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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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第八十八話 灰環の依頼人



 灰環戦線には、本部がなかった。


 指導者もいない。


 入党申込書も、殉教者の肖像も、占領すべき首都もない。


 あるのは、注文書だった。


 標的。


 必要な混乱。


 偽装したい責任主体。


 回収する人間。


 支払い条件。


 注文ごとに、別の人間が集められる。


 仕事が終われば名前も旗も捨てる。


「組織ではなく、市場です」


 イリーナが言った。


 アルシェール臨時統合室の中央に、資金移動図が表示される。


 式典襲撃。


 偽貨物船。


 会議区攻撃。


 バルディン拉致。


 四つの事件をつなぐ人物はいない。


 銀行、暗号鍵、弾薬ロット、偽造制服の発注先を二段ずつ遡ると、同じ保険再引受会社へ行き着いた。


 登記地は自由貿易港。


 社員三名。


 保険契約、七千件。


「保険会社がテロを発注した?」


 ヴァローニュ捜査官が聞く。


「会社は箱です」


 イリーナが答える。


「箱へ金を入れた者がいます」


 入金は帝国暫定政府の口座ではない。


 旧皇帝府継戦委員会が国外へ移した金塊を担保に、三つの民間基金が信用状を発行していた。


 その一つへ、コドベニア聖教国系の資源商社。


 もう一つへ、アーラシアの退役情報将校が経営する警備会社。


 三つ目へ、国籍不明の暗号資産交換業者。


「アーラシア政府の関与は」


「現時点で確認できません」


 ソフィアが言った。


「第十二海外行動群の暗号装置は、廃棄台帳と物理破壊映像が一致しました。襲撃側が使った識別句は、八年前に漏洩した旧版です」


「では、偽装」


「その可能性が高い。外見、言語、標語は証拠に含めません。暗号鍵、弾薬、資金、移動履歴で判断します」


 誰かに似せた衣装は、誰かの命令を証明しない。


 その原則を崩せば、灰環は金を使わず国家同士を撃たせられる。


 アーラシア政府の連絡官は、映像回線の向こうで黙っていた。


 机上に、破壊済み暗号装置の残骸が並んでいる。


 基板は四分割。


 記憶素子は穿孔。


 筐体番号と廃棄立会人の署名。


「我々を疑っているのか」


 連絡官が聞いた。


「疑う対象から外していません」


 ソフィアが答える。


「協力しても?」


「協力は無実の証明ではありません」


「随分な言い方だ」


「公国の装置が使われていれば、公国にも同じ説明をします」


 連絡官は残骸の一つを持ち上げた。


「第十二海外行動群は、八年前の政変で解散した。隊員の一部は国外へ逃げた。政府が全員を管理しているとは言わない」


「十分です」


「無実を認める?」


「確認できないことを、確認できないと認めた点がです」


 国家の潔白は、一枚の紙では証明できない。


 管理できなかった人間と、漏れた鍵と、残った恨みを提出する方が、完璧な否定より信用できた。


 アーラシア側は、旧隊員四十二名の出入国記録を条件付きで開示した。


 三名が灰環事件の資金仲介人と同じ便へ乗っている。


 関与の証明ではない。


 次に見るべき場所にはなった。


     *


 拘束された襲撃班の通信係は、アデル・クローヴァと名乗った。


 三十四歳。


 民間軍事会社を四社渡り歩き、二つは倒産、一つは制裁対象、一つは本人の在籍を否定。


 取り調べ室へ入ると、彼女は砂糖を二つ入れたコーヒーを要求した。


「一つしかありません」


 捜査官が言う。


「人権侵害ね」


「記録しますか」


「甘くないコーヒーは、すでに証拠よ」


 机の向かいへ、シェフチェンコが座った。


「《エウリュディケ》について」


「悲劇の女?」


「船です」


「教養のない依頼人ね」


「あなたの依頼人です」


「私の依頼人は、入金確認番号よ」


「誰が番号を送った」


「自動サーバ」


「誰が標的を指定した」


「別の自動サーバ」


「人間はいない?」


「引き金の前と、死体の後にはいる」


 クローヴァは紙コップを回した。


「その間は、なるべくいない方が安い」


「バルディンを何に使う」


「古い台帳を開ける。消えた貨物を売り直す。戦争が終わると、弾薬は値下がりするから」


「十五人の追加乗員は」


 紙コップが止まった。


「何の話?」


「《エウリュディケ》です」


 初めて、クローヴァの目が動いた。


 それだけだった。


 視線は左下。


 思い出す場所。


 計算する場所ではない。


「十五人は、売り物ではない」


「では」


「鍵を組み立てる人間」


 シェフチェンコは砂糖の包みを一つ、机へ置いた。


「二つ目です」


 クローヴァは見たが、手を出さない。


「取引?」


「いいえ。要求が満たされた記録です」


「その言い方、嫌われるわよ」


「慣れています」


 クローヴァは砂糖をコーヒーへ入れた。


「船内の指揮官は《鐘屋》と呼ばれている。時間にうるさい。人質は殺さない。鍵が揃うまでは」


「揃った後は」


「船と一緒に沈める。沈没事故なら、証言者も貨物も同じ保険で片づく」


「爆薬は」


「船橋と機関室。起爆器は二つ。一つを切って安心する人向けに」


 情報が正しい保証はない。


 砂糖一包みで命を売る者はいない。


 だが、知っていることを少し見せ、こちらがどこまで知るか測る者はいる。


 シェフチェンコは《二系統》だけを記録し、爆薬位置は未確認のまま残した。


「なぜ話した」


「《鐘屋》は私を置いて逃げた」


