第八十話 午後二時三十分
午後二時三十分。
最初に壊れたのは、会議場ではなかった。
アルシェール国際会議区へ電力を送る東変電所。
保守作業車に偽装したトラックが、変圧器二基の間で爆発した。
高圧碍子が砕け、青白いアークが走る。
市街東部の照明が落ちた。
一秒後、河川敷の通信中継所へ小型自爆無人機六機。
二機は警備の散弾銃で撃墜。
四機がアンテナと非常発電機へ命中した。
携帯回線が混雑し、会議区の外線が切れる。
三秒後、国際空港北側軍用区画の燃料ポンプで火災警報。
爆発ではない。
制御装置へ偽の過圧信号が入り、安全弁が閉じた。
待機中のラファールBとF-2Aは飛べる。
追加給油だけができない。
都市は制圧されていない。
電気と通信と航空燃料の三点を、四十三分だけ止める攻撃だった。
*
会議室の照明が消えた。
非常灯へ切り替わるまで一・八秒。
その暗闇で、警備員三人が銃を抜いた。
二人は本物。
一人は、食器用カートから取り出した制服を着ていた。
偽警備員が最初に撃ったのは、ヴォロディミルではない。
入口の生体認証装置。
散弾がセンサーと電磁錠を壊す。
扉が閉じなくなる。
「伏せろ!」
大公直属近衛飛行隊のソーコル大佐と護衛班が、代表団を机の下へ押し込んだ。
偽警備員は二発目を天井へ撃ち、警報音とスプリンクラーを作動させる。
水が降る。
書類と通訳端末が濡れる。
本物の警備員が応射した。
偽警備員は肩と胸へ被弾し、壁へ倒れる。
死ぬ前に、手首の送信機を押した。
開いた扉の向こうで、貨物エレベーターが到着する。
*
防弾盾を前へ出した六人が、廊下へ展開した。
装備はHK416F。
ヴァローニュ警備隊と同じ。
制服も同じ。
違うのは、肩の部隊番号が全員同じだったことだけ。
本物なら、配置区画ごとに番号が違う。
「第三班、会議室を確保!」
ヴァローニュ語の命令。
発音も自然。
入口の警備官が一瞬、味方だと思った。
その一瞬で二人撃たれた。
近衛飛行隊の護衛班が長机を倒す。
厚い木材は拳銃弾を止めるが、ライフル弾には足りない。
HK416Fの五・五六ミリ弾が机を貫き、通訳席の椅子を裂く。
シェフチェンコは床へ伏せたまま、ラドヴィンの襟を掴んで引いた。
「ずいぶん乱暴な外交だ」
ラドヴィンが言う。
「請求書を送ります」
「帝国政府に金はない」
「知っています」
会話を続ける間にも、弾丸が頭上を通る。
どうでもいい応酬は、恐怖を消さない。
次に何をするか考える一秒を作る。
*
ペトレンコは、倒れた机の脚へ背をつけた。
左腕は使えない。
右手で端末を開く。
会議場内ネットワークは切断。
《スティナ》の短距離メッシュだけが残る。
ヴァローニュ内務省の発動符号は届いていない。
規程上、ペトレンコにはまだ他国部隊の優先順位を決める権限がなかった。
「代表団位置を分散表示。全員を一つの印にしないで」
ソフィアが隣で端末を操作する。
会議室。
地下証拠保全室。
司法宿舎。
空港。
公国側の人員記号が四つの島へ分かれる。
「私の認証で緊急調整網を開いてください」
ペトレンコが言う。
「発動前です」
ソフィアが確認した。
「知っています。南退避路を救急専用。首都警察は地下入口を封鎖。空軍基地は未確認ヘリの離陸を止める」
ヴァローニュ警備官が振り向く。
「あなたに、我々への命令権はない」
「ありません。従うかは、あなたが決めてください」
廊下の銃声が近づいた。
「ただし、別々に考える時間は終わりました」
警備官は一秒だけ迷い、自国語で命令を復唱した。
《スティナ》上の五組織が、同じ避難路へ色を変える。
ソフィアはログへ、《権限発動前・命令者ペトレンコ》と残した。
「屋上、航空機接近」
警備官が言った。
識別はヴァローニュ国家憲兵のH225M。
飛行計画なし。
