第八十六話 一つの画面
オレグ・バルディンが差し出したのは、鍵ではなかった。
十六文字の記憶だった。
帝国軍需省が停戦直前まで使っていた認証句。
端末へ入力すれば警報が上がる。
紙へ書けば、保管責任者が増える。
彼は医療区画のベッドで、ソフィアへ一文字ずつ読み上げた。
ソフィアは復唱しない。
バルディンの枕元では心電図が波を描き、ソフィアの腰へ留めた保守端末では人工心臓のポンプ回転数が数字で流れていた。
同じ医療区画にいる二人のうち、胸の中で生身の心臓が動いているのは負傷者の方だった。
遮音された室内で、二台の記録装置へ別々に入力する。
一台は公国証拠保全班。
一台はヴァローニュ司法官。
両者の時刻証明が一致した時だけ、暗号句は証拠として封印された。
「面倒だな」
バルディンが言う。
「あなたが面倒を省いた結果、二百十二基が消えました」
「耳が痛い」
「左耳は負傷しています。右耳で聞いてください」
彼は笑い、縫合された頬を押さえた。
「噂より性格が悪い」
「人工心臓に性格調整機能はありません。噂の出所を提出してください」
*
旧認証句は、単独では何も開けなかった。
軍需省の保管サーバは、皇帝府の接収時に記憶装置を抜かれている。
バックアップは三種類。
紙の受払台帳。
造兵廠ごとの部品検査記録。
鉄道省が保存していた貨車重量。
所属も書式も保存年限も違う。
ソフィアはアルシェールの臨時統合室へ、六組織の端末を並べた。
軍需省台帳。
帝国鉄道の貨車記録。
北方三国が押収した通関票。
アーラシア政府から届いた暗号装置処分記録。
ヴァローニュ警察の車両追跡。
公国軍の戦場回収品目録。
同じ物に、六つの名前が付いている。
端末をネットワークへ直結することはできなかった。
帝国軍需省の旧端末には、現在も起動する破壊命令が残っている可能性がある。
ソフィアは記憶装置を複製し、一方向通信装置を挟んだ。
旧端末から統合室へは送れる。
統合室から旧端末へは一ビットも戻せない。
「入力は?」
バルディンが聞く。
「物理キーボードを別回線で接続します」
「面倒だ」
「二度目です」
「何が」
「同じ感想です。三度目は記録から省略します」
認証句を入れる。
画面に、古い灰色のメニューが現れた。
受払。
検査。
廃棄。
特別移管。
バルディンは《特別移管》へ手を伸ばし、途中で止めた。
「私が触れば、証拠能力を争われる」
「学習しましたね」
「被告席は教育に向いている」
ヴァローニュ司法官が操作する。
一覧には、品名がない。
英数字十二桁と、重量と、温度条件だけ。
国家が隠したかったのは兵器ではなく、誰が隠したかだった。
コードは担当部署ごとに分割され、全体表は皇帝府だけが持っていた。
バルディンの記憶は、その欠けた一列を戻した。
誘導制御部。
航空計器予備品。
工業用慣性装置。
冷却ポンプ制御器。
重量は同じ。
梱包寸法も同じ。
「名前を信用しないでください」
ソフィアが分析班へ言う。
「重量、電力規格、耐衝撃等級、保管温度で照合します」
言葉は国境を越えるたび変わる。
ボルト穴の間隔は変わらない。
*
イリーナが《スティナ》の検索層へ、新しい照合式を入れた。
「一致率八十六パーセント以上を同一候補とします」
「低いです」
「九十五にすると、意図的に数字を丸めた記録が落ちます」
「誤検出は」
「千四百件」
「人間が死にます」
「検索対象を分けます」
イリーナは反論せず、候補を三層にした。
即時捜査。
追加資料待ち。
統計上の異常。
「これで?」
「人間は少し長く生きます」
「あなた、最近ますます姉上に似ています」
「不具合ですか」
「継承仕様です」
二人は画面から目を離さなかった。
午前十一時十三分、最初の一致が出た。
誘導制御部二十四基。
帝国軍需省の台帳では、ロドネフ南部の航空基地へ出荷。
鉄道記録では、途中の貨物駅で車両重量が十三・八トン減っている。
同じ日の通関票には、ヴァローニュ向け冷却設備十三・六トン。
差は二百キロ。
木箱と緩衝材の重量だった。
同じ条件で、第二候補も出た。
信管八十個。
積替先はアルシェール郊外の医療機器工場。
国家憲兵は即時捜索を求めた。
ソフィアは止めた。
「工場の電力規格を確認してください」
「急ぐのでは」
「急いで違う扉を壊すと、本当の扉が閉じます」
医療機器工場は、放射線治療装置用の慣性架台を製造していた。
重量と耐衝撃等級が一致。
温度条件も同じ。
輸送記録は正規。
誤検出だった。
「検索式を変えますか」
イリーナが聞く。
「変えません。誤り方を記録します」
正解だけを出す装置はない。
間違った時に、なぜ間違ったか残す装置なら作れる。
統合室が権限を持つほど、その記録は重要になる。
一つの誤検出で工場を武装捜索していれば、制度は最初の週に敵を増やしていた。
「積み替え地点を」
「帝国内のサロージャ貨物駅」
「映像は」
「ありません」
「勤務者名簿」
「九人。うち六人が所在不明」
