↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
98/167

第九十話 空白のない地図



 救出された十五人は、一列に並ばなかった。


 五人は《トーベイ》の医務室。


 三人は《スヴィターナ》へ空輸。


 七人はアルシェールの病院。


 《トーベイ》の医務室には、海水で濡れた防寒毛布と消毒薬、機関室から移った燃料油の匂いが残っていた。担架の脚が艦の振動へ合わせて細かく鳴り、冷え切った指へ巻かれた包帯の下で、血が戻る痛みだけが遅れて始まっている。


 救出者という一語では、十五人を同じ形にできなかった。


 眠り続ける者。


 水を飲むたび吐く者。


 毛布の端を両手で握り、誰にも触らせない者。


 司法官は顔を近づけず、質問票の紙が擦れる音まで小さくした。


 司法官は、治療先ごとに別の証言開始時刻を設定した。


 同じ体験をした者同士でも、供述をすり合わせる前に記録する。


 救助したから、すぐ質問してよいわけではない。


 証拠が欲しいから、眠らせなくてよいわけでもない。


 その手間を守るために、国家は速く動かなければならなかった。


 最初に話せたのは、サロージャ貨物駅の信号係だった。


 五十七歳。


 右手の指二本を骨折。


 低体温から回復したばかりで、毛布を肩へ巻いている。


「誰に連れ去られた」


 司法官が聞く。


「鉄道保安員の制服を着た四人」


「本物でしたか」


「制服は本物だ。靴が違った」


「靴?」


「保安員は線路を歩く。あんな平らな靴底では、雨の日に転ぶ」


 彼が覚えていたのは顔ではない。


 車内で聞いた時刻表の誤り。


 貨車番号の読み方。


 手袋に付いた銅粉。


 コンテナ内で、隣の技師が一晩中数えていた呼吸の回数。


「誰が救出命令を出したか知っていますか」


「知らない」


「公国の共同調整室です」


 信号係は少し考えた。


「なら、礼を言う」


「臨検は旗国の同意前でした」


「それは私に聞くことか」


「記録として」


「助かった人間へ、法律が正しかったと言わせるな」


 司法官は、その言葉も記録した。


 生存者の感謝は、適法性の証明ではない。


 生存者がそう言ったことに、制度設計者たちは救われた。


     *


 《エウリュディケ》臨検の法的審査は、救出から十時間後に始まった。


 争点は三つ。


 旗国同意前の強制乗船。


 《トーベイ》による30ミリ機関砲射撃。


 共同救命調整措置の勧告が、事実上の命令だったか。


 ペトレンコは、発動時の音声記録を提出した。


 《勧告を送信》


 《従うかは各指揮官が判断》


 言葉の上では、権限を越えていない。


 しかし、現場の三指揮官は全員、同じ勧告へ従った。


「拒否できたと思いますか」


 審査官が《トーベイ》艦長へ聞いた。


「法的には」


「実際には」


「十五人が箱に入っていた」


「それは発見後です」


「発見前に、入っていると判断した」


「誰の判断を信頼した」


「統合室です」


「ペトレンコ大公妃ではなく?」


 艦長は少し考えた。


「統合室が、彼女の声で話した」


 答えは、制度設計者にとって都合が悪かった。


 だから記録へ残された。


     *


 第八十八特務支援群の戦死者は、セルゲイ・オストリク軍曹。


 三十歳。


 出身地は帝国領内。


 公国籍取得申請中。


 空母の戸籍へ登録された通知先は、妹一人だった。


 ボンダレンコは共同緊急勘定から死亡補償を支出しようとした。


 監査端末が止めた。


 《受給者の公国納税者番号なし》


「死者へ納税させる気か」


 彼は端末へ言った。


 端末は答えない。


 妹の居住国は、共同勘定へ未参加。


 送金には通常十営業日。


 ボンダレンコは緊急支出欄へ、《共同作戦従事者・国籍不問》という区分を追加した。


 監査官が止める。


「規程にありません」


「今から入れる」


「遡及適用です」


「死んだ後にしか使えない規程だ。全部遡及になる」


 言い争いは二時間続いた。


 送金はその日のうちに行われた。


 同時に、新しい区分は参加八か国すべての様式へ複製された。


 一人の死が、八か国の書式を変えた。


 それが国家の追悼だった。


     *


 三日後、アルシェールで《共同救命・証拠保全議定書》が採択された。


 採択までに、草案は七回変わった。


 最初の案では、公国共同調整室が《優先行動を指示》できた。


 ヴァローニュ議会が《勧告》へ戻した。


 第二案では、拒否に事前承認が必要だった。


 北方三国が削除した。


 第三案では、全参加国の情報を常時共有した。


 ソフィア自身が反対した。


「必要な時に、必要な範囲だけです」


「情報が多い方が速いのでは」


「多い情報は、使える権限を増やします」


「私の人工心臓も診断系へ状態を通知しますが、運動神経へ命令を書き込む権限はありません。監視系と制御系は分けます」


「あなた方が作った仕組みでしょう」


「だから限界を知っています」


 最終案では、各事件に識別番号を付け、閲覧権限を最長七十二時間で失効させた。


 延長には、情報提供国と調整室の双方署名。


 緊急時に速く開く。


 終わった後は、自動で閉じる。


 問題は、自動で閉じた扉を、皆がすぐ開け直したがることだった。


 期限は三十日。


 参加国は十一。


 内容は限定されている。


