第七十九話 法廷になる前
アルシェール会議の初日、被告席はなかった。
裁判官もいない。
検察官もいない。
あるのは長机、同時通訳、証拠箱、停戦線の地図だった。
旧法務省の会議室は、磨かれた樫の机と黄褐色の石壁でできていた。雨に濡れた外套の湿気、通訳卓の熱い配線、冷めたコーヒー、開封前の紙箱から立つ乾いた段ボールの臭いが同じ空調へ混じる。停戦線の地図は壁一面を占め、その赤線だけが室内のどの装飾より鮮やかだった。
それでも、報道陣の半分は《戦争裁判開廷》と速報した。
「見出しを訂正させますか」
広報官が聞いた。
シェフチェンコ外務卿は、配信画面を閉じる。
「公式記録を正しくします。見出しは明日、別の見出しに負けます」
「裁判を望む市民は多い」
「望むことと、今日ここで開けることは別です」
拙速な裁判は、復讐には使える。
有罪判決を長く残すには使えない。
*
午前会合の第一議題は、停戦延長だった。
公国側は十四日。
帝国暫定政府は三十日。
北方三国は、強制移送者の帰還速度と連動させるよう求めた。
帝国外相ラドヴィンは、ぬるいコーヒーを一口飲んだ。
「三十日なければ、前線部隊を統制できない」
シェフチェンコが答える。
「統制できない部隊へ、三十日分の再編時間を与えることになります」
「十四日で政治体制を変えろと?」
「砲を撃たないのに、体制変更は不要です」
「あなた方は簡単に言う」
「前回、二十一日以内の撤兵を簡単だと笑ったのは帝国です」
ラドヴィンはカップを置いた。
「あの時の私は、別の政府を代表していた」
「今日は?」
「明日まで残るか分からない政府だ」
会議室が静かになる。
外交官が自国政府の弱さを認めるのは、弱さそのものより危険だった。
「だから三十日です」
ラドヴィンは続けた。
「暫定政府が軍へ給与を払い、燃料を止め、司令官を交代させる時間が要る」
ボンダレンコが資料をめくる。
帝国軍給与台帳は三冊に分かれ、兵士の氏名と未払い月数が薄い紙へ細かく詰め込まれていた。指で頁を送るたび紙粉が袖へ付き、綴じ金具が机を擦る。国家財政の破綻は数字では静かでも、印刷すれば持ち上げる手首へ重かった。
「給与財源は」
「ありません」
「正直だな」
「帝国債を引き受けていただけますか」
「敵軍の給料を公国が払う?」
「失業した兵士が銃を売り始めるより安い」
ボンダレンコは笑わなかった。
腹立たしいほど、計算は正しい。
「武器集積と名簿提出を条件に、給与基金を国際管理へ置く」
彼は言った。
「帝国政府へ現金は渡さない。兵士本人へ直接払う」
「主権侵害です」
「金がない時だけ主権を思い出すな」
*
午前十一時二十分。
停戦は二十一日で暫定合意した。
七日ごとの履行審査。
強制移送者名簿の訂正件数。
重火器の集積率。
停戦違反件数。
三つの指標が改善しなければ、自動延長しない。
次の議題は、重大犯罪の証拠保全。
ここで机の配置が変わった。
帝国代表団と公国側の間へ、法務専門家が座る。
ヴァローニュ共和国の判事。
北方三国の検察官。
帝国暫定政府の法務官。
被疑者三名の弁護人。
弁護人を入れることへ、会場外の市民団体が抗議していた。
「虐殺者へ権利を与えるのか」と。
ペトレンコは右手で証拠一覧を開く。
「権利を与えるのではありません」
彼女は会議で言った。
「国家が奪えないものとして扱います。そうしなければ、帝国がしたことと手続の違いを説明できません」
被疑者側弁護人が彼女を見る。
「公国側証拠には、軍事作戦で押収されたものが多い。証拠能力を争います」
「争ってください」
「不満は」
「あります」
ペトレンコは答えた。
「ですが、不満と手続は別です」
彼女の左腕は固定具の中で痛む。
