前回飛行時、人工肺出力が百パーセントへ達した後も、シェレメートは高G旋回を十四秒継続している。


「これは故障ですか」


「操縦〜」


「身体側の制限値を、機体側の余裕で上書きしています」


「飛べたよ〜」


「帰投後に歩けませんでした」


「ケルベロスが運んでくれた〜」


「再現性のない回収手順です」


 サンソンが二人を見る。


「俺を手順へ入れるな」


「もう入っています」


 ソフィアは非常時回収担当欄を示した。


 《地上救難:ジャン=リュック・サンソン少佐》


「誰が書いた」


「私です」


「面倒だな」


 シェレメートが嬉しそうに笑う。


「正式担当〜」


「故障する理由にはなりません」


 ソフィアはシェレメートの飛行許可条件を開いた。


 《人工肺九十五パーセント超過時、任務を問わず帰投》を追加する。


「厳しい〜」


「帰還率を上げます」


「命令?」


「保守条件です」


 サンソンが頷いた。


 二対一になったことを理解し、シェレメートは口を尖らせた。


 機械の身体は、本人以外にも数値が見える。


 無茶を隠しにくいことだけは、生身より安全だった。


「まだ終わっていません」


 航空医官が射出座席の模擬架台を指した。


 座席は飛ばない。


 拘束具、脚部引込索、肩ベルト、非常酸素、通信リードだけを実機と同じ位置へ組んである。


 シェレメートが座ると、通常の操縦者より固定点が五つ増えた。


 人工肺の保守線。


 人工腱の診断線。


 胸郭温度センサー。


 神経直結通信。


 予備電源。


 機体へ繋がるほど、操縦は速くなる。


 機体から離れる時だけ、線の数が死ぬ理由になった。


「緊急離脱」


 医官が計時を始める。


 シェレメートは通信リードを抜き、人工肺の保守線を切離す。人工腱側が外れない。


「固い〜」


「実機では、射出まで三秒ありません」


「じゃあ置いていく〜」


「脚をですか」


「線を〜」


 彼女は非常切断刃を引いた。


 模擬線が切れる。


 十一・四秒。


「不合格」


「三秒は無理〜」


「通常手順で外す時間ではありません。射出把柄を引けば、火工切断器が先に五本を切ります。いま確認しているのは、不時着後に座席から出られるかです」


「説明を先に〜」


「説明中に冗談を言っていました」


 二回目。


 サンソンが架台の後ろへ立った。


「緊急離脱」


 人工肺線。


 診断線。


 通信リード。


 人工腱側は、解除環を引いてから身体を右へ捻る。


 六・八秒。


「合格」


「サンソン、何もしてない〜」


「死に方を見ていた」


「怖いこと言う〜」


「間違えた場所を覚えるためだ」


 三回目は五・九秒。


 四回目、左人工肺の故障を模擬して駆動を三十パーセントへ落とした。


 胸郭補助が弱まり、声が一度で続かない。生身の気道は残っていても、肺胞の換気を担う人工肺が止まれば、自力呼吸だけでは酸素を維持できない。


 シェレメートは非常酸素のマスクを顔へ当て、外部換気コネクタを開いた。


「……これ、嫌い〜」


「理由は」


「喋れない〜」


「安全性が上がった」


 サンソンは本気で言った。


 彼女はマスク越しに睨んだ。


 酸素飽和度、九十三。


 九十五。


 九十七。


 外部換気へ接続できるまで十八秒。地上救難班が到着するまでの予備電源は十四分。


 航空医官は数値を確認し、許可証へ最後の注記を入れた。


 《単独脱出可能。地上救難時、胸郭外部換気を優先》


「七割でも、一人で帰れます」


 シェレメートは言った。


「七割だから、帰す人数を増やす」


 サンソンが答えた。


 本人の同意欄へ、彼女はようやく署名した。


     *


 飛行試験の任務名は《機能確認》だった。


 格納庫の横扉が開いた。


 サンソンは診断端末から顔を上げ、そのまま三秒黙った。


 赤い髪は高い位置で二つに分けられ、頭幅を越える深紅のリボンで結ばれていた。


 服は純白のワンピース。


 ヘルメットなし。


