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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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第八十九話 許可は後から



 《エウリュディケ》の船長は、紅茶へ砂糖を入れなかった。


 機関長は三つ入れた。


「糖尿で死ぬぞ」


 船長が言う。


「今夜を越えたら考える」


 ブリッジの窓外は暗い。


 右舷後方、十二海里に航海灯が一組。


 二十三型フリゲート《トーベイ》が距離を詰めている。


「旗国から返事は」


「ない」


「船主は」


「電話へ出ない」


「いつものことだ」


「今日は困る」


 二人は同時にカップを置いた。


 ブリッジ後部の扉が開く。


 灰色の作業服を着た男が、短銃身のAK-105を持って入ってきた。


「針路を維持しろ」


「機関が過熱している」


 機関長が言う。


「止めれば直る」


「止めれば、後ろの軍艦が来る」


「なら壊れるまで走らせろ」


 男は紅茶を見た。


「砂糖は」


「三つ」


 機関長が答えた。


 男は嫌そうな顔をした。


「二つでいい」


 人質船の夜は、そんな会話から始まった。


     *


 午前二時十分。


 《トーベイ》は《エウリュディケ》左舷後方六海里。


 艦尾甲板でウェストランド・リンクスHMA.8がローターを回している。


 搭乗するのはヴァローニュ国家憲兵特別介入群六名。


 上空待機するMH-60S二機には、公国海兵と第八十八特務支援群。


 空母スヴィターナから飛来し、給油限界まで二十八分。


 海上状況の統合と通信中継はE-7A。


 熱画像そのものは、先行する海上監視無人機と、上空待機中のMH-60Sが搭載するEO/IRセンサーから届いていた。


 赤外線は奇術ではない。


 鋼製コンテナの内側までは見せてくれない。


 それでも、鋼板は完全な嘘をつけなかった。


 映っているのは、中央甲板の通風口から漏れる温気と、周囲よりわずかに高い外板温度だった。


 船員二十二名だけでは説明しにくい熱負荷が、船倉中央部にある。


 十五人の所在を確定する証拠ではない。だが、貨物ではなく、人間が呼吸し、照明と換気を使っている時の熱だった。


 可視光画像には、コンテナ外側を這う細い電線。


 船橋下の区画へ伸びている。


「爆破回路の可能性」


 ソフィアが《スヴィターナ》戦術指揮所で言った。


「確度は」


 ペトレンコが聞く。


「七十一パーセント。通常の温度監視線より太い。二系統あります」


「切迫性は成立しますか」


 法務官が答えた。


「人質の存在は高度の蓋然性。爆発物は未確定。旗国同意なしの強制乗船は、なお争われます」


「争える人間を生かします」


 ペトレンコは、共同救命調整措置の発動画面を開いた。


 彼女が出せるのは勧告だけ。


 《トーベイ》は自艦の艦長。


 リンクスはヴァローニュ側指揮官。


 MH-60Sは公国側指揮官。


 武器使用判断は、それぞれに残る。


「人質救出を最優先。機関停止、通信遮断、爆破回路の隔離。船体沈没を避ける。勧告を送信」


「旗国回答は」


「まだです」


「発動時刻を記録します」


 ソフィアが言った。


 午前二時十二分。


 緊急例外、五。


 胸の人工心臓は、命令の前後で同じ回転数を保っていた。


 記録キーの上で止まった指だけが、決断に要した半秒を残した。


     *


 《トーベイ》が探照灯を点けた。


冷蔵貨物船エウリュディケ。こちら連合海上警備艦。機関を停止し、臨検を受け入れよ』


 返答は銃撃だった。


 船尾の救命艇格納部が開き、隠されていたDShK重機関銃が火を噴く。


 十二・七ミリ弾が海面を跳ね、リンクスの前を横切る。


 リンクスは左へ急旋回。


 射手は追う。


 弾列が尾部へ届き、水平安定板の外皮を裂いた。


 十二・七ミリ弾は、薄い外皮を紙のように捲り、内部のリブへ拳で殴ったような窪みを残した。打撃は尾部から機体全体へ走り、操縦桿ではなく座席の骨組みを通って操縦士の背骨へ入る。油圧油の甘い匂いはしない。まだ配管は生きている。だがローターの一回転ごとに、傷んだ外板が低く唸った。


