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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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第八十七話 歓声の使い道



 オレグ・バルディンが法務省庁舎へ戻る時、正面玄関は使わなかった。


 地下搬入口。


 窓のない装甲車。


 国家憲兵二個班。


 公国近衛護衛班。


 医療車。


 空にはラファールC二機。


 救出された男の帰還としては、歓迎が足りない。


 被疑者の再収容としては、豪華すぎた。


「花束は」


 バルディンが聞く。


 同乗したシェフチェンコ外務卿が答えた。


「法廷で検察官が用意しています」


「色は」


「証拠番号の黒です」


 彼は窓のない壁を見て笑った。


 笑えるうちは、まだ証言できる。


 装甲車が地下へ消えた後、地上では十一台の霊柩車が出発した。


 同じ襲撃から戻った者たちだった。


 片方は証言台へ。


 片方は家へ。


 車列の間隔は警備上二十メートル。


 沿道の市民は、最初の一台へ花を投げた。


 二台目からは投げなかった。


 花が車道へ散り、後続車の進路を塞ぐと警官に教えられたからだ。


 代わりに、手に持ったまま頭を下げた。


 シェフチェンコは地下の監視画面でそれを見た。


「会見は延期しますか」


 広報官が聞く。


「しません」


「祝勝会に見える」


「勝った部分と、失った部分を同じ日に説明します」


 悲しみが終わるまで政治を待てば、政治は何も決めない。


 政治を急ぐため悲しみを隠せば、誰のための決定か分からなくなる。


 十一台が広場を出るまで、会見開始だけを十一分遅らせた。


     *


 市民は、地下搬入口のことを知らなかった。


 彼らが見たのは、午後の共同記者会見だった。


 大公夫妻。


 ヴァローニュ内務相。


 国家憲兵の負傷者代表。


 救出作戦へ参加した港湾警察官。


 リーチスタッカーを操縦したミレイユまで、作業服のまま壇上へ呼ばれた。


「窓の請求書は、どこへ送れば?」


 記者が聞く。


「共同緊急勘定」


 ボンダレンコが壇下から答えた。


 会場に短い笑いが起きる。


 ミレイユはマイクへ近づいた。


「次は防弾ガラスにして」


 笑いが少し大きくなる。


 その後ろには、死亡者十一名の写真が並んでいた。


 誰も、笑いを長く続けなかった。


 ヴォロディミルは作戦結果を読み上げた。


 元軍需相一名を奪還。


 襲撃関係者十一名を拘束。


 誘導装置と信管の所在を追跡中。


 公国側が先行した河川操作と捜査支援は、ヴァローニュ政府の審査対象。


「事後承認されたのでは」


 記者が聞く。


「運用は承認されました。適法性の検証は別です」


「成功したのに?」


「成功は、手続を正しくしません」


 群衆の空気が少し冷えた。


 拍手を求めるなら、もっと簡単な答えがある。


 ヴォロディミルは知っていた。


 それでも言う。


「ただし、手続の遅れで人を見捨てるつもりもありません。次に同じ選択を現場へ押し付けない規則を作ります」


 今度の拍手は、大きかった。


     *


 会見後、法務省前の広場で市民が待っていた。


 最初は、負傷者の名を呼んだ。


 次にミレイユ。


 港湾警察。


 国家憲兵。


 最後に、大公夫妻。


「ヴォロディミル!」


「ペトレンコ!」


 異国の首都で、公国の名が叫ばれる。


 警護班は正面玄関を避けるよう勧めた。


 ヴォロディミルは十秒だけ広場へ出た。


 片手を上げる。


 歓声が揃った。


 誰かが指揮したわけではない。


 彼が立っただけで、何千人もの声が一つになる。


 恐ろしい、と最初に思った。


 次に、使えると思った。


 その順番を、彼は忘れなかった。


 広場の端では、別の横断幕も上がっていた。


 《救出に感謝する》


 その隣に、《公国へ首都を渡すな》。


 同じ家族が、二枚を持っている。


 父親は感謝の横断幕。


 娘は反対の横断幕。


 警備官が撤去しようとすると、ヴォロディミルは止めた。


「両方残せ」


「動線を塞ぎます」


「半歩下げてもらえ」


 彼が手を上げる。


 父親が拍手し、娘は拍手しなかった。


 その一人が目についた。


 何千人の歓声より、拍手しない手の方が、後で必要になる。


 そう思えた自分に、まだ少し安堵した。


「殿下」


 ペトレンコが袖を引いた。


「十秒です」


「もう?」


「十四秒経過」


「夫への配慮は」


「あります。生きている夫だけが対象です」


 彼は建物へ戻った。


 群衆は、扉が閉じた後も名を呼んでいた。


     *


 その夜、ヴァローニュ議会は緊急審議を開いた。


 議題は《共同救命調整措置》。期限三十日。


 多国籍事件で人質、生存者、消失危険のある証拠が確認された場合、公国の統合室は二十分以内の優先行動を各国組織へ勧告できる。


 命令ではない。


 拒否は可能。


 ただし拒否理由と時刻を共同記録へ残す。


 賛成派は、八十四人の退避とバルディン奪還を挙げた。


 反対派は、外国政府への権限集中を挙げた。


 野党議員マルタ・ヴァレルは、大公夫妻を証人席へ呼んだ。


「あなた方が優秀であるほど、この法律は危険です」


「同意します」


 ヴォロディミルが答えた。