トランスポンダコードは本物。
「盗まれた機体?」
「機体番号は、整備中の一機と一致」
「偽装コードです」
ソフィアは屋上阻止装置を起動した。
四方向から鋼索が上がり、ヘリポート上空へ低い四角錐を作る。
H225Mは降下を止めた。
ドアガンが火を噴く。
七・六二ミリ弾が屋上設備を叩き、鋼索一本を保持する油圧箱へ入った。
圧力が落ちる。
一本が緩む。
ヘリは、空いた南側へ機首を振った。
*
地下二階。
サンソン少佐は、石膏壁の前で最初の爆発を受けた。
壁が廊下側へ吹き飛ぶ。
石膏片と金属枠が身体へ当たり、床へ倒れる。
耳鳴り。
視界の端へ、黒い靴が四足。
旧証拠品搬送路から侵入した襲撃班。
サンソンは床へ伏せたまま拳銃を抜いた。
二発。
先頭の膝と、二人目の肩。
残る二人が廊下へ発煙手榴弾を投げる。
白煙が非常灯を隠す。
サンソンは正面へ撃たず、横の消火器を撃った。
加圧容器が破裂し、粉末が煙の流れを押し返す。
人影が一瞬見える。
三発目。
襲撃者の無線機が砕けた。
四人目は後退した。
追わない。
目的を考える。
会議室ではなく地下へ入った。
証拠か、拘束者。
「司法宿舎へ警告!」
無線は通じない。
サンソンは階段へ走った。
*
司法宿舎では、警備隊が二つに割れていた。
偽の退避命令が届いている。
《監視対象三名を地下車庫から南安全区へ移送せよ》
電子署名は、ヴァローニュ司法省のもの。
時刻証明も正しい。
ただし、命令番号が昨日廃棄された様式だった。
若い警備官が気づく。
「待て。今月は六桁だ。これは五桁」
護送車一台は、すでにエンジンを掛けている。
運転手が拳銃を抜いた。
車庫で銃撃が始まる。
監視対象の元軍需相は車内へ伏せる。
元西部軍管区司令官は、手錠を掛けられたまま運転手へ体当たりした。
「私を助ける作戦だろう!」
運転手が怒鳴る。
「誰が頼んだ!」
元司令官が肘で顎を打つ。
「裁判は嫌いだが、貴様らの借りを作る方が嫌だ!」
本物の警備官が運転手を押さえる。
その背後で、車庫シャッターが爆破された。
外から装甲バン二台。
偽装されたヴァローニュ司法警察車両。
一台目が警備所へ突っ込み、二台目の後部扉から襲撃者八名が降りた。
元軍需相の護送車を連結し、そのまま引き出そうとする。
警備官がタイヤを撃つ。
装甲ランフラットは止まらない。
元司令官は床へ転がり、警備隊側に残った。
元軍需相を乗せた車だけが、地下車庫から消えた。
《回収》は一人、成功した。
*
会議室では、襲撃班が二度目の突入を始めた。
近衛飛行隊の護衛班は六名。
ヴァローニュ警備隊、残存五名。
襲撃側、少なくとも十二名。
狙いは代表団を殺すことではなかった。
催涙性刺激剤の弾頭を、会議室奥へ撃ち込む。
視界と呼吸を奪い、生きたまま選別する。
「マスク!」
護衛が簡易防護マスクを配る。
全員分はない。
ヴォロディミルは自分のマスクを、倒れた通訳へ渡した。
ペトレンコが彼を見る。
「大公命令へ従えと言っただろ」
「その命令は聞いていません」
「今出した」
「遅いです」
彼女は自分のマスクを彼へ押し付けようとする。
ヴォロディミルは受け取らない。
「夫として断る」
「大公として生きてください」
「参謀長として命令を聞け」
二人が一つのマスクを押し合う。
ソフィアが予備のフィルタ式マスクを投げた。
「夫婦喧嘩は、装着後にしてください」
ヴォロディミルが受け取る。
「最初から持っていた?」
「予備を確認しない人へ、先に渡したくありませんでした」
ソフィア自身もマスクを着けていた。
胸郭の内側では人工心臓が一定の流量を保ち、人工肝臓の監視系が血中の異物を拾っている。
それでも肺は生身だった。刺激剤を吸えば咳き込み、酸素が落ちれば思考も鈍る。
彼女の半身は機械だったが、呼吸まで代替されてはいない。
