第八十三話 壊れた翼の管制
シェレメートが目を覚ました時、最初に見たのは飛行計器ではなかった。
白い天井。
点滴袋。
自分の左手首をベッド柵へ結ぶ、幅の広い固定帯。
左鎖骨の下から伸びた診断ケーブルが、ベッド脇の保守端末へつながっている。
一台目のモニターは血圧と血中酸素を表示していた。
二台目は人工肺の流量、胸郭フレームの歪み、神経接続のエラー数を表示している。
七割を機械化した身体には、医官と整備員が一人ずつ必要だった。
「これ、捕虜の扱いじゃない〜?」
「患者の扱いです」
医官が答えた。
「飛ばないよ〜」
「先ほど、離陸許可を申請しました」
「申請しただけ〜」
「三回」
「丁寧でしょ〜」
左脇腹の破片は除去されている。
強化肋骨二本に亀裂。人工肺の外殻は交換済み。胸郭駆動線は仮設の迂回路でつながれている。
出血は止まった。生体臓器の損傷はない。
立てる。
飛べない。
その二つは、同じ意味ではなかった。
飛行服がないので、シェレメートは病院着のまま端末へ手を伸ばした。
左腕の人工腱が作動し、固定帯が短く軋んだ。
固定帯が届く範囲は、よく計算されている。
「端末だけ〜」
「休んでください」
「敵も?」
医官は返事をしなかった。
代わりに、壁際の椅子へ座っていたサンソンが端末を取った。
彼の膝には、小型の導通計と絶縁工具が載っていた。
外科班が傷を閉じる横で、切れた駆動ハーネスの端子を組み直したのは機械化身体班だけではなかった。
「俺が読む」
「いつからいたの〜?」
「外科班が損傷部を開放した時から」
「中、見た〜?」
「配線図と実物が違った。現場改修が多すぎる」
「感想が整備員〜」
「動くな。仮端子が抜ける」
「お前が二回、逃げようとしてから」
「一回だよ〜」
「窓を調べた分を入れれば二回だ」
「元パイロットは細かい〜」
「生き残った元パイロットはな」
彼は端末を開く。
最初に表示されたのは、格納庫へ運ばれたSu-35BMだった。
機体は腹部架台へ載せられている。
左主脚は付け根から折れ、翼端の複合材が一・七メートル削れていた。
左エンジン後方の外板には、破片孔が二十三。
油圧配管二本を切断。
水平尾翼の駆動部へ一片。
あと四センチ内側なら、操縦入力は伝わらなかった。
「修理は〜?」
『主桁検査後です』
整備主任の映像が答える。
「飛べる?」
『今日ですか』
「一般論〜」
『一般論なら、航空機は地上に置けば安全です』
「嫌な整備士〜」
『元帥が育てました』
整備員は左翼の燃料を抜き、非破壊検査用の探触子を当てている。
機体を失わず帰ったことを、誰も奇跡とは呼ばなかった。
油圧系統が残り、脚の非常展開装置が働き、消防車が間に合い、地上員が脚立の下へいた。
生還は、壊れなかった部品と、そこにいた人間の合計だった。
「全部、記録して〜」
『修理記録へ?』
「戦術教範。市街低空で追わせた指揮官の失敗も〜」
自分の名を入れろ、と言った。
失敗を他人の教材へ変えるなら、署名くらいは自分で付けるべきだった。
*
逃走したH225Mは、午後三時二十七分に一次レーダーから消えた。
最後の位置は、アルシェール西部の高層建築群。
衛星の赤外画像は雲で使えない。
警察ヘリは、偽命令のため離陸が十九分遅れた。
目撃情報は六十七件。
うち二十一件は、時間が合わない。
十八件は、通常の救難ヘリ。
十二件は音だけ。
「音だけ残して〜」
「なぜ」
「大型ヘリを見た人は、機種を間違える。ローターの音は、近くで聞けば間違えにくい〜」
サンソンは十二件を残した。