 後席の乗員は反射的に首を縮め、次の瞬間には計器を指で追った。恐怖は後回しにできる。振動数は後回しにできない。


『リンクス一、被弾。操縦可能。油圧正常』


 機体は逃げない。


 海面すれすれまで降り、船首側へ回り込む。


 DShKの射界から外れる。


 《トーベイ》のDS30M 30ミリ遠隔機関砲が旋回した。


 二連射。


 徹甲焼夷弾が救命艇格納部の支柱を切り、DShKの架台を甲板へ倒す。


 射手は伏せる。


 船体中央ではなく、火器だけを壊した。


 上空ではAC-130Uスプーキーが距離を取り、左旋回を続けていた。AN/APQ-180の航跡と赤外線映像だけを《トーベイ》へ送る。砲手席の照準表示には貨物船が白く浮かんでいたが、二十五ミリ、四十ミリ、百五ミリの射撃許可はすべて閉じられている。


 撃てば早い。


 撃たないまま、誰が甲板のどこへ走るかを数える方が難しかった。


『機関停止を確認できず。目標、速度十四ノット維持』


「操舵を取る」


 《トーベイ》艦長が命じた。


 DS30Mが船尾上構の外側へ一発ずつ撃つ。


 通信アンテナ。


 外部操舵制御箱。


 破片が散り、船尾から黒煙が上がった。


 速度が十二ノットへ落ちる。


 機関室では、冷却海水ポンプが悲鳴を上げていた。


 船外へ出る弁を閉じたまま、主機だけを全開にしている。


 機関長の助手が圧力計を見た。


「あと五分です」


 灰環の監視役が拳銃を向ける。


「十持たせろ」


「数字は脅せない」


「お前は脅せる」


 助手は予備ポンプへ切り替えるふりをし、燃料供給弁を半分閉じた。


 回転数が落ちる。


 監視役が計器へ顔を向けた時、機関長が背後から工具箱を振り下ろした。


 拳銃が床を滑る。


 助手が蹴り、ビルジ溝へ落とした。


 監視役は肘で機関長の顔を打つ。


 鼻骨が折れる。


 痛みは白い閃光になって目の奥へ走り、次に熱い血が唇へ落ちた。機関長は鉄臭さを飲み込み、両手を燃料弁へ残した。主機の振動が腕の骨を揺さぶる。殴られた頭より、閉じきらない弁の方が今は重大だった。