式典襲撃の死者を思えば、帝国側の男たちへ弁護士が付くことを快く思えない。
快く思えないから外すなら、手続は感情の強い日に壊れる。
弁護人は、最初の箱を机へ置かせた。
カレングラード南方の地下指揮所から押収された作戦日誌。
箱の底には地下壕の細かな砂が残り、湿った革表紙からは黴と発射薬、消火剤の臭いがした。砲撃で潰れた角には暗褐色の染みがあり、それが錆か血か、開封前には誰も決めなかった。封印紐を切る鋏の音だけが、同時通訳の止まった室内へ小さく響いた。
封印番号は公国軍、北方三国検察、帝国暫定政府の三つ。
「開封前に異議を申し立てます」
弁護人が言った。
北方三国の検察官が眉を上げる。
「まだ中を見ていない」
「だからです。見た後では、汚染された印象を戻せません」
異議の理由は、押収から最初の撮影まで十九分空いていることだった。
戦闘終了直後。
指揮所内には公国軍工兵、第八十八群、帝国軍捕虜がいた。
映像記録は入口だけ。
誰かが頁を足した可能性を、完全には排除できない。
検察官が言う。
「現場は砲撃下だった。撮影班の到着が遅れた」
「事情は理解します。証拠の真正とは別です」
ペトレンコは弁護人を見た。
式典襲撃の後、自分が同じ言葉を口にした。
理解と免責は別。
立場が変われば不快になるだけで、理屈は変わらない。
「箱は開けます」
ヴァローニュ判事が判断した。
「ただし、日誌の内容だけで事実認定しない。紙、インク、筆跡、デジタル通信、証人供述との一致を求める。十九分の空白は記録へ残す」
封印を三者で切る。
頁を一枚ずつ撮影。
紙は爆圧と湿気で波打ち、鉛筆の筆圧が次頁まで浅い溝になっていた。撮影台のガラスで伸ばすと、乾いた繊維がかすかに鳴る。軽く扱えば破れる。重く扱えば筆跡を傷める。そこに書かれた命令と同じく、触れ方そのものが後の争点になった。
日誌には、強制移送列車の護衛命令があった。
署名は、会議区の司法宿舎へ置かれた元西部軍管区司令官のもの。
会場の空気が変わる。
ペトレンコは署名を見ても、男の顔を見なかった。
紙が有罪を叫んでも、手続は叫ばない。
それを守るために会議へ来た。
復讐を遅らせるのではない。
後から誰にも消せない形へ変えるためだった。
*
共同証拠保全委員会の権限は限定された。
証拠の収集、複製、翻訳、保管。
証人の安全確保。
集団墓地と拘束施設の現場保存。
被疑者の暫定的な移動制限。
起訴権はない。
判決も出せない。
将来の裁判所は、別の条約で作る。
管轄対象は、国籍ではなく行為地と被害者。
指揮官責任は、地位だけでなく、犯罪を知ったか、知り得たか、阻止・処罰する能力があったかを要件にする。
「皇帝は自動的に被告となるのか」
帝国法務官が聞いた。
「自動ではありません」
ヴァローニュ判事が答える。
「署名した命令と、報告を受けた記録を調べます」
「元首免責は」
「将来の条約で明示します。少なくとも、証拠調査を妨げる免責は認めない」
会場外では、弱腰と批判される。
会場内では、帝国側が勝者の裁判だと批判する。
双方から不満が出ることは、中立の証明ではない。
ただ、どちらの要求もそのまま通していないことは分かった。
*
昼休み。
食堂のメニューは、鶏肉の白ワイン煮と豆の温サラダだった。
ボンダレンコは豆を見て立ち止まる。
「戦争が終わりかけると、豆が追ってくる」
ラドヴィンが隣の皿を取った。
「帝国では、敗戦すると配給が豆になる」
「公国では、勝っても豆だ」
「なら、どちらも負けた」
二人は同じ卓へ座った。
午前中、賠償と軍人給与で争った相手だった。
ボンダレンコが聞く。
「本当に政府はもたないのか」
「今日の夕食までは」
「短いな」
「夕食は何だ」
「魚」
「なら、明日の朝まで努力する」