銃撃の中でも、ソフィアの手順は教育を諦めない。
*
襲撃者が防弾盾を押して入る。
ソーコルは床へ落ちた同時通訳用ケーブルを掴み、盾の足元へ投げた。
先頭が踏む。
ケーブルが絡み、盾が傾く。
その隙間へ二発。
膝と肩。
後続が盾を捨て、左右へ射撃する。
ソーコルの脇腹へ一発。
防弾板の端を抜けた。
彼は倒れず、扉脇の非常閉鎖レバーを引く。
防火シャッターが降りる。
襲撃者二名を会議室側へ残し、残りを廊下へ切り離した。
「二名!」
ヴァローニュ警備隊が挟む。
一人は胸部へ被弾して死亡。
もう一人は手榴弾の安全ピンへ指を掛けた。
シェフチェンコがコーヒーポットを投げる。
熱くはない。
ラドヴィンが温度を確かめた、いつものぬるいコーヒーだった。
ポットが顔へ当たる。
襲撃者の手が外れ、警備官が床へ押さえた。
「役に立ったな」
シェフチェンコが言う。
ラドヴィンは咳きながら答えた。
「ぬるい方が安全だと言ったでしょう」
*
屋上へ接近したH225Mは、鋼索の間を通れなかった。
ドアガン射手が二本目の油圧箱を破壊する。
索がもう一本緩む。
操縦士は降下を開始した。
その前へ、シェレメートのSu-35BMが低空で入る。
空港の燃料ポンプが止まる前に離陸できた一機。
『不明H225M、直ちに会議区から離脱せよ』
ヘリは返答せず、ドアガンを戦闘機へ向けた。
「本気〜?」
シェレメートは機体を左へ倒し、ヘリの前を横切る。
衝撃波を出す速度ではない。
それでもSu-35BMの後流が大型ヘリを揺らした。
H225Mは降下を中止し、隣接ビルの陰へ逃げる。
シェレメートはミサイルを撃てない。
市街地の上で撃墜すれば、機体がどこへ落ちるか分からない。
機関砲も同じ。
武器を持つ戦闘機が、武器を使えない距離で追う。
H225Mは高架道路沿いに高度を下げた。
建物がレーダー視線を切る。
その屋上から、携帯地対空ミサイルが上がった。
9K338《イグラ-S》。
警報が短く鳴った。建物からの反射と市街の熱源が重なり、方位表示が定まらない。
地上の《ケルベロス》――ジャン=リュック・サンソンが白煙を見た。
「右へ逃げろ!」
戦術共通回線で叫ぶ。
シェレメートは誰の声か確認しない。
右へロールし、フレアを撒く。
ミサイルは一つ目のフレアを抜け、左エンジン後方で炸裂した。
破片が水平尾翼と油圧配管へ入る。
左系統圧力低下。
機体が振れる。
『被弾。操縦可能〜』
「空港へ戻れ」
サンソンの声。
『ヘリがまだいるよ〜』
「市街の防空班が追う。お前は帰れ」
『命令?』
「飛行経験者の忠告だ」
シェレメートは一秒考えた。
H225Mは西へ退き、会議区から離れている。
追えば、損傷機で市街地上空の低空戦になる。
『了解。借り一つ〜』
「生きてから数えろ」
Su-35BMは高度を上げた。
*
帰投中、左油圧系統が完全に落ちた。
予備系統の圧力も下がる。
空港滑走路には、燃料ポンプ区画から回された消防車が並んでいる。
シェレメートは脚を下ろした。
左主脚、ダウンロック表示なし。
低空通過。
管制塔が双眼鏡で確認する。
『左脚、半展開。固定されていない』
「もう一周する燃料は?」
『六分』
「十分〜」
彼女は急旋回しない。
速度を落とし、重力と気流で脚を下げる。非常展開装置を作動。
左主脚が最後まで落ち、機械式ロックが掛かった。
『三緑確認』
着陸。
接地直後、左脚の油圧ダンパが潰れた。
機体が左へ傾く。
翼端が滑走路を擦り、火花が百メートル伸びた。
シェレメートは右ブレーキと方向舵で機首を保つ。
速度が落ちる。
左脚が折れ、機体が腹をついた。
Su-35BMは誘導路手前で止まった。
キャノピーが開く。
シェレメートは自力で降りようとした。
左脇腹に、破片が刺さっていることへそこで気づいた。