 人質、生存者、消失危険のある重大証拠を対象とする。


 キミロフ共同調整室は、最大二十分の優先行動を勧告できる。


 各国部隊の指揮権と武器使用権限は移さない。


 拒否は可能。


 拒否、遅延、発動はすべて参加国へ同時記録。


 共同緊急勘定は三十日延長。


 七日ごとに支出と作戦結果を公開。


 主権侵害または死者が出た場合、四十八時間以内に審査。


 死者が出た《エウリュディケ》作戦は、最初の審査対象になった。


 公国側は成功作戦として免除を求めなかった。


 《トーベイ》艦長の火器使用。


 リンクスの被弾後続行。


 MH-60Sからの降下位置。


 ペトレンコの勧告時刻。


 ソフィアの切迫性評価。


 AC-130Uスプーキーのセンサー記録と、施錠された三火器の発砲不能ログ。


 オストリク軍曹の防弾装備。


 全部が、同じ机へ載せられた。


 軍曹の防弾板は規格内。


 銃弾は板の外側、上腕から胸腔へ入った。


 装備不良ではない。


 降下角度が、射手へ左側面を見せていた。


 次回は機体位置を四メートル前へ。


 死者を英雄と呼ぶだけなら、一行で済む。


 同じ場所で次の一人を死なせないには、四メートルまで測る必要があった。


「公国へ権限を渡していない」


 各国代表は、自国議会へそう説明した。


 文面上は正しい。


 公国は命令できない。


 ただ、最も早く同じ情報を見て、最初の勧告を出す。


 現場が拒否するには、二十分以内に別の案を作らなければならない。


 時間が、権限の形を変えていた。


     *


 調印式の机には、十一本の小旗が並んだ。


 公国。


 ヴァローニュ。


 エスティア。


 ラトヴァ。


 リトネア。


 ほか六か国。


 旗は同じ大きさだった。


 鍵は、同じ金庫へ入れられた。


 各国の暗号認証装置。


 緊急時に共同回線を開くための物理鍵。


 一本では起動しない。


 三か国分が揃わなければ、最上位情報層へ入れない。


 鍵を金庫へ入れる順番でも、代表団は揉めた。


 公国が最初なら、主導権の象徴になる。


 ヴァローニュが最初なら、開催国の優越に見える。


 北方三国を一つに数えるか、三つに数えるか。


 最後は、式典係が十一人へ同時に手を伸ばさせた。


 狭い金庫口へ、十一の手がぶつかった。


 鍵が一本、床へ落ちる。


 記者席から笑いが起きた。


「共同指揮の実演ですね」


 誰かが言った。


 ボンダレンコが拾い上げる。


「これで戦争をするなら、敵に五分待ってもらえ」


 今度は代表団も笑った。


 制度は荘厳さでは動かない。


 手がぶつかり、鍵を落とし、それでも拾う人間がいて動き始める。


「公国だけでは開けません」


 ソフィアが記者へ説明した。


「では安全だと?」


「いいえ。三か国が誤れば、三か国分の速度で誤ります」


「なぜ作ったのです」


「十五人が生きて帰ったからです」


 完全な安全を待てば、制度は作れない。


 成功だけを見れば、制度を止められない。


 その中間へ、有効期限と記録を置いた。


     *


 調印後、ヴォロディミルとペトレンコは共同調整室へ入った。


 壁面図に、白い点はなかった。


 《エウリュディケ》の十五人。


 会議区の職員。


 港湾作戦の参加者。


 負傷者は橙。


 死者は赤。


 所在不明はゼロ。


「消えました」


 ペトレンコが言う。


「点滅はな」


 ヴォロディミルは彼女の顔を見る。


 目の下に薄い影。


「今夜は眠れ」


「次の衛星更新が二時間後です」


「担当者がいる」


「確認だけ」


「それを三日前にも聞いた」


 ペトレンコは画面を閉じようとした。


 指が止まる。


「地図に空白があると、そこへ人が落ちる気がします」


 彼女にとって空白は余白ではなかった。


 見えていない損失の予備欄だった。点が消えるたび、次の点を探せという手順が頭の内側で起動する。所在不明者がゼロになっても、その手順だけが停止条件を持っていなかった。


 初めて、手順ではない言葉だった。


 ヴォロディミルは端末の主電源を切った。


「空白は、担当者が埋める」


「私も担当者です」


「今日は大公妃だ」


「職務記述が曖昧です」


「夫の睡眠を監督する」


「あなたも寝ていません」


「共同責任だ」


 彼女は少しだけ笑った。


 二人が部屋を出る。


 消灯後も、壁面図は非常電源で待機していた。


 十一の旗は別々だった。


 部隊も、法律も、予算も別々だった。


 ただ、次に誰かが消えた時、最初に灯る場所だけが同じになった。


 征服ではなかった。


 十五人を助けるために、皆が自分から鍵を持ち寄った。


 だからこそ、その部屋を空にする理由は、もう見つけにくかった。


 扉の外で、夜勤の若い分析官が二人と入れ替わった。


 彼は公国人ではない。


 ラトヴァ警察から三十日だけ派遣された通信技師だった。


 机へ座り、十一か国分の認証状況を確認する。


 最初の報告は平凡だった。


 貨物船一隻、予定より二十分遅延。


 救急搬送車一台、位置情報停止。


 帝国暫定政府の証人二名、定時連絡あり。


 彼は異常なしと記録し、キミロフのサーバへ送った。


 誰も命令していない。


 誰も国旗を降ろしていない。


 それでも、異国の夜勤者が最初に報告する先は、もう自国の首都だけではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。