第八十五話 明日の燃料
戦闘が終わると、最初に届くのは勲章ではなかった。
請求書だった。
旧穀物埠頭の損害。
リーチスタッカーの防護ガラス。
二十フィートコンテナ一基。
上流堰の緊急操作。
港湾警察艇の燃料。
国家憲兵隊員一名の手術費。
会議区の死者十一名に対する一次補償。
シェレメートのSu-35BMは、機体回収だけで大型クレーン二台を使った。
ボンダレンコ財務卿は、午前九時の机へ積まれた請求書を見た。
「勝った後の方が、数字が増える」
ヴァローニュ財務省の次官が答える。
「負ければ請求する人間がいなくなります」
「なるほど。財政再建の最終手段だ」
「採用しないでください」
「倫理委員会へ回す」
笑う者はいなかった。
死者の一覧が、同じ机にあった。
冗談は数字へ向ける。
名前へは向けない。
*
問題は、誰が払うかだった。
会議場はヴァローニュ共和国。
襲撃の標的は十二か国の代表団。
追跡を主導したのは公国。
使用した航空機はヴァローニュ空軍。
水上封鎖はアルシェール港湾警察。
証拠の保管先は、公国、ヴェルニア、アンバー海上の三か所。
誰も無関係ではない。
全員が関係者なら、全員が自分の財布を守ろうとする。
請求書の裏には、別の時間が流れていた。
病院は治療開始前に支払国を待てない。
燃料庫は、外交照会が終わるまでポンプを回してくれない。
民間クレーン会社は、国家元首の署名より前金を信用する。
旧穀物埠頭で使ったリーチスタッカーは、翌朝の貨物列車からコンテナを降ろす予定だった。
修理が遅れれば、戦闘と無関係な食料輸送が止まる。
「戦争被害へ分類しますか」
次官が聞く。
「物流維持」
「窓ガラス一枚を?」
「窓がなければ運転手が乗らない。運転手が乗らなければ港が止まる」
「分類が広い」
「因果が長い」
ボンダレンコは、請求書の一番下へ優先度を付けた。
人命。
戦闘継続。
民間物流。
設備復旧。
外観。
会議場の大理石壁は、最後だった。
銃弾を受けた壁を先に直せば、政治家は安心する。
燃料ポンプを先に直せば、次の航空機が飛ぶ。
予算は、国家がどちらを怖がっているかを正直に示した。
「通常の相互精算では六か月」
次官が言う。
「明日の燃料は」
「各組織が立替」
「立替枠を使い切った組織は」
「活動を縮小します」
灰環戦線が望むのは、まさにそれだった。
一回の攻撃で国家を倒せなくても、十二の財布を別々に空にすればよい。
警察は弾薬を買えず、航空隊は飛行時間を削り、検察は翻訳者を解雇する。
次の襲撃は、そこへ来る。
「共同緊急勘定を作る」
ボンダレンコが言った。
「条約が必要です」
「口座を作るのに、国家を作る必要はない」
「拠出根拠がない」
「既存の証拠保全委員会予算へ、救命・追跡費を追加する。期限七十二時間。支出上限を置く。監査人は三者」
「七十二時間後は」
「閉じる」
次官は彼の書式を見た。
月次欄が十二か月分ある。
「閉じる口座に、なぜ年間欄が」
「印刷所の都合だ」
「公国の印刷所は、未来をよく知っている」
「財務官は未来を信用しない。だから欄だけ作る」
*
正午、ヘーチマン社の車列がアルシェール空港へ入った。
MAN HX77燃料輸送車二台。
Bergepanzer 2回収車。
移動式発電機四基。
野外整備コンテナ。
車体の色は揃っていない。
砂色、濃緑、灰色。
国籍を消した跡だけが同じだった。
マゼパは車列の先頭から降り、ボンダレンコへ端末を差し出した。
「空港燃料ポンプの代替です。Su-35の回収、H225M捜索班の給油、会議区の非常電源。四十八時間分」
「誰が頼んだ」
「頼まれる前に不足表が来ました」
「請求先は」
「決まっていません」
「善意か」
「前払いのない善意は、会社を潰します」
マゼパは死亡補償条項を開いた。
「社員が死んだ場合、遺族へ直接。国籍による差なし。回収車を失った場合は時価。戦果加算は不要」
「随分まともだ」
「まともな契約は、まともでない仕事に必要です」
ヘーチマン社は英雄を売っていない。
動く燃料と、戻らない社員の値段を売っていた。
車列最後尾には、装甲のない小型バンが一台あった。