「復讐?」


「再就職活動」


 クローヴァは甘くなったコーヒーを飲んだ。


「灰環に退職金制度はないの」


     *


 サロージャ貨物駅の所在不明者六人。


 帝国軍需省の暗号管理官三人。


 造兵廠の品質保証技師四人。


 停戦後に消えた通訳一人。


 共同証拠保全委員会の現地調査員一人。


 合計十五人。


 《エウリュディケ》に乗せられている可能性が高い。


 船の一般配置図を取り寄せる。


 全長百三十八メートル。


 冷蔵コンテナ搭載区画、中央甲板。


 機関室は船尾。


 船橋下に非常発電機。


 通常の冷蔵貨物船なら、十五人を隠す場所は多い。


 問題は呼吸だった。


 密閉コンテナへ十五人を入れれば、換気なしで長時間は持たない。


 海上監視無人機のEO/IR画像を、E-7Aが統合作戦室へ中継していた。


 赤外画像を拡大すると、中央甲板の通風機一基だけが夜間も動いている。


 画像が拾ったのは、鋼板の内側ではない。


 通風口から漏れる温気と、その周囲だけわずかに高い外板温度だった。


 外気温は低い。


 積荷目録上、換気を必要とする貨物はない。


「人質区画の可能性」


 イリーナが言う。


「通風機を止められません」


「止めません」


 ペトレンコが答えた。


「爆破回路だけを切りたいです」


「位置不明です」


「なら、船橋と機関室を同時に取る」


 作戦案が、敵の情報より先に形を持ち始める。


 ソフィアは通風機の情報へ信頼度を付けた。


 六十八パーセント。


 人工心臓は設定された流量を崩さなかった。


 代わりに、生身の肺が一度だけ浅くなった。


 機械の部分は感情の一部を隠す。消してくれるわけではない。


 十五人を助けたいという感情が、数字を七十へ丸めないように。


 その二パーセントが、後で武力行使の根拠になる。


 彼らを脅し、分割されていた旧認証手順を一つに戻す。


 誘導装置と信管の移送記録を復元し、残存兵器を買い手へ渡す。


「売却先は」


 ペトレンコが聞く。


「三候補」


 イリーナが表示した。


 コドベニア系商社。


 帝国強硬派の国外拠点。


 国籍を隠した船舶仲介会社。


「確定できない?」


「できません」


「なら、十五人を先に戻します」


 ペトレンコは《エウリュディケ》の位置を開いた。


 同船は進路を北へ変え、速度を十四ノットへ上げている。


 セレニア共和国へ送った照会は、外務省、海運庁、検察庁を回っていた。


 回答なし。


 最も近い連合艦は、二十三型フリゲート《トーベイ》。距離百十二海里。


 空母スヴィターナは南東百九十海里。


 夜明け前には追いつける。


 第八十八特務支援群航空分遣隊は、登録を終えたAC-130Uスプーキー一機を海上監視へ出せると回答した。


 AN/APQ-180と電子光学・赤外線センサーによる長時間追尾。


 火器使用欄は、三つとも灰色だった。


 二十五ミリは船橋を貫く。四十ミリは薄い船殻を裂く。百五ミリは、人質がどの甲板にいるかという質問そのものを消してしまう。


「砲は使いません」


 スペード・ゼロの音声が統合室へ入った。


「こちらは見るだけです。発砲炎、甲板上の移動、通風口の熱差を《トーベイ》へ渡す」


「大砲を積んだ監視機ですか」


 法務官が言う。


「今夜は」


 ボンダレンコが答えた。


「撃たない兵器へ燃料を払うのか」


「十五人を撃たずに連れ戻す費用です」


 スペード・ゼロは平らに返した。


 ボンダレンコは支出を承認した。


 その夜、最も大きな砲を持つ航空機へ与えられた任務は、引き金から手を離して見続けることだった。


「旗国同意がなければ、臨検できません」


 法務官が言った。


「人質の生命が切迫していれば例外があります」


「切迫性の証明がない」


「作ります」


 法務官が顔を上げた。


「証拠を、という意味ですか」


「他に何が?」


 ペトレンコの声は平らだった。


 ソフィアは彼女を見た。


 一年前なら、《旗国へ再照会》で止めた。


 今は、《止めるために足りない条件》を先に数えている。


 結論を決め、根拠を捏造しているわけではない。


 救出できる結論まで、正しい根拠を探し続けている。


 その違いは大きい。


 遠くから見れば、同じ方向へ進む。


 「例外措置の準備だけ先行します」


 ソフィアが言った。


「発動条件を満たさなければ、中止します」


「条件を一覧に」


 ペトレンコが答えた。


 「はい」


 ソフィアは発動条件を七つに分けた。


 人質の存在。


 生命への切迫した危険。


 旗国回答の遅延。


 代替救助手段の不存在。


 必要最小限の武力。


 船体と第三者への危険評価。


 作戦後の即時審査。


 ペトレンコは一覧を読み、最初の二つへだけ赤い枠を付けた。


「ここが成立したら、残りは走りながら確認します」


「七つ揃うまで待ちませんか」


 法務官が聞く。


「七つ目は作戦後です」


「そういう意味では」


「分かっています」


 彼女は目標船までの残り時間を見た。


 数字が減るほど、声は静かになった。


 怒鳴る指揮官より扱いやすい。


 扱いやすいから、周囲は彼女へ判断を預ける。


 ソフィアは画面の隅へ、《勧告者と実施指揮官を分離》と追記した。


 止めるためではない。


 正しく走る人間ほど、ブレーキの位置を先に決めておく必要があった。


 反対ではない。


 賛成を、後で検証できる形へするためだった。


 《エウリュディケ》は夜の海を進む。


 灰環戦線の依頼人は、まだ名前を持たない。


 十五人の名前だけが、船内にあった。

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