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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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第八十一話 消えない点



 午後三時二十七分。


 アルシェール国際会議区の地下資料室は、指揮所として設計されていなかった。


 壁は分厚い。空調は弱い。机は文書箱を広げる幅しかない。


 そこへ《スティナ》端末六台、ヴァローニュ内務省の無線機三系統、空軍の戦術表示器一基が押し込まれた。


 壁面へ投影された市街図には、色の違う点が百以上あった。


 青は所在確認。


 橙は負傷。


 赤は死亡。


 白は、応答がない。


 ペトレンコは白い点だけを見ていた。


「地下三階、清掃班二名を確認」


 首都警察の連絡官が言う。


 白が二つ、青へ変わる。


「旧法務省西階段。警備官一名、心肺停止」


 白が赤へ変わった。


 点が消えたわけではない。


 名前と結びついただけだった。


 それでも、分からないままよりはよい。


「H225Mは」


「西へ低空飛行。河川沿いで一次レーダーから消失しました」


「燃料は」


「空港の補給記録どおりなら、会議区到達時点で残り一時間二十分。別地点で給油していれば不明」


「装甲バン二台は」


「一台は司法宿舎南二・六キロで放棄。もう一台は監視網から消えました」


 消えた。


 その言葉が、今は嫌いだった。


 人間も車も、消えはしない。見ている側が見失うだけだ。


「道路監視を車種で探さないでください。全高、軸距、荷重。車体を替えてもタイヤは急に増えません」


 ヴァローニュ警察の分析官が検索条件を変える。


 司法宿舎から西へ向かった車両、七百四十二台。


 二軸、全高二・四メートル以上。


 攻撃発生後に速度を上げた車。


 候補は三十一台になった。


     *


 午後三時四十分。


 ヴァローニュ内務相が地下資料室へ入ってきた。


 上着の右肩に、石膏の粉が付いている。


「大公妃殿下」


「はい」


「緊急発動符号は届いた。ここからの指揮は私が執る」


「了解しました」


 ペトレンコは椅子から立った。


 内務相が壁を見る。


 国家憲兵、首都警察、司法警察、空軍基地警備隊、各国護衛班。


 五つの組織が、一枚の図へ載っている。


 誰が負傷し、どの周波数が死に、どの救急車が渋滞へ捕まっているかまで表示されていた。


「これは、あなたが作ったのか」


「ヴァローニュ側が入力し、公国側が接続しました」


「指揮権を返すと言ったな」


「最初から、こちらにはありません」


「言葉遊びをしている時間はない」


「同意します」


 ペトレンコは席を空けた。


 内務相は座らなかった。


 白い点が、まだ九つある。


「続けてくれ」


「命令ですか」


「依頼だ。責任は私が負う」


 自国の首都で、外国の大公妃へ状況整理を頼む。


 政治家には重い言葉だった。


 ペトレンコは座り直した。


「記録へ残します」


「好きにしろ」


「好きではありません。必要です」


 内務相は初めて、わずかに笑った。


「噂より面倒な人だ」


「噂は控えめです」


     *


 午後四時二分。


 会議室から、最後の襲撃者が引き出された。


 防弾盾の裏へ隠していた起爆装置は、ソーコル大佐が足で踏み砕いた。


 彼の脇腹には圧迫包帯が巻かれている。


「医療所へ」


 ヴォロディミルが命じた。


「殿下の移送後に」


「大公命令だ」


「現在、会議区警備はヴァローニュ内務相の指揮下です」


「便利な時だけ法を使うな」


「殿下に教わりました」


 ソーコルは表情を変えない。


 痛みで顔色だけが悪い。


 ヴォロディミルは彼の肩を叩こうとして、傷の位置が分からず手を止めた。


「死ぬな」


「努力目標にします」


「その言い方まで妃殿下に似なくていい」


「近くにおりますので」


 担架が来る。


 ソーコルは乗る前に、会議室の人数をもう一度数えた。


 自分を最後へ回す癖は、忠誠と呼べる。


 回数が増えれば、別の名前が要る。


     *


 午後四時十九分。


 サンソンが地下資料室へ戻った。


 左頬に切り傷。HK416Fの銃床には石膏の粉。


「H225Mは囮だ」


 彼は端末へ記録媒体を差し込んだ。


 地下で拘束した襲撃者の無線ログ。


 屋上班への指示は、《会議区へ十七分間、航空戦力を拘束せよ》。回収対象の名前はない。


「元軍需相は道路です」


 ペトレンコが言う。


「車両を替えている」


「何回」


「最低一回」


「最低という言葉は嫌いだ」


「私もです」


 サンソンは白い点を見た。


「シェレメートは」


「手術準備中。意識あり。左人工肺、出力六十三パーセント。胸郭駆動系は切り離し済みです」


「俺が入れたバイパスは」


「搬送中に外しました。あれは修理ではなく、機械側の止血です。外科班が生体の裂傷を処置し、機械化身体班が人工肺の支持部と駆動ハーネスを交換します」


 応急処置で三パーセントを拾い、搬送装置でもう二パーセントを補った。それでも正常値には遠い。数字だけなら上げられる。傷んだ肉が耐えられる数字まで落として運ぶのが、治療だった。