 議場がざわめく。


「では反対を?」


「賛成します」


「矛盾しています」


「人を助けるために必要で、権力を集めるから危険です。片方だけ言う方が矛盾しています」


「三十日後、延長を求めないと誓えますか」


「誓いません」


 今度は与党席もざわめいた。


「必要なら延長を提案します。その時は、今日の成功ではなく、三十日分の失敗と濫用を含めて審査してください」


「あなた自身が指揮を執る?」


「実務調整は大公妃殿下。私は政治責任を負います」


「夫婦で権力を分けると」


 ペトレンコが答えた。


「分けません。記録を二人分残します」


 議場の笑いは、今度は乾いていた。


     *


 審議は六時間続いた。


 途中、河川局の技師も証言した。


「堰を下げる命令は、法的には誰から受けたのですか」


 野党議員が聞く。


「命令としては、誰からも」


「では、なぜ操作した」


「ペトレンコ大公妃が、従うかは私が決めろと言った」


「自由意思だった?」


 技師はしばらく黙った。


「十九分後に人質が消えると言われた後の自由です」


 議場が静かになる。


 救命の言葉は、銃より弱い。


 その場にいる人間へは、時に銃より断りにくい。


 ペトレンコは証人席で、自分の発言を否定しなかった。


「次回も同じ言い方をしますか」


「同じ条件なら」


「圧力になったと認めても?」


「認めます。だから、個人の言い方ではなく規則へします」


「権力を制度化する?」


「圧力を見える形にします」


 議員は満足しなかった。


 満足させる答えではなく、記録へ耐える答えが必要だった。


 採決前、各会派が最後の発言を始める。


 同じ論点が繰り返される。


 時間だけが過ぎる。


 《エウリュディケ》は海峡へ進んでいる。


 ヴォロディミルは議長へ発言を求めた。


「反対する権利を、急ぐために削るつもりはありません」


 議場が静かになる。


「ただし、船も待ちません。審議を続けるなら、午前四時までに採決してください。間に合わなければ、公国部隊は公国の権限だけでできることをします」


 脅迫ではない。


 事実だった。


 その事実を彼が言うと、反論が止まった。


 止められたことに安堵した。


 安堵した自分へ、さらに不安を覚えた。


 採決は、賛成五百十二、反対二百三十六、棄権四十一。


 期限三十日。


 七日ごとの公開報告。


 死傷者または主権侵害が生じた場合、臨時審査。


 共同救命調整措置は成立した。


 同じ草案は、その夜のうちに参加国へ送られた。


 《トーベイ》の所属国を含む六か国が、三十日間の暫定行政命令で参加。


 二か国は情報共有だけを承認。


 残る国は議会審査へ回した。


 多国間議定書が整う前に、同じ勧告書式と拒否記録だけが先に動き始めた。


 法は一枚になっていない。


 時計だけが、同じ時刻を示すようになった。


     *


 控室で、ペトレンコはヴォロディミルの袖から小さなガラス片を抜いた。


 会議場襲撃の破片だった。


「まだ付いていたのか」


「警護検査が甘いです」


「私の服に対して?」


「あなたに対して」


 彼女はガラス片を証拠袋へ入れた。


「議場が黙った時、少し嬉しかった」


 ヴォロディミルが言う。


「時間を短縮できたからですか」


「私の言葉で黙ったからだ」


 窓の外では、雨上がりのアルシェールが鈍い鉛色に沈んでいた。割れた会議場の窓を覆う防水布が風を孕み、遠くで修復用のハンマーが石壁を叩く。控室には濡れた外套、古い暖房管、証拠袋へ残った硝煙の匂いがこもっていた。


 机上の議決書は厚かった。


 五百十二人の賛成は、紙にすれば数ミリに過ぎない。それでもヴォロディミルが持ち上げると、角が指へ食い込んだ。人の声が一斉に止まり、自分の声だけが残る瞬間は、拍手より鋭い。その鋭さを心地よいと思ったことが、傷より遅れて痛んだ。


 ペトレンコは否定も慰めもしなかった。


「記録しておいてくれ」


「どこへ」


「私が忘れない場所」


「では、私が覚えます」


「怖いな」


「必要です」


 彼女は彼の袖を直した。


「拍手しなかった娘を見ましたか」


 ヴォロディミルが聞く。


「はい」


「少し安心した」


「歓声を喜んだ後で?」


「順番まで覚えているのか」


「覚えると言いました」


「君へ嘘をつくのは難しい」


「簡単だと思っていたのですか」


「新婚だから、少しくらいは」


「提出前に矛盾を検出します」


 彼は彼女の右手を取り、指先へ短く口づけた。


「これは記録する?」


「私的附属書へ」


「公開期限は」


「永久非公開です」


 ようやく、彼は少し笑った。


 広場の歓声は、厚い窓を通してもまだ聞こえていた。


 使えば人を救える。


 使い続ければ、誰が誰を動かしているのか分からなくなる。


 王冠は、その両方によく似合った。


 翌朝の新聞は、彼の告白を知らない。


 《大公、反対派を説得》


 《公国式危機管理を採用》


 《異国の王冠が首都を救う》


 見出しは、議場で迷った時間を削っていた。


 拍手しなかった娘の姿は、一紙だけが小さく載せた。


 ヴォロディミルはその切り抜きを、称賛記事の上へ置いた。


 広報官は理由を聞かなかった。


 王は歓声を集める。


 統治者は、歓声の外に残った声を失わない。


 今の彼は、まだ両方であろうとしていた。

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