白い点が、また増えた。
*
午後、十二か国の治安機関が会議を開いた。
議題は、情報統合室の存続。
現行許可は、襲撃対応終了まで。
襲撃は終わったと主張する国もある。
元軍需相は奪還。
会議区の安全も回復。
残るのは捜査であり、緊急事態ではない。
「捜査へ軍の状況図を残すことに反対します」
ある国の内務次官が言った。
「対象者の移動履歴から、情報機関の配置が推定される」
「推定されます」
ソフィアは認めた。
「では削除を」
「削除すれば、六人の所在不明者を探せません」
「公国がすべてを見る必要はない」
「ありません」
ソフィアは画面を切り替えた。
各国は元データを保持する。
統合室へ送るのは、位置、時刻、信頼度、連絡可否。
氏名や所属は、緊急条件が成立するまで仮名化。
閲覧記録は参加国すべてへ複製。
公国側が検索すれば、その検索自体が相手国へ見える。
「見える権限にします」
「公国も監視される」
「そのための設計です」
権限を集めるなら、観察する目も集める。
それが今の安全装置だった。
今は。
*
議論中、警報が入った。
アンバー海南西部を航行する冷蔵貨物船。
船籍はセレニア共和国。
船員名簿二十二名。
港湾監視画像では、出港時に少なくとも三十七名が乗船している。
十五人分が消えていた。
積荷は医療用冷却設備。
総重量、百六十四トン。
バルディンの台帳から消えた誘導装置と信管を、同じ梱包で積める数字だった。
さらに、所在不明となったサロージャ貨物駅勤務者六人のうち一人が、出港監視画像に写っていた。
「現在位置は」
「アルビオン海峡へ向けて北西進。十二時間後に公海」
「旗国へ照会」
「送信済み。回答待ち」
「船へ通信」
「機関故障を理由に拒否」
内務次官が統合画面を見る。
会議を終わらせる理由と、画面を残す理由が同時に表示されていた。
さらに、アルシェール空港の給油記録が警告を出した。
《エウリュディケ》の船舶代理店が、二日前に航空燃料四千リットルを購入している。
船は航空機を運用しない。
購入先は、H225Mが離陸した軍用区画と同じ契約業者。
給油車の運転手は、襲撃当日から所在不明。
海と空の事件が、一つの請求番号でつながった。
誰かが「偶然」と言った。
誰かが「証拠」と言った。
ソフィアは両方を退けた。
「一致です。意味はまだ確定していません」
確信を急げば、画面は便利な物語を作る。
物語は命令より速い。
だから表示の横へ、信頼度六十二パーセントと付けた。
内務次官は、その数字を見てから尋ねた。
「存続期間は」
「三十日」
ソフィアが答えた。
「長い」
「七日ごとに更新審査。閲覧権限は事件ごとに失効」
「指揮権は」
「移しません」
「また、その言い方か」
「表示は命令ではありません」
内務次官は《エウリュディケ》の針路を見た。
「だが、全員が同じものを見れば、同じ人間の言葉を待つ」
ソフィアは否定しなかった。
その危険は、設計書に書ける。
書いても、必要性までは消えなかった。
統合室の存続は、賛成九、条件付き賛成三で可決された。
六つの端末は、一つの画面を映し続けた。
存続決定から二十分後、統合室は最初の誤配信を起こした。
所在不明者一名を、二つの国が別の仮名で登録していた。
画面上では二人。
実際には一人。
捜索班が二方向へ出発しかけた。
ソフィアは顔写真を共有せず、身長、古傷、所持薬、最後の通信時刻で重複を判定した。
同一可能性九十三パーセント。
「一人を二人として探す方が安全では」
連絡官が言う。
「二班を使えば、別の一人を探せません」
重複を統合し、元データは消さない。
どの国がどの仮名を付けたかも残す。
画面を一つにすることは、正解を一つにすることではなかった。
違う記録を、互いに見える距離へ置くことだった。
重複解消から四分後、空いた捜索班は別の宿泊施設へ向かった。
地下駐車場で、失踪した給油車運転手の私物を発見する。
着替え。
現金。
セレニア共和国の船員証。
写真は、運転手本人だった。
一つの点を減らしたことで、別の線が海へ伸びた。
画面右端には、新しく登録された航空分遣隊の欄があった。
AC-130U二機。
機体状態は緑。任務乗員は一機分だけ黄。交戦権限は灰色。
ソフィアは灰色を緑へ変えなかった。
飛べることと、使えることは違う。使えることと、撃ってよいことも違う。機械は命令された色を表示する。人間は、都合のよい色だけを見ようとする。
彼女は《センサー支援のみ》の注記を追加し、二十五ミリ、四十ミリ、百五ミリの火器欄を個別に施錠した。
「鍵が多すぎませんか」
隣の連絡官が聞く。
「大砲が三つあります。鍵も三つ要ります」
ソフィアの人工心臓は一定の拍動を刻み、生体の肺は浅い疲労を返していた。人工肝臓の処理負荷が上がる。腹部のストーマ周辺に引きつれが出ても、彼女の指は権限欄を一つずつ閉じた。
画面の中央で、《エウリュディケ》だけが海へ向かって動いていた。




