第八十二話 閉じる扉
《朝の食卓へ》は、三年前に倒産した食品卸会社だった。
会社は消えた。
冷蔵車は残った。
所有者は二度変わり、最後はアルシェール市内の廃棄物処理会社へ売られている。
その会社も、登記上の住所にはなかった。
住所にあったのは、壁を青く塗った理髪店だった。
「いい会社は、潰れても車を働かせる」
ロマネンコは画面を見て言った。
「悪い会社は?」
ヴァローニュ司法警察の捜査官が聞く。
「会社が働かず、車だけが儲ける」
攻撃から六時間後。
ロマネンコはヴェルニアから到着したC-27Jを降り、そのまま臨時捜査室へ連れてこられていた。
入国書類の職業欄は《港湾事業者》。備考欄には、さらに小さな字で《捜査協力者・武器携行不可》。
「侮辱だな」
「事実です」
捜査官が答えた。
「事実は、言い方で侮辱になる」
「武器が欲しいなら警察へ入れ」
「給料が安い」
互いに笑わない。
相性は悪くなかった。
*
料金所を通った冷蔵車は、九分後に消えていた。
次の監視カメラまで、道路は一本道。
脇道はない。
ロマネンコは地図を拡大した。
「道は地上だけじゃない」
西環状道路の下には、旧中央市場の搬入トンネルがある。
肉、魚、氷、燃料を、表通りへ出さず運ぶための地下道。
二十年前に市場が移転し、入口は市の冷蔵設備倉庫へ転用された。
「閉鎖済みです」
市職員が言う。
「閉鎖した記録は」
「あります」
「閉鎖を確認した記録は」
市職員は黙った。
港と地下道には、よく似た規則がある。
使えないと書かれた場所ほど、誰かが使っている。
料金所映像を一秒ごとに戻す。
冷蔵車の右後輪だけ、泥除けが曲がっていた。
市場入口付近の路上カメラには、同じ曲がり方をした白い車体が三台ある。
一台は救急食品配送。
一台は市の冷凍設備保守。
一台はナンバープレートを読み取れない。
「三台へ増えた?」
捜査官が言う。
「一台を三台に見せた」
ロマネンコは路面の影を拡大した。
最初の車は後輪二軸。
次の二台は一軸。
荷台だけを外し、地下で別のシャシーへ載せ替えている。
自動車を追えば三台。
箱を追えば一つ。
「冷蔵庫の中に車体交換設備が?」
「市場には、壊れた冷凍車を朝までに直す設備がある。肉は警察より待ってくれない」
市職員が旧設備台帳を出した。
大型リフト二基。
貨物エレベーター一基。
運河側の荷揚げ口。
閉鎖された施設としては、出口が多すぎた。
*
午後十時四十八分。
市冷蔵設備倉庫の外には、司法警察車両二台と国家憲兵の装甲車一台が止まった。
サンソン少佐は黒い戦闘服の上へ防弾板を締め直す。
ソーコルは医官に止められ、会議区に残った。
代わりに大公直属近衛飛行隊の護衛班四名が来ている。
「令状は」
サンソンが聞く。
「夜間執行の追加署名待ちです」
捜査官が腕時計を見る。
「十分以内」
倉庫の屋根から、白い蒸気が上がった。
冷凍機の安全弁。
直後、建物内の照明が落ちる。
「相手も十分待つか?」
ロマネンコが言う。
「あなたはここに残れ」
「入口の鍵を開けた人間を?」
「鍵は警察が持っている」
「正面の鍵だけだ」
彼は倉庫脇の排水溝へ向かった。
鉄格子の下、舗装へ埋まった古い環。
引くと、幅六十センチの保守蓋が持ち上がる。
腐った冷気が吐き出された。
「なぜ知っている」
「市場は国が違っても同じだ。税関が見る扉と、肉屋が使う扉がある」
地下からエンジン音がした。
大型ディーゼル。
回転数が上がる。
捜査官が令状端末を見る。
署名はまだない。
サンソンは保守蓋へ身体を入れた。
「人命救助。進入する」
「令状は」
「後で読ませろ」
「いい国だ」
ロマネンコが続こうとする。
「お前は残れ」
「道を知らない奴が先に行く方が危ない」
「武器はないぞ」
「知恵まで没収された覚えはない」
扉は閉じ始めている。
許可は、まだ画面の向こうだった。
ロマネンコは地下へ降りた。
四人が保守蓋を抜けた直後、頭上で金属音がした。
蓋が自重で閉じた音ではない。
外から鎖を掛けられた。
「後退路、閉鎖」
司法警察官が囁く。
「最初から見られていたな」
サンソンは無線を確認した。
地下では公共通信が届かない。
近衛護衛班との短距離中継だけが、細い一本線で残る。
そこへ雑音。
敵が妨害器を起動した。
ロマネンコは壁の古い火災報知器を外した。
銅線二本。
通電している。
「市の消防回線は生きてる」
「何をする」
「火事を知らせる」
彼は二本を短絡させた。
地上の警報ベルが一斉に鳴る。
同時に防火規程が働き、正面倉庫の電磁錠が解放された。
待機していた近衛護衛班が中へ入る。
「犯罪歴は、本当に港湾だけか」
サンソンが聞く。
