第八十四話 取り戻した男
旧穀物埠頭には、穀物がなかった。
錆びたサイロ。
動かないベルトコンベア。
川面へ突き出した積込桟橋。
その下へ、小型艀が一隻隠れている。
船名は塗り潰され、船尾の登録番号だけが新しい。
満潮まで三十二分。
水位が上がれば、艀はサイロ下の水門を抜けて本流へ出られる。
さらに下流十四キロで、河川は商港へ開く。
そこで船を替えられれば、捜索対象は百隻を超える。
沿岸へ出れば、夜明けの入港船と混ざる。
止められる場所は、旧穀物埠頭だけだった。
作戦図には赤い線が三本引かれている。
艀の推定航路。
地上班の進入路。
民間作業員の退避路。
四本目はない。
失敗した場合の追跡線を描けば、現場が逃走を許容するとサンソンが嫌った。
「逃げた後も要る」
港湾警察の指揮官が言う。
「必要なら、あなたが描け」
「縁起を担ぐのか」
「違う。俺は中へ入る。失敗後を考える人間は外に残せ」
役割を分けただけだった。
それでも、作戦卓から後退線を消す指は、少し強すぎた。
アルシェール港湾警察は、上流と下流へ巡視艇を置いた。
国家憲兵特別介入群は、陸側の倉庫へ展開。
第八十八特務支援群は、隣接するコンテナ置場から監視する。
公国近衛護衛班は、バルディンの身柄を確認した後の移送担当。
「見つける前から、取り分だけ決まってる」
ロマネンコが言った。
「犯罪者の発想だな」
サンソンは双眼鏡を下ろさない。
「港の発想だ。犯罪者はもっと正直だ」
雨が降り始めた。
サイロの金属壁を細かく叩く。
無線へ、ペトレンコの声が入った。
『バルディンの生存を確認するまで、艀への射撃禁止。水門は港湾警察が閉鎖します』
「水門管理室は」
サンソンが聞く。
『応答なし。第八十八群が向かっています』
「また、地図にない扉か」
ロマネンコは笑わなかった。
「今夜は扉が多い」
*
午前四時十二分。
艀の機関が始動した。
排気がサイロ下へ溜まり、黒い煙が雨へ押し出される。
同時に、コンテナ置場の照明が消えた。
暗闇でフォークリフトが一台動く。
無灯火。
長い爪へ、空の二十フィートコンテナを載せている。
「囮」
サンソンが言った。
「いや、扉だ」
ロマネンコには、行き先が分かった。
コンテナを進入路へ落とせば、装甲車は埠頭へ入れない。
彼は荷役会社の共通周波数へ切り替えた。
「二十三号リーチスタッカー、聞こえるか」
返答なし。
百メートル先に、巨大な荷役車が止まっている。
エンジンは掛かっていた。
「誰が乗っている」
『夜勤のミレイユだよ。あんた誰』
「今からフォークリフトへコンテナを落とせ」
『市の指示は退避よ』
「退避路を作る。黄色い箱を持ち上げて、俺の合図で前へ出せ」
『積荷は?』
「空だ」
『空なら請求書は安いね』
リーチスタッカーの作業灯が点いた。
六十トンの車体が動く。
ブームが伸び、黄色いコンテナを掴んだ。
フォークリフトの運転手が気づく。
荷台を回し、短機関銃を窓から撃った。
九ミリ弾がリーチスタッカーの防護ガラスへ白い花を作る。
『窓代、高いよ!』
「請求先は後で教える!」
ロマネンコが叫ぶ。
黄色いコンテナが振り子のように動き、フォークリフトの進路へ落ちた。
鋼鉄同士がぶつかる。
フォークリフトは急旋回し、後輪を浮かせて横転した。
運転手が窓から投げ出される。
地上班が前へ出た。
横転したフォークリフトから運転手が這い出した。
右脚を車体へ挟まれている。
拳銃へ手を伸ばす。