 酸素マスクなし。


 ヘッドセットもない。


「……ついに気が狂ったか」


「治ったから飛ぶだけ〜」


「その格好でか」


「原点回帰〜」


「戻る場所を間違えている」


 定期整備を終えたばかりのSu-35BMが、格納庫前の陽光を鈍く返していた。


 シェレメートはラダーへ足を掛けた。


 整備兵が差し出したヘルメットを避け、座席脇の通信リードを左耳の後ろにある保守端子へ接続する。


 無線試験の声が、鼓膜を通さず聴覚神経へ入った。


 彼女の発声は喉元の振動信号から拾われ、同じ端子を通って機体無線へ返る。


 知ってはいた。


 だが、人間なら頭へ被る装置を、自分の身体へ直接差し込むところまで見せられると、さすがのサンソンも言葉を選べなかった。


「あいつも俺と同じ人外かよ。ANYCのオタクが俺に熱弁していたな。――『類は友を呼ぶ』とは、よく言ったもんだ」


「聞こえてるよ〜」


「もう接続したのか」


「地獄耳も機能確認済み〜」


「離陸前に故障してくれ」


「帰ったらハグしてくれる〜?」


「帰ってから故障しろ」


 兵装はR-73二発。


 機関砲は実弾。


 増槽なし。


 高度三千メートル以下、最大五G、飛行時間四十五分。


 シェレメートはSu-35BMのキャノピーを閉じた。


 機体診断と身体診断が、別々の画面で起動する。


 左エンジン、正常。


 右エンジン、正常。


 油圧、正常。


 人工肺、八十六パーセント。


 人工腱、制限あり。


 高Gインプラント、保護作動域四・五G。


「人間の方が制限多い〜」


『聞こえている』


 地上回線のサンソンが答えた。


「独り言〜」


『記録される独り言だ』


「じゃあ、好きって言っておこうかな〜」


『離陸許可を待て』


 管制官が咳払いをした。


 シェレメートは満足した。


 返事をしない男は、回線を切らなかった。


     *


 離陸から十九分後、機能確認は終わった。


 任務だけが変わった。


 E-7Aが、アンバー海沿岸の旧造船所から短時間の電波放射を捉えた。


 二十七秒。


 周波数は、回収された試験用コネクタの自己診断帯域と一致。


 造船所は、六年前に閉鎖。


 電力契約は倉庫照明だけ。


 実際の消費は、契約値の十一倍だった。


『シェレメート、帰投せよ』


 航空医官の声。


「位置だけ見て帰る〜」


『帰投命令だ』


「共同調整室は?」


『任務変更を勧告していない』


「じゃあ、偵察機が足りないね〜」


 シェレメートは機首を北へ向けた。


 制限モードの警告が点灯する。


 四・二G。


 人工肺の出力が九十一パーセントへ上がる。


 強化胸郭の左側へ、鈍い圧力。


 痛みは数値にならない。


 数値にならないものを、彼女は昔から笑って隠した。


『戻れ』


 今度はサンソンだった。


「三分だけ〜」


『一分』


「二分〜」


『九十秒』


「交渉成立〜」


 彼女は造船所の西を一度だけ横切った。


 合成開口レーダーが、屋根下の長方形を拾う。


 十二メートル級のコンテナ、十八本。


 大型電源車、四台。


 岸壁には、クレーンの影。


 海側からH225Mカラカルが二機、低空で近づいていた。


 サンソンの部隊ではない。


 識別信号も出していない。


『不明ヘリ二。方位〇八一、距離二十四』


 E-7Aが告げる。


 H225Mの一機が、シェレメートへ機首を向けた。


 側面扉から、人影が携帯式ミサイルを外へ出す。


 シェレメートは上昇しなかった。


 海面へ降りた。


 レーダー高度二十二メートル。


 波の反射へ機体を沈め、左へ九十度。


 人工肺が最大出力へ達する。


 胸郭固定部が軋み、高Gインプラントが強制的に感覚信号を間引いた。


 機体は海面効果の縁で細かく跳ねた。波頭から返る乱流が主翼下面を叩き、操縦桿へ砂を噛んだような震えを返す。補修した胸郭の〇・八ミリのずれは、そこで針になった。左胸の内側を呼吸ごとに抉り、生身の神経だけが遅れず痛みを伝えた。