飛行服が濃く濡れ、裂け目の奥に血と黒い複合材、銀色の編組線が一緒に見えた。
普通の人間なら、肋骨を割って肺へ達する軌道だった。
彼女の場合は、強化胸郭と人工肺の外殻が受け止めていた。
体内診断が、視野の隅へ三つの警告を重ねる。
左人工肺、出力五十八パーセント。
胸郭フレーム損傷。
高G耐性インプラント、切離。
脚立の途中で力が抜ける。
地上員が受け止めた。
「会議場は」
「戦闘継続」
「サンソンは」
「地下から地上へ移動中」
「なら、大丈夫〜」
根拠はなかった。
似た危険の見方をする男が、まだ動いている。それだけだった。
*
午後三時十三分。
会議室の第一波は退けられた。
公国・ヴァローニュ側死亡十一、重傷十九。
襲撃者死亡九、拘束四。
元軍需相一名が連れ去られた。
地下証拠保全室で火災。
原本の一部が焼損したが、複製はキミロフ、ヴェルニア、アンバー海上の三か所にある。
ヴォロディミル、ペトレンコ、シェフチェンコ、ラドヴィンは会議室内で孤立。
ソーコル大佐は脇腹を負傷し、意識あり。
外部通信は不安定。
H225Mの所在不明。
市内では、偽の警察命令が複数流れている。
ヴァローニュ共和国全土が制圧されたわけではない。
アルシェールの一地区で、誰が本物の命令を出しているか分からなくなった。
それだけで、首都機能は十分に麻痺した。
午後三時十五分。
ヴァローニュ政府の緊急発動符号が届いた。
効力発生時刻は、午後二時三十分へ遡及。
南退避路から代表団・職員八十四名が搬出され、空軍基地では飛行計画のない二機目の回転翼機が離陸前に拘束された。
公国側が先行した退避・封鎖・航空措置は事後承認された。武器使用記録だけは、別途審査へ回された。
「緊急例外は、これで三度目です」
ソフィアが記録を送る。
ペトレンコは死傷者一覧を見た。
「今回は、一人を奪われました」
「八十四人は外へ出ました」
「成功と書きますか」
「両方書きます」
ソフィアは、例外番号を消さなかった。
*
サンソンは空港医療区画へ着いた。
会議場へ戻る途中、損傷したSu-35BMの報告を受け、進路を変えた。
医療テントの中で、シェレメートは輸血を受けている。
意識はある。
顔色は悪い。
「帰れと言ったはずだ」
サンソンが言う。
「帰ったよ〜」
「着陸を帰投と呼ぶならな」
「借り、二つになった〜」
「一つだ」
「ミサイル警告と、会いに来た分〜」
サンソンは答えず、医官へ状況を聞く。
「破片は強化肋骨で止まっています。人工肺の外殻に擦過傷。胸郭の駆動ハーネスが一部断線。生体臓器の損傷は現時点でありません」
「手術か」
「生体側は手術です。機械側は修理になります。両方できる設備へ移します」
医官が圧迫材を交換すると、傷口の脇から炭素複合材の骨格と、切れた編組線の端が現れた。
肉と機械が、同じ血で汚れている。
サンソンは一度だけ目を細めた。
「七割のうち、どこが壊れた」
「人工肺と胸郭。壊れたところは直せるよ〜」
「残り三割は血を流す。黙って寝ていろ」
「心配してる〜?」
「故障診断だ」
外で、再び爆発音がした。
会議区の方向。
シェレメートが起きようとする。
「寝ていろ」
「殿下がいる」
「俺が戻る」
「一人で?」
「特別介入群は、俺一人じゃない」
サンソンはガスマスクを装着した。
童顔が黒い面の下へ消える。
「それ、怖いね〜」
「敵がそう思えばいい」
彼はHK416Fの弾倉を確認する。
「生きて戻って」
「命令か」
「飛行経験者の忠告〜」
サンソンは一度だけ振り返った。
「了解」
午後三時四十二分。
医療区画へ入ってきた救急搬送車は、サイレンを鳴らしていなかった。
車体側面にはヴァローニュ救急庁の紋章。前輪には会議区の石粉。だが、荷室の重さに対して後輪の沈み込みが浅い。