「消防法は守っている」
ロマネンコは暗い通路を先へ進んだ。
*
保守通路は、腰を屈めなければ進めなかった。
先頭はサンソン。
後ろに司法警察二名。
ロマネンコ。
近衛護衛班四名は、正面扉の開放後に入る。
コンクリート壁の向こうで、トラックが動く。
サンソンは拳を上げた。
全員が止まる。
細い通気口から、冷蔵庫内が見えた。
冷蔵車が一台。
車体の文字は剥がされている。
後部扉の前に二人。MP7と短銃身のAK-105。
床には血。
だが、人影はない。
襲撃者の一人が、車体下へ何かを置いた。
遠隔起爆式の焼夷剤。
「証拠を焼く」
捜査官が囁く。
「人間も残っていれば一緒だ」
ロマネンコは通路の配管を見る。
冷媒管。
赤い手動遮断弁。
その隣に、旧式の火災排煙装置。
「三秒、耳を塞げ」
彼は非常排煙弁を蹴った。
固着している。
もう一度。
弁が開き、地下室の大型ファンが始動した。
十年分の埃と氷片が天井から吹き出す。
襲撃者が振り向く。
サンソンが通気格子を蹴破った。
二発。
MP7を持つ男の右腕と太腿。
二人目がAK-105を上げる。
司法警察が応射。
弾丸が冷蔵車側面へ入り、薄い鋼板を抜けた。
外板は内側へ花弁のようにめくれ、断熱材の黄色い繊維が冷気へ舞った。貫通弾は吊り下げレールへ当たり、耳の奥へ釘を打ち込むような音を返す。頬へ触れた細片は熱く、床に溜まった霜だけが靴底から骨へ冷たかった。
車内から金属の落ちる音。
「中にいる!」
サンソンは射線から車体を外すため、床を滑って左へ出た。
AK-105の連射が追う。
冷凍機の外装が裂け、冷媒が白く噴いた。
甘さのない薬品臭が喉を焼く。噴流が露出した手首を撫で、皮膚の感覚を一瞬で奪った。ファンは歪んだ羽根を回し続け、軸受が生き物の歯ぎしりのように鳴った。
視界が消える。
サンソンは銃口炎だけへ二発返した。
男が倒れる。
負傷した一人が起爆器を握った。
ロマネンコは近くの荷役フックを投げた。
鉄塊が手首へ当たり、起爆器が床を滑る。
司法警察官が踏みつけた。
「武器は持ってない」
ロマネンコが言う。
「それは何だ」
「設備」
*
冷蔵車の後部扉を開ける。
中にバルディンはいなかった。
血の付いた拘束帯。
割れた鎮静剤のアンプル。
帝国軍需省の古い職員証。
床へ固定された折り畳み担架。
冷蔵庫奥の壁が、内側から切り抜かれていた。
その先に貨物用エレベーター。
地下市場から、運河岸の荷揚げ場へ直接出る。
「二度目の積み替え」
捜査官が言う。
「三度目だ」
ロマネンコはタイヤの泥を指でこすった。
細かい貝殻が混じっている。
「ここへ来る前に、河岸へ一度寄っている。わざと逆へ運んだ」
「なぜ」
「追う側へ、車を見つけたと思わせるためだ」
令状の電子署名が届いた。
進入から七分二十一秒後。
捜査官は時刻を記録した。
署名だけでなく、進入判断に反対した市法務官の意見も添付する。
人命救助の切迫性はあった。
実際に救出対象がいなかった以上、その判断が合理的だったかは後で争われる。
サンソンは自分の胸部カメラを外さなかった。
ロマネンコが弁を蹴った場面も、起爆器へ荷役フックを投げた場面も、すべて残す。
格好のよい部分だけを提出すれば、次の現場は格好の悪い判断を隠すようになる。
「違法捜査になるかもしれない」
「生きている人間が一人増えれば、弁護士と議論できる」
ロマネンコは開いた貨物エレベーターを見た。
「閉じた扉は、議論しない」
運河岸には、新しいタイヤ痕と、河へ向かう小型艀の航跡が残っていた。
荷揚げ場の係留環には、青い合成繊維が付着している。
市内観光船は麻索。
港湾作業船は黄色。
青は、河川危険物輸送に使う高強度索だった。
「艀の登録を全部」
捜査官が港湾局へ求める。
「全部なら百八十四隻です」
当直職員が答えた。
「今夜動いた船」
「AIS上は十一隻」
ロマネンコが首を振る。
「動いた船を聞くな。動いていないことになっている船を探せ」
電力使用量。
閘門の水位変化。
河岸カメラの波。
燃料販売記録。
AISを止めても、船が押した水は消えない。
午前零時十四分、旧穀物埠頭の水位計だけが十二センチ揺れていた。
通常の潮位変化ではない。
カメラは故障中。
埠頭の運営会社は清算手続中。
警備契約は先月切れている。
使えないと書かれた場所が、また一つ見つかった。
「令状を先に取る」
捜査官が言う。
「学習したな」
「あなた方が早すぎる」
「扉が遅すぎるんだ」
今度は、令状申請と作戦準備が同時に始まった。
先に入ることを常識にしない。
遅れを口実にもしない。
アルシェールの地図は、陸で終わっていなかった。