 それでも燃料弁は閉じ続けた。


 主機の音が一段下がる。


 船速、九ノット。


『船速低下。船内操作の可能性』


 E-7Aの戦術管制員が報告する。


 外から見えるのは、数字だけ。


 その数字を下げるため、機関室では工具箱と骨が使われていた。


     *


 MH-60S一番機は、船体左舷へ並んだ。


 ローターウォッシュがコンテナ上の雨水を吹き飛ばす。


 側面銃座のM240Hは撃たない。


 窓の奥に船員がいる。


 ファストロープが二本下りる。


 第八十八群の先頭が甲板へ降りた瞬間、船橋脇の扉から自動小銃。


 弾丸がコンテナ角へ当たり、火花を散らす。


 先頭員の左肩へ一発。


 防弾板の外を抜けた。


 彼は倒れながら、後続へ右側を指した。


 後続二名がコンテナの陰へ入る。


 撃ち返す。


 襲撃者は扉の内側へ退く。


 リンクスが船首甲板へ降下し、国家憲兵隊を降ろした。


 尾部被弾で振動が出ている。


 着艦脚が甲板へ触れる前に、六人が飛び降りる。


 リンクスはすぐ上昇し、《トーベイ》へ戻った。


『船首班、前進開始』


『船尾班、負傷一。戦闘継続』


 同じ船へ、二か国の班が別の入口から入る。


 共通なのは見取り図と時刻だけだった。


 船尾班は機関室への階段で、倒れた監視役と機関長を発見した。


 機関長は血で顔を濡らしながら、主機停止索を握っている。


「爆薬は船橋と機関室」


 隊員が言う。


「知ってる」


「どこだ」


「あの馬鹿が、冷却水集合管の裏へ置いた。船を沈めるなら、もっと下へ置くべきだった」


「助かる」


「船を褒めろ。古いが、配管は正直だ」


 爆発物処理員が集合管裏へ内視鏡を入れる。


 成形炸薬二基。


 遠隔起爆器。


 さらに振動式の副信管。


 配線を切れば作動する可能性がある。


 その場で解除せず、主機周辺へ防爆毛布を積み、起爆信号だけを妨害する。


 船を止めることと、爆弾を止めることは別の仕事だった。


     *


 ロマネンコは《スヴィターナ》の臨時席で積荷目録を見ていた。


「冷蔵コンテナ番号は」


『四一七と四一九』


「違う。囮だ」


「四一七と四一九の冷却機周辺で、外板温度差が最大です」


「見せるためだ。人を入れた箱に、正しい番号を付ける馬鹿はいない。電線の行き先を追え」


 可視光画像を拡大すると、二本の細い電線が冷蔵コンテナから船橋下へ伸びている。


 だが、冷却用電源幹線は船尾機関室から来るはずだった。


「起爆回路じゃない」


 ロマネンコは言った。


「温度センサーも偽物。箱が開いたら船橋へ知らせる警報だ。本物はその隣、番号なしの白い箱」


 白いコンテナは、積荷目録に存在しない。


 外板温度は周囲とほぼ同じだった。ただし、上部通風孔の縁だけが二・一度高く、床面の排水跡も新しい。


 内部断熱で熱を抑え、換気だけを別系統へ逃がしている。


「船尾班へ。白い無番号コンテナを確認」


 ペトレンコが勧告する。


『了解』


 現場は理由を聞かない。


 今は、それで速い。


     *


 船橋では、船長と一等航海士が床へ伏せていた。


 作業服の男三人。


 一人は短銃身AK。


 一人は起爆器。


 一人は紅茶を飲んでいる。


「砂糖二つは甘すぎた」


 男が言った。


「次は一つにしろ」


 船長が答える。


「次があると思うか」


「船員は次の航海を考える。兵隊は知らん」


 船首側の扉へ、国家憲兵が破砕弾を撃つ。


 蝶番が飛ぶ。


 同時に船尾側から第八十八群。


 男が起爆器を押す。


 何も起きない。


 男たちが起爆受信機を船橋の非常電源へつないだ時から、一等航海士は遮断器の位置を見ていた。


 一等航海士が、床下の非常回路遮断器を先に蹴り落としていた。


「古い船で良かったな」


 船長が言う。


 銃撃は七秒だった。


 紅茶を飲んだ男は肩へ被弾。


 起爆器の男は手首を撃たれた。


 AKを持つ男は船長を盾にしようとし、船尾班の一発が太腿へ入った。


 三人とも生きて拘束された。


 紅茶を飲んでいた男の指紋は、アルシェール空港の給油車運転手と一致した。


 会議区襲撃の朝、H225Mへ燃料を入れ、その日のうちに船員証へ身分を替えている。


 空で作った囮を、海で回収する役だった。


     *


 白いコンテナの扉を開ける。


 十五人。


 手首を拘束され、毛布を一枚ずつ与えられていた。


 酸素濃度は低下。


 一人が意識不明。


 二人が低体温。


 全員に脈がある。


 国家憲兵の医療員が酸素を入れる。


 第八十八群は、その隣のコンテナから耐衝撃サーバ二基と、誘導装置用の検査治具を発見した。


 誘導装置本体はない。


 売却経路の名簿がある。


 午前二時二十九分。


 セレニア共和国から回答が届いた。


 人命救助を目的とする臨検へ同意。


 効力は回答時刻から。


 乗船開始の十七分後だった。


「許可が来ました」


 ソフィアが言う。


「遅かったですね」


 ペトレンコは十五人の生存表示を見た。


「間に合った、と書きますか」


「許可は間に合っていません。救出は間に合いました」


「両方書いてください」


「はい」


 負傷した第八十八群の隊員一名は、搬送中に心停止した。


 蘇生は成功しなかった。


 名はセルゲイ・オストリク軍曹。


 最初に甲板へ降り、撃たれた後も右側の射点を指した男だった。


 彼が示した一秒で、後続二名はコンテナの陰へ入れた。


 戦術記録には《先頭員負傷、後続展開継続》とだけ残る。


 妹へ渡す通知書には、別の文章が必要だった。


 ペトレンコは作戦終了時刻より先に、通知責任者を指定した。


 成功会見の準備は止めた。


 十五人の生存は公表する。


 死亡者の氏名は、妹へ届くまで公表しない。


 情報を一つの画面へ集めても、悲報まで群衆へ先に渡してはならなかった。


 救出十五。


 味方死亡一。


 許可、十七分遅延。


 成功した例外は、また一つ増えた。

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