近衛護衛班の一人が足で拳銃を遠ざけ、止血帯を巻いた。
「俺を助けるのか」
「法廷が嫌なら、歩いて逃げろ」
男は挟まれた脚を見た。
「無理だ」
「では運ぶ」
敵を生かすため、二人が担架を使う。
その二人分、艀へ向かう人数は減った。
後で戦術上の是非を問われる判断だった。
護衛班長は迷わず、救護と前進を同時に命じた。
人道を宣言したのではない。
捕虜を放置して背後から撃たれる危険を、最も確実な方法で消した。
*
サンソンはサイロ西側の保守階段を上った。
国家憲兵二名が続く。
高さ十二メートル。
濡れた鉄板が靴の下で鳴る。
艀の甲板へ、武装した男四人。
一人が係留索を外す。
二人目がRPK-74Mを階段へ向けた。
サンソンは身を伏せる。
弾丸が手すりを切り、火花が雨へ混じった。
下へ戻れば、艀は出る。
上がれば、射線へ出る。
迷う時間は、相手の燃料になる。
サンソンは階段脇の穀物排出管へHK416Fを二発撃った。
固定金具が外れる。
直径四十センチの管が落ち、艀の甲板へ叩きつけられた。
RPK射手が避ける。
その一秒で、サンソンは踊り場を越えた。
二発。
射手の胸部防弾板へ一発、露出した右肩へ一発。
男が甲板へ倒れる。
別の男が手榴弾を投げた。
濡れた甲板を転がる。
サンソンは蹴り返さない。
階段から川へ飛び込む。
爆発。
鉄板が持ち上がり、破片が水面へ突き刺さる。
彼は艀の舷側へ片手を掛けた。
雨水と油で滑る。
上から拳銃が向く。
銃声。
男の腕が跳ねた。
反対岸のクレーン上から、第八十八群の狙撃手が撃っている。
サンソンは甲板へ身体を上げた。
*
水門管理室では、第八十八群が爆破扉を切断していた。
相手は内側から制御盤を壊している。
水門は半開。
艀が船首を突っ込めば、流れと船体重量で開く可能性があった。
ペトレンコは地下指揮所で、残り時間を見た。
満潮まで十九分。
港湾警察の巡視艇は間に合う。
ただし、艀の船倉に爆薬があれば近づけない。
「上流堰を二十センチ下げてください」
市河川局の技師が首を振る。
「市内水位が変わる。許可は市長だけだ」
「変化量は」
「下流で最大十八センチ。係留船への警告が要る」
「警告を出してください」
「市長の署名がない」
署名は、別の地下退避所から送信中。
到着予測、七分。
艀は係留索を切った。
水門まで百四十メートル。
ペトレンコは市河川局の画面を見た。
「堰を下げます。命令者、ペトレンコ。ヴァローニュ内務相の緊急調整依頼に基づく」
「河川管理は依頼の対象外です」
「分かっています」
技師は動かない。
彼女は自分で操作盤へ触れなかった。
「従うかは、あなたが決めてください。ただし、十九分後に艀が市街から出ます」
技師は歯を食いしばり、上流堰の遠隔操作鍵を回した。
「十八センチだ。それ以上は下げない」
「十分です」
川面が、ゆっくり下がり始めた。
*
艀は水門の手前で船底を擦った。
機関が唸る。
船尾が振れ、コンクリート壁へ当たる。
操舵室の窓が割れた。
港湾警察の巡視艇二隻が左右から接近する。
放水銃が甲板を薙ぎ、残った武装員を伏せさせた。
サンソンは船倉扉へ到達する。
内側から金属を叩く音。
三回。
間を置いて二回。
人間の合図だった。
扉へ爆薬を使えない。
蝶番を切断工具で落とす。
船倉には、オレグ・バルディンがいた。
手首を縛られ、左耳から血を流している。
その隣に、若い襲撃者が一人。
拳銃をバルディンの顎へ当てていた。
「武器を捨てろ」