「生体側は」


「出血を制御。破片は強化肋骨で止まっています。外科班と機械化身体班が同時に入ります」


「飛ぶと言ったか」


「三回」


「拘束しておけ」


「医官がしています」


「医官に礼を言っておく」


 白い点が一つ、橙へ変わった。


 地下倉庫の管理員。倒れた棚の下で骨盤を負傷。生存。


 残り八つ。


 その直後、首都警察の無線へ偽命令が割り込んだ。


『会議区東側の封鎖を解除。容疑車両は南へ向かった』


 電子署名は内務省。


 発信元も、内務省庁舎の中継局を示している。


 本物なら、道路封鎖四か所が同時に開く。


「復唱しないでください」


 ペトレンコが言った。


「命令句に何が」


 首都警察の連絡官が聞く。


「解除理由がありません。先ほどから偽命令は、必ず理由を省いています」


 本物の指揮官も、忙しければ理由を省く。


 そこを敵が使った。


 ペトレンコは緊急規則を変更した。


 封鎖解除には、命令者、理由、代替封鎖点の三つを要求する。


 一つでも欠ければ、現場は解除せず照会する。


「正式な承認は」


 内務相が聞く。


「今、ください」


「私に考える時間は」


「あります。敵にも同じだけ」


 内務相は署名した。


 四か所の封鎖は残った。


 三分後、その一つで、ヴァローニュ司法警察を名乗るバンが停止を拒否した。


 警官は発砲しない。


 鋼製の可動障壁を上げる。


 バンは正面から衝突し、ラジエータを潰して止まった。


 車内には偽造制服七着、使い捨て無線機、血の付いていない担架。


 人間はいない。


 三台目の囮だった。


「当たりではありませんでした」


 連絡官が言う。


「外れを閉じました」


 ペトレンコは答えた。


 捜索とは、正解へ飛ぶことではない。


 外れを、戻れない形で潰す作業だった。


     *


 午後五時五十六分。


 白い点は二つになった。


 一つは、元軍需相オレグ・バルディン。


 もう一つは、会議通訳のエレナ・ボルツ。


 ボルツは、崩れた連絡通路の奥で発見された。


 頭部を負傷していたが、呼吸はある。


 白が橙へ変わる。


 救出映像には、担架の横を歩く若い消防士が映っていた。


 ヘルメットの前面が割れ、鼻血を拭う暇もない。


 ボルツの手には、同時通訳用の受信機が握られている。


 意識を失う直前まで、誰かの言葉を別の誰かへ渡す道具を離さなかった。


 ペトレンコは、橙へ変わった記号の備考へ《発見時所持品あり》と入力させた。


 小さな情報だった。


 生きていたという事実には、何も足さない。


 それでも、名前だけより人間に近かった。


 死者十一名の記録にも、同じ欄を追加した。


 最後に持っていた物。


 最後に受けた命令。


 最後に誰と話したか。


 後で遺族へ伝えられる事実を、銃撃の熱が冷める前に拾う。


 戦況図は冷たい。


 冷たいまま使うなら、人間を戻す欄が必要だった。


 壁に残ったのは、バルディン一人だった。


 ペトレンコは、点滅する記号を見続けた。


「交代しろ」


 ヴォロディミルが背後で言う。


「まだ一人です」


「だからだ」


「意味が分かりません」


「一人になったなら、百人分の頭は要らない。追跡班へ渡せ」


 ペトレンコは振り返らない。


「点滅が止まるまで」


「いつから見ている」


「午後二時三十分から」


「瞬きを聞いているんじゃない」


 答えなかった。


 未確認を残したまま目を閉じれば、その間に誰かが死ぬ気がした。


 理屈ではない。


 理屈でないものを命令へ混ぜないために、彼女は理屈だけを喋ってきた。


「引継ぎ項目は」


 ヴォロディミルが聞く。


 ペトレンコは十一項目を一息で読み上げた。


 車両候補。


 H225Mの推定燃料。


 偽命令の署名鍵。


 封鎖していない橋。


 病院の空床。


 最後まで聞き、彼は言った。


「完璧だ。交代しろ」


「四十一分で起こしてください」


「六時間」


「四十一分」


「なぜ」


「次の衛星画像が来ます」


 ヴォロディミルは彼女の端末を取り上げた。


「夫として命じる。九十分」


「権限根拠がありません」


「愛情」


「法的分類は」


「緊急例外」


 彼女はようやく彼を見た。


 シャツの襟に、乾いた血がある。彼のものではない。


 ペトレンコは右手で襟を直した。


「六十分」


「七十五」


「合意します」


 眠る前に、彼女は白い点の担当者を三人指定した。


 七十五分後、起こされた時も点は白かった。


 ただし、その横へ新しい画像が付いていた。


 装甲バンと同じ軸距を持つ冷蔵配送車。


 午後三時二十一分、西環状道路の料金所を通過。


 車体には、ヴァローニュ語で《朝の食卓へ》と書かれていた。


 画像の端には、運転席の人物が映っている。


 帽子を深く被り、顔は見えない。


 助手席の窓に、白い布が一瞬だけ押しつけられた。


 血ではない。


 司法宿舎でバルディンが着ていたシャツと同じ布地だった。


 料金所のマイクには、冷凍機の音に混じって三回の打撃音が残る。


 間隔は均等ではない。


 人間が内側から叩いていた。


 白い点は、生存を示す橙へ変えられない。


 死亡を示す赤にもできない。


 ペトレンコは備考へ、《午後三時二十一分、生存反応の可能性》とだけ入れた。


 希望を事実へ水増ししない。


 絶望を先回りもしない。


 冷蔵車が運んでいたのは、朝まで待てない男だった。

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