録音が三件ある。
交通監視カメラ。
集合住宅の防犯装置。
川辺の観光客が撮った短い映像。
シェレメートはイヤホンを片耳へ入れる。
低い連続音。
Makila 2A1エンジン二基と、五枚ローターの翼端音。
その後ろに、高い回転音が混じる。
「二機いる〜」
「警察記録では一機だ」
「二つ目は小さい。映像を〇・七倍」
川辺の映像を遅くする。
H225Mが建物の間を横切る。
三秒後、その後方の雲へ黒い影。
小型双発ヘリ。
機首の形と尾部ローター。
「AW139」
サンソンが言った。
「飛行計画は〜?」
「該当なし」
「大きい方を見せて、小さい方を通した。会議場でも道路でも、同じ〜」
敵は派手なものへ目を向けさせる。
本当に守りたいものは、その陰で動かす。
*
午前零時二十六分。
AW139らしき機影が、アルシェール南西四十二キロの採石場上空で見つかった。
沿岸監視レーダーが、地形追随する低速目標を三回だけ拾った。
ヴァローニュ空軍はラファールB二機を上げる。
夜間の低空目標。
都市を離れたが、下には村と高速道路がある。
撃墜は最後の手段だった。
『アルシェール管制、こちらミラージュ一。目標を視認できず』
コールサインだけが古い。
機体はラファールB。
この編隊では、前席が操縦、後席がセンサーと通信を担当する。
シェレメートの病室へ、戦術音声が流れる。
彼女に命令権はない。
助言回線だけが開かれていた。
「一番低い採石面へ降りてる。上から探すと背景へ溶けるよ〜」
『高度を下げる』
「二番機を高速道路側へ。逃げ道をライトで潰して〜」
『了解』
ラファール一番機が速度を落とす。
デルタ翼は低速で大きな迎角を取る。
機首下面の前方監視装置が、採石場の底をなぞった。
採掘用ダンプ。
破砕機。
水たまり。
その陰に、ローターを回したAW139。
『目標視認。離陸を開始』
「上げさせないで〜」
ラファールが採石場の縁を横切った。
推力を絞っても、二基のM88が吐く後流は重い。
砂塵と砕石が舞い上がる。
AW139のローター面が乱され、機体が左へ傾いた。
操縦士は離陸を中止し、脚を地面へ打ちつける。
右主脚が折れた。
ローターが傾く。
翼端が破砕機の鉄骨へ当たり、一本が千切れて闇へ飛んだ。
『搭乗者、機外へ。五名。小火器あり』
地上の国家憲兵隊が採石場入口へ到着する。
VBRG装甲車の後方で、国家憲兵隊が照明弾を上げた。
白い光の下で、逃走者が岩陰へ散る。
一人が携帯地対空ミサイルの発射筒を担いだ。
『地上にMANPADS』
ラファール一番機が機首を上げる。
「もう一回、低く入って〜。撃たせる前に頭を下げさせる」
サンソンが彼女を見る。
「今、自分を病院へ入れた機動を他人にやらせたか」
「同じにはしないよ〜。進入方位を十五度ずらす。射手から排気が見えない〜」
『ミラージュ一、実行する』
ラファールが採石場の照明塔をかすめた。
射手は発射筒を上げきれず、爆風を避けて伏せる。
国家憲兵が距離を詰めた。
短い銃撃。
MANPADS射手の肩が回り、発射筒が落ちる。
残る四人が投降した。
二番機は採石場上空へ残り、一番機が燃料不足で帰投する。
低空で速度を殺した代価だった。
着陸時の残燃料は、規定予備をわずかに下回る。
管制官が報告すると、シェレメートは先に口を開いた。
「助言者の判断。私の名前で逸脱報告を出して〜」
『実行判断は編隊長です』
「空で断れる言い方をしなかった〜」
命令権がなくても、階級と経験は圧力になる。
その圧力で敵を止めた。
同じ圧力で、味方の燃料を削った。