男が言う。
サンソンはHK416Fを床へ置いた。
「蹴れ」
蹴る。
男の視線が銃を追う。
バルディンが突然、頭を振った。
拳銃の銃口が頬を裂く。
発砲。
弾は船倉天井へ入った。
サンソンは距離を詰め、男の手首を隔壁へ打ちつける。
拳銃が落ちる。
肘を顎へ一度。
男が崩れた。
「助けるのが遅い」
バルディンが言った。
「予定を聞いていない」
「私もだ」
声は震えていた。
*
救急車の中で、バルディンは取り調べを拒まなかった。
「奴らは私を救出したのではない」
頬の傷を医官が縫う。
「帝国軍需省の旧認証鍵を欲しがった。保管場所は?」
「鍵はもう使えない」
「何を開く」
「弾薬庫ではない。台帳だ」
バルディンは目を閉じた。
「停戦前に、誘導装置二百十二基と信管四百八十六個が帳簿から消えた。命令者は皇帝府の継戦委員会。私は署名した」
「どこへ送った」
「知らない」
「署名したのに」
「知らないまま署名できるように、帝国は大臣を置く」
皮肉ではなかった。
自白だった。
「旧認証鍵があれば、積替記録を復元できる」
「だから攫った?」
「だから、まだ戦争を続けられる」
バルディンは窓の外を見た。
夜明け前の川に、拘束された艀が浮いている。
「私を法廷へ戻せ」
「逃げたいんじゃないのか」
「逃げた先にも、あいつらがいる」
取り戻したのは、無実の男ではなかった。
罪を知る男だった。
だからこそ、生きたまま戻す価値があった。
旧穀物埠頭では、夜明け後も作業が続いた。
艀の機関室から焼却途中の紙片。
船倉床下から、偽造旅券十八冊。
操舵室から、使い捨て衛星端末三台。
水門へ擦った船底には、別の港で付いた赤い塗料が残る。
港湾警察は一片ずつ採取した。
戦闘で開いた穴には、番号札を置いた。
サンソンは濡れた防弾板を外し、初めて自分の左腕から血が出ていることへ気づいた。
手榴弾の破片が浅く入っている。
「病院へ」
ロマネンコが言う。
「お前に言われたくない」
「俺は撃たれてない」
「撃たれる場所へ来た」
「道を知っていた」
「次は地図だけ寄越せ」
「地図は扉を開けない」
サンソンは答えず、破片を押さえた。
遠くで救急車の扉が閉まる。
取り戻した男と、負傷した敵と、味方が同じ病院へ向かった。
勝利の車列は、ひどく交通整理に似ていた。
*
病院の廊下には、川の泥と消毒薬の匂いが同居していた。
バルディンは警護付きの処置室へ。拘束した襲撃者は反対側の手術室へ。サンソンは左腕を吊られたまま、その間を歩かされた。
開いた病室の扉から、細い診断線が一本伸びている。
シェレメートは上体を起こせないまま、右手だけを廊下へ差し出した。人工腱が駆動すると、指先の動きにごく小さな機械音が混じる。
「おかえり〜」
「寝ていろ」
「二人とも帰った。ならハグ〜」
「お前は胸郭、俺は左腕だ」
「右腕がある〜」
サンソンは足を止めた。
抱けば、彼女の固定具か自分の創口を開く。抱かなければ、地下で残した言葉をもう一度先送りにする。
彼は無傷の右手で、差し出された指を一度握った。次に病室へ入り、枕へ散った髪を整え、頭頂を二度撫でる。
「傷が閉じたらだ」
「キスも〜?」
「整備項目を勝手に増やすな」
「じゃあ、予約〜」
「聞かなかった」
サンソンが歩き出すと、背後で人工肺の作動音に笑い声が重なった。
強い者同士が心を開く時、それが綺麗な会話になるとは限らない。
この二人の場合は、未払いの請求が増えていった。