荷室には新品の作業服十二着、工具箱、封筒十二通。
「封筒は」
「遺族連絡票です」
マゼパが答えた。
「出発前に書かせたのか」
「空欄で出す会社もあります。うちは本人に書かせる」
「嫌われるだろう」
「帰った時は笑い話になります」
「帰らなければ」
「住所を探す時間が減る」
マゼパは十二通を施錠箱へ戻した。
死を予告しているのではない。
死が起きてから、事務のせいで遺族を待たせない。
会社と国家の違いは、旗の有無だけではなかった。
同じ責任を、どこまで先に書類へ置けるかだった。
「共同緊急勘定から払う」
「まだありません」
「今、できる」
「便利な国ですね」
「便利な財務卿だ。国まで褒めるな」
格納庫の奥で、四基のターボプロップが低く回り始めた。
普通のC-130なら、胴体左側にあの膨らみはない。
防炎布が外されると、古いガンシップの横腹が午後の光へ出た。機首近くにGAU-12/U二十五ミリ機関砲。主翼後方にL/60四十ミリ・ボフォース。さらに後ろへM102百五ミリ榴弾砲。砲身の周囲だけ、長い保管年月を隠せない油焼けが残っている。
二機は降着装置に自重を預けていた。
三機目はエンジンを二基外され、尾翼の下で部品札をぶら下げている。
黒い飛行服の男が書類箱を抱えてきた。
「スペード・ゼロ。第八十八特務支援群航空分遣隊」
「聞いていない」
ボンダレンコは答えた。
「正式名は今決まりました。旧内部識別はJED-88」
「機体を買った請求書には見えないな」
「購入ではありません。退役保管機三機の再生・運用費です」
書類の表紙には、AC-130U三機とある。
稼働可能二機。
部品供給用一機。
AN/APQ-180火器管制レーダー、電子光学・赤外線センサー、二十五ミリ、四十ミリ、百五ミリ。機体だけなら空を飛べる。乗員、弾薬、整備、法的所属、飛行許可、交戦規定がなければ、重い金属の倉庫だった。
ボンダレンコは購入価格ではなく、月間燃料消費の欄から読んだ。
「一時間飛ばすたび、空港の非常電源が何日分消える」
「積載と待機高度によります」
「答えになっていない」
「質問が財務です」
「戦争は、最後に全部財務になる」
次の頁。
二十五ミリ給弾系の予備部品は不足。四十ミリ砲弾は複数のロットが混在。百五ミリ砲の駐退復座機は一機分だけ新品。飛行乗員は二組半。RCS、FCO、TV-OPを含む任務乗員は、二機同時運用で余裕がない。
ボンダレンコの指が、二十五ミリ給弾機構の図で止まった。
「この機構は、弾帯のねじれを検知して自動停止する」
スペード・ゼロが彼を見る。
「なぜ知っている」
「暇つぶしに整備資料を読んだ」
「財務卿の暇を国家機密へ近づけないでください」
「では、機密の方から請求書を持ってくるな」
マゼパが横から機体を見上げた。
「何を撃つつもりだ」
「今は何も」
スペード・ゼロは答えた。
「市街地、第三国領海、人質の近傍では全砲使用禁止。開けた戦場でも、地上誘導と二重承認がない限り撃たない。先に使うのは滞空時間と目だ」
「大砲を三つ積んで、目として売るのか」
「撃たずに見続ける方が高くつく夜もあります」
ボンダレンコは別紙を引いた。
「機体番号、乗員名簿、死亡通知先、保険、弾薬管理責任者、交戦規定。全部埋めろ。海賊の大砲へ国費は出せない」
「七十二時間で?」
「飛ばしたいのは、そちらだ」
スペード・ゼロは書類箱を閉じた。
「一機目は二十四時間で登録します」
「二機目は」
「四十八時間」
「三機目は」
「飛びません。二機を帰すために、地上で少しずつ死にます」
格納庫の奥で、部品取り機の外板が工具に叩かれた。
乾いた音だった。
国家が新しい翼を得る音ではない。
古い一機から、まだ使える時間を剥がす音だった。
*
午後二時、十二か国の財務担当者が映像会議へ入った。
共同緊急勘定。
管理主体は共同証拠保全委員会。
事務局はキミロフ。
決済口座はヴァローニュ中央銀行。
監査複製はヴェルニア。
一件五百万を超える支出には三者承認。
救命・燃料・医療・証拠保全は、事後二十四時間以内の承認を認める。
「公国が支出順位を決めるのか」
北方三国の代表が聞く。
「緊急時だけです」