成果だけを自分のものにし、逸脱だけを操縦士へ返すほど、彼女は上品ではなかった。
*
AW139の機内に、バルディンはいなかった。
折り畳み担架も血痕もない。
あったのは、暗号化された航法タブレットと、河川用救命胴衣六着。
大きなH225Mは空を見上げさせた。
小さなAW139は追跡機を遠ざけた。
本命は、最初から水上にいる。
航法タブレットの削除領域から、座標が一つ復元された。
アルシェール西運河、旧穀物埠頭。
ロマネンコが見つけた地下道の出口から、下流へ十一キロ。
「当たり〜」
シェレメートが笑った。
声はいつもと同じように伸びた。
目だけが、眠っていない。
「何が可笑しい」
サンソンが聞く。
「逃げ方が綺麗だったから〜」
「褒めるのか」
「綺麗な飛び方をする敵は、落とし甲斐がある〜」
一度だけ、彼女は小さく笑った。
自分の血がまだ排液管を通っているのに、ひどく穏やかな笑いだった。
サンソンは端末を閉じた。
「次は地上班の仕事だ」
「私も行く〜」
「固定帯をもう一本増やすぞ」
「暴政〜」
「事後承認を取ってある」
医官が予備の固定帯を持ってきた。
シェレメートは初めて、少しだけ悔しそうな顔をした。
サンソンは椅子へ戻った。
「眠れ」
「眠くない〜」
「麻酔が切れたら痛む」
「切れるまで使える〜」
「そういう計算をする奴を、俺は信用しない」
「自分もするくせに〜」
会議区地下で、彼は煙の中へ一人で走った。
採石場では、シェレメートが他人を低空へ押し込んだ。
似ているから信用できる。
似ているから、互いを止めなければならない。
「じゃあ交代で無茶しよう〜」
シェレメートが言った。
「今日は私。明日はサンソン〜」
「却下だ」
「毎日二人で?」
「寝ろ」
固定帯を引く音がした。
彼女は笑ったが、今度の笑いは短かった。
端末が視界から消えると、指先がわずかに震えていることへ気づいた。
怖くなかったわけではない。
怖さを使い切るまで、仕事を続けたかっただけだった。
サンソンはその震えを見ても、何も言わなかった。
病室の照明を一段落とした。
眠りへ落ちる直前、シェレメートは一つだけ音声記録を残した。
「低空回転翼機への追尾手順。戦闘機は撃てる位置じゃなく、逃げ道を狭める位置へ。市街では後流も武器になる。でも、使った側も燃料と高度を失う〜」
最後に間が空いた。
「負傷した指揮官の助言は、二人で承認して。本人は、自分が正常だと思ってるから〜」
送信先はソーコルとソフィア。
自分を止める手順を、自分で増やした。
その直後、彼女は端末を握ったまま眠った。
眠っても、人工腱は最後の指令を保持したままだった。
サンソンは手首内側の解除点を押し、かすかな作動音とともに指を一本ずつ開かせ、端末を抜いた。
画面には、次の飛行計画がすでに開かれていた。
「ハグ、まだ一回〜」
眠っているはずの声が、枕へ沈んだ。
「記憶領域まで麻酔が届いていないらしい」
サンソンは端末を伏せ、肩まで毛布を引いた。接続された診断線を挟まないよう指で一本ずつ逃がし、最後に頭頂へ掌を置く。
シェレメートの人工肺は、交換された支持具の中で乾いた作動音を刻んでいた。生体の胸と機械の胸が、まだ完全には同じ周期になっていない。そのずれが一度縮むまで、彼は手を離さなかった。
「これは〜?」
「鎮静手順だ」
「キスの方が効くかも〜」
「処方箋にない」
「書いて〜」
「任務後だ」
彼女の口元が少し上がった。
「言ったね〜」
サンソンは返事をしなかった。
頭を撫でる手も、すぐには退けなかった。