 視野の端が白くなる。


 R-73のシーカーが、ヘリの排気を捕まえた。


『撃つな』


 サンソンの声。


「撃たない〜」


 R-73の赤外線シーカーが排気を捕らえても、相手のレーダー警報受信機は鳴らない。


 警告を与えるなら、別の手段が要る。


 撃たずに追い払うため、彼女は自分の位置と意図を一秒だけ明かした。


 シェレメートはR-73を発射しないまま、N035の射撃管制レーダーを一秒だけ単一目標追尾へ切り替えた。


 H225Mのレーダー警報受信機が鳴る。


 H225Mは発射筒を引っ込め、造船所側へ急旋回する。


 もう一機が煙幕弾を撒いた。


「逃げる方向、ありがとう〜」


 E-7Aが航跡を記録する。


 二機は造船所へ降りず、東の貨物道路へ向かった。


 誘導したのではない。


 逃走路を自分で示させた。


 九十秒が終わる。


『帰れ』


「はいはい〜」


『復唱』


「シェレメート、帰投します」


 珍しく、語尾を伸ばさなかった。


     *


 着陸後、シェレメートは自力でキャノピーを開けた。


 そこまでは正常だった。


 ラダーから右足を下ろした瞬間、左人工腱が固着した。


 身体が前へ傾く。


 サンソンが胸元のハーネスを掴み、落下を止めた。


 金属フレームの重さが、彼の両腕へ一気に乗る。


 人間一人分より重い。


「重い〜?」


「七割分な」


「失礼〜」


「黙れ」


 サンソンは非常解除具を人工腱の接続部へ差し込んだ。


 端子が開き、左脚の張力が抜ける。


 人工肺、九十八パーセント。


 胸郭温度、上昇。


 高Gインプラント、保護停止。


「機体は無傷〜」


「お前が故障した」


「部品交換で直るよ〜」


「その言い方をするな」


 サンソンの声だけが低くなった。


 シェレメートは笑うのをやめた。


 彼は壊れた装置を見ているのではない。


 壊れた彼女を見ている。


「ごめん」


「謝るな。戻ったことを報告しろ」


 シェレメートは地上回線を開いた。


「シェレメート、帰投。造船所と不明ヘリ二機を確認。私も回収済み〜」


 共同調整室から、ペトレンコの返答が来る。


『帰還を確認。医療班へ』


「了解〜」


 サンソンは彼女を降ろさず、そのまま担架まで運んだ。


「自分で歩ける〜」


「歩けない機械は黙って運ばれろ」


「人間の三割は抗議してる〜」


「面倒だな」


 その言葉を聞いて、シェレメートはようやく笑った。


 飛行時間、三十七分。


 R-73、消費ゼロ。


 機関砲、消費ゼロ。


 人工肺の交換推奨時期は、予定より十九時間縮んだ。


 機体を傷つけずに帰る費用が、彼女の身体側へ記録された。


 造船所の位置は判明した。


 二百十二基があるかは、まだ分からない。


 だが、空白だった地図へ、敵が自分から逃走路を描いた。


 医療区画で人工腱の応急解除を終えた後、サンソンは彼女の飛行ログを最初から再生した。


 四・二G。


 人工肺九十一。


 九十四。


 九十八。


 帰投命令への応答遅延、二・七秒。


「怒ってる〜?」


 シェレメートが診断台から聞く。


「修理している」


「怒りながら?」


「怒ると直るのか」


「私には効くかも〜」


 サンソンは左胸の整備窓を開いた。


 皮膚保護膜の下に、炭素複合材の肋骨と人工肺の薄い外殻。


 接続部の一本が、規定位置から〇・八ミリずれている。


 人間の目には誤差。


 高G下では痛みと振動になる。


 彼は固定具を緩め、位置を戻し、新しい封止材を塗った。


 シェレメートはその間だけ、冗談を言わなかった。


 機械部品が見える場所でも、痛覚は生身の神経へ繋がっている。


「終わった」


「ありがとう〜」


「次は九十五で帰れ」


「九十六〜」


「九十四」


「減った〜」


「交渉するほど減る」


「じゃあ九十五〜」


     *


 共同調整室では、飛行ログより先に任務報告書の表題が問題になった。


 航空作戦班の若い大尉は、《機能確認飛行中の臨機目標偵察》と入力していた。成功した行動として残れば、任務を組んだ部署にも一行の実績が付く。次の定員査定で、臨時席から正規席へ移れるかもしれない。


 彼には病気の父親と、基地の外で待つ婚約者がいた。危険な飛行を美談へ変えたいのではない。自分の名前が、美談の末尾に残ればよかった。


 ペトレンコは表題を読んだ。


「誰が偵察を命じましたか」


「電波放射を受け、現場判断で任務を継続しました」


「質問に答えてください」


「命令者はいません」


 大尉の指が止まる。


「では、《帰投命令違反を伴う情報取得》です」


「それでは、成果まで処分記録に見えます」


「成果は別欄へ書きます。造船所、コンテナ十八本、電源車四台、不明H225M二機。どれも消しません」


「飛行許可そのものが取り消される可能性があります」


「それを判断するのは医療班と航空司令です。報告書の表題ではありません」


 ペトレンコは訂正履歴を消さなかった。最初の表題も、入力者の氏名も残した。


「大尉。あなたの分析も、通信中継も正確でした。評価欄には私が書きます」


「……ありがとうございます」


「だから、他人の違反へ乗って昇進しないでください。次は止める側へ回ってもらいます」


 大尉は赤くなり、表題を書き直した。


 成功と違反を同じ箱へ入れれば、成功だけが上に浮く。


 この時点では、まだ箱を分けようとする者がいた。


 九十秒の偵察で得た座標は、港湾裁判所へ送られた。


 シェレメートの飛行資格は、四十八時間停止。


 発見した造船所への令状申請は、停止されなかった。


「成立」


 彼女は目を閉じた。


 人工肺の駆動音が、修理前より静かになっていた。


「静かになったご褒美〜」


「整備費を請求する」


「ハグで払う〜」


「通貨として認めない」


「じゃあキス〜」


 サンソンは封止材の硬化時刻を端末へ入力した。返事の代わりに、診断台の枕から外れた赤い髪を指先で戻し、頭頂を二度撫でる。


「はい、また流した〜」


「患者の興奮を抑える処置だ」


「心拍数、変わってないよ〜」


「肺の音が静かになった」


 シェレメートは目を開けなかった。


「じゃあ効いた〜」


 強い者へ身体の内部を預ける怖さを、彼女は冗談へ変えた。サンソンは冗談へ答えず、封止材が固まるまで手を離さなかった。

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