ボンダレンコが答えた。
「緊急の定義は」
「人が死ぬ、証拠が消える、航空機が落ちる。三つです」
「広すぎる」
「戦争が狭くない」
「期限七十二時間は短い」
「長ければ、皆さんは署名しない」
沈黙の後、ヴァローニュが最初に署名した。
北方三国が続く。
海上連合の二か国。
合計八か国が拠出へ同意した。
残る四か国は、利用のみ認めた。
「払わず使うのか」
ボンダレンコが言う。
「同盟らしくなってきた」
利用だけを選んだ四か国へ、ボンダレンコは拒否通知を出さなかった。
代わりに、利用額を国別に公開する条項を追加した。
「恥を使って払わせる?」
ヴァローニュ次官が聞く。
「透明性だ」
「財務官の言う透明性は、拷問器具に似ていますね」
「血は出ない」
「予算担当者からは出ます」
二時間後、未拠出国の一つが最低額を振り込んだ。
もう一国は、現金の代わりに航空燃料六百トンを提供した。
ボンダレンコは両方を同じ価値へ換算しなかった。
金は輸送できる。
燃料は、そこにある時だけ価値がある。
共同勘定へ、現物拠出の場所と利用期限を追加する。
帳簿が一列増えた。
戦争を続けられる日数も、一日増えた。
*
夜、ペトレンコは支出状況を確認した。
空港燃料ポンプの修復部品、発注済み。
シェレメート機の移送、完了。
負傷者十九名の治療費、仮払い。
死亡者十一名の遺族連絡担当、指定。
港湾追跡班の燃料、三日分。
共同緊急勘定の残高は、開設四時間で当初見込みの三倍になっていた。
「七十二時間後に閉じますか」
ソフィアが聞いた。
腕端末の隅には、会計画面とは別の診断窓が開いていた。
人工心臓ポンプ回転数、人工肝臓の代謝負荷、内部電源残量。
最後の全系統点検から二十七時間。
「規程どおりなら」
ボンダレンコが答える。
「規程を更新する提案が、五か国から来ています」
「臨時制度は、成功すると最も廃止しにくい」
「反対ですか」
「便利すぎる制度には、反対者が必要だ」
「あなたがなりますか」
「私は会計を作った。放火犯に消防監査をさせるな」
ペトレンコがソフィアの診断窓を見る。
「あなたの点検期限は」
「五時間後です」
「制度より先に閉じないでください」
「制度には代行者がいます」
「あなたにもいます。使ってください」
ソフィアは三秒考え、保守予約を繰り上げた。
彼は年間欄のある書式を閉じた。
ペトレンコは燃料残量の表示を見る。
昨日まで、航空隊ごとに別の色だった。
今は一つの合計値が出ている。
「明日は飛べます」
「そのための金だ」
「明後日は」
ボンダレンコは答えなかった。
代わりに、七十二時間後の欄へ細い線を引いた。
線の向こうにも、数字を書ける余白があった。
深夜、ボンダレンコは机へ一人残った。
支出承認の最後に、死者十一名の一次補償が並ぶ。
金額は同じ。
家族構成は違う。
通貨も違う。
ある警備官には三人の子供。
ある通訳には老いた母。
独身の整備員には、通知先が空欄だった。
空欄を理由に支払いを止める規則はある。
空欄のまま放置してよい規則はない。
彼は調査担当を指定し、自分を承認者へ入れた。
財務卿が夜中に遺族の住所を探す国家は、制度として未熟だった。
それでも、誰も探さない成熟国よりはましだった。
年間欄の最初の月へ、十一人分の数字が入った。
臨時口座は、最初の夜から未来を使い始めていた。
ボンダレンコは書式の最終頁へ、自動失効条項を入れた。
七十二時間後、未承認の支出権限は停止。
残金は拠出比率で返還。
延長には参加国の三分の二と、外部監査官一名の署名。
「自分で作って、自分で閉じるのですか」
次官が聞く。
「閉じる錠を付けない金庫は、金庫じゃない」
「延長欄を十二か月分作った人の台詞ではない」
「鍵と蝶番は両方要る」
彼は失効時刻を午前零時ではなく、開設から正確に七十二時間後へ設定した。
官庁は日付で働く。
敵は分で働く。
ならば会計も、分で止まる必要があった。
送信前に、彼は年間欄を消さなかった。
制度を終わらせる準備と、続ける準備を同じ書類へ入れる。
矛盾ではない。
国家が、その時どちらを選ぶか逃げられないようにするためだった。