負傷者ではなく、武装した人間を運ぶ車の姿勢だった。
サンソンは医官へ伏せろと言うより先に、シェレメートの寝台を蹴って酸素ボンベの陰へ滑らせた。
搬送車の後扉が開く。
消音器付きのAK-105が三本、白い午後へ出た。
最初の弾列が医療テントの入口を横へ裂いた。透明窓が細かな膜になって弾け、点滴架台へ当たった弾丸が甲高く潰れる。消毒用アルコール、焼けた樹脂、滑走路から漂う航空燃料の匂いが一度に混じった。
サンソンはHK416Fを負い紐で胸へ吊り、右手だけで三点射した。
先頭の襲撃者が車軸の陰へ倒れる。
二人目はテント側面へ回った。三人目は、シェレメートの機体から回収された飛行記録装置へ向かう。
「記録装置と私、どっちが本命かな〜」
「喋るな」
サンソンの左手は、彼女の脇腹に開いた整備口へ入っていた。
切れた胸郭駆動ハーネスを抜く。絶縁材の裂け目から微弱な火花が走り、手袋の甲へ血が伝った。人工肺の外殻は一呼吸ごとに不規則な振動を返す。胸郭フレームの傷んだ駆動子が、生体の呼吸へ半拍遅れて噛みついていた。
「右、二時。白衣の下に予備弾倉〜」
シェレメートは痛覚警告を消さなかった。消せば、自分のどこまでが壊れているか分からなくなる。
サンソンは右へ一発。
偽医官の肩が回り、弾倉がアスファルトへ散った。
飛行記録装置へ走った三人目は、格納庫側から飛んだ二発に脚を払われた。誰が撃ったかまでは、テントの骨組みが邪魔で見えない。
返ってきた弾丸が酸素ボンベの保護架を叩く。鋼の輪が鐘のように鳴り、寝台の脚から細かな震えが彼女の強化胸郭へ上がった。生体の傷は灼け、人工肺は冷たい警告だけを返した。
サンソンは損傷回路を切り離し、予備の現場用バイパス端子を差し込んだ。
これは修理ではない。
壊れた機械を直す作業でも、裂けた肉を縫う手術でもない。胸郭駆動の一系統を殺し、残った人工肺へ最低限の同期信号を渡すだけの応急処置だった。
左人工肺の出力が五十八から六十へ上がる。
六十一。
それ以上は上げない。圧を掛ければ、破片で傷ついた生体側から先に裂ける。
「けち〜」
「生きて文句を言え」
搬送車の運転席から四人目が降りた。
サンソンは空になった弾倉を落とす。左手を端子から離せない。新しい弾倉へ届く前に、相手の銃口が上がる。
銃声が二つ重なった。
襲撃者の胸板が後ろへ折れ、救急車の扉へぶつかる。
格納庫側から第八十八特務支援群の警備班が走り込んでいた。先頭の隊員は銃口を下げず、倒れた四人の手を一人ずつ確認する。
「医療区画、確保。搬送車は偽装。運転手を含め四名」
サンソンはようやく左手を離した。
人工肺の作動音はまだ歪んでいる。それでも、一呼吸ごとに同じ場所で引っ掛かるようになった。不規則より、規則的な故障の方が搬送には向いている。
「ハグ一回、未払い〜」
シェレメートが言った。
「今の作業で相殺した」
「整備は整備。ハグはハグ〜」
「会計基準が違う」
「じゃあ、キスでもいいよ〜」
血の気を失った顔で、目だけが妙に楽しそうだった。
サンソンは手袋の汚れていない手首側で、彼女の額から乱れた髪を押し戻した。次に頭頂を一度だけ撫でる。あやすには硬く、拒むには長い手つきだった。
「一部返済だ。残りは、手術と修理が終わってから請求しろ」
「キスも?」
「鎮痛剤を増やせ」
医官が、今度だけは笑わずに頷いた。
シェレメートは目を閉じる。
「逃げた〜」
「生きていれば追える」
サンソンは血の付いた端子カバーを閉じ、HK416Fへ新しい弾倉を入れた。
午後四時十九分までに地下指揮所へ戻るため、彼に残された時間は三十七分だった。
午後二時三十分に始まった攻撃は、二時間目へ入っていた。
帝国は白旗を上げた。
その陰で、別の誰かが、戦争を終わらせないための人間を回収していた。