どうでもいい会話だった。
同時に、ラドヴィンが毒殺を恐れず同じ料理を食べる程度には、会議を続ける意思があると分かった。
会話の主導権は、時々豆の皿へ移る。
昼休みの終わり、ヴォロディミルは予定を変えて正面階段へ出た。
防弾ガラスの内側ではない。
警備線のこちら側。
会議区前には、礼拝堂と解放式典の遺族が集まっていた。二十三人分の写真が、雨除けの透明板へ入れられている。
小雨は石段を鏡のように濡らし、警備車両の青色灯を足元で伸ばしていた。写真を包む透明板には水滴と指紋が重なり、供えられた花の茎から青い匂いが立つ。通りを走るバスのブレーキ音、遠い教会鐘、群衆の抑えた息が、厚い庁舎扉の前で一つの低いざわめきになった。
《なぜ殺人者に弁護士を与える》
《停戦は埋葬の後にしろ》
護衛は、彼を三分で戻す予定だった。
最初に話しかけたのは、式典で夫を失った女性だった。
「陛下は、あの人たちを許すんですか」
声は大きくない。
大きくないから、答えを演説へ逃がせなかった。
「許しません」
「弁護士を付けるのに」
「弁護士は許しではありません」
「逃げ道を教える人でしょう」
ヴォロディミルは、透明板の中の男を見た。
名前は知っている。
死者一覧の六番目。
生前に何をしていたかまでは、資料へなかった。
「私が怒っている日に作った判決は、次の皇帝が気に入らなければ壊せます」
女性は黙って聞く。
「証拠を見せ、反論させ、それでも有罪にする。そうすれば、私が死んだ後も残る」
「死刑にするため?」
「刑罰は裁判所が決めます」
「それも逃げですか」
護衛が時計を見る。
ヴォロディミルは見なかった。
「はい。私が決めれば早い。でも、私一人の感情で決められる国から逃げるためです」
女性は納得しなかった。
納得しないまま、写真を抱き直した。
「夫は救急隊員でした」
「教えてくれて、ありがとうございます」
死者一覧へ、職業が一つ増える。
三分は七分になった。
会議場へ戻る階段で、護衛長が言う。
「狙撃対策の予定が崩れました」
「申し訳ない」
「謝罪は報告書へ添付します」
「減給は」
「国庫が喜びます」
軽口は、階段を上がるまでだった。
扉の内側には、遺族が納得しない制度を、それでも壊れない形にする仕事が待っていた。
午後一時二十分、警備会合でも期限付きの制度が一つ増えた。
会議区へ複合攻撃が発生した場合、ヴァローニュ内務省の発動符号を受けて、ペトレンコが緊急調整官となる。
有効時間は六時間。
権限は避難、救難、空域閉鎖、部隊間の目標重複防止まで。
攻勢作戦と、容疑者の処刑命令は含まない。
各国部隊の指揮官は、国内法に反する命令を拒否できる。
「私は外国軍人です」
ペトレンコが言った。
ヴァローニュ内務次官は頷いた。
「だから選びました。我々の警察と憲兵と空軍は、互いを指揮できない。あなたは全員を指揮しない代わりに、全員へ同じ優先順位を示せる」
「発動符号が届くまでは、権限なし」
ソフィアが確認する。
鎖骨下の診断端子を一度押さえる。
端子の縁では人工皮膚が薄く白み、指を離すとすぐ元の色へ戻った。胸骨の裏で人工心臓が一定の拍動を刻み、肝機能補助器の循環ポンプがそれより高い周期で微振動を返す。人間の緊張なら速くなるはずの脈は変わらない。代わりに、処理負荷と薬剤濃度が数字で上がった。
腕端末では人工心臓と人工肝臓の自己診断が完了し、二つの表示が緑へ変わっていた。
身体の機械には、故障時の切離手順がある。
国家の臨時権限にも、同じものが要る。
「その通りです」
書類には、終了時刻まで先に印字されていた。
例外を常設しないための工夫だった。
*
別室で、サンソン少佐は警備交代表を見ていた。
紙の交代表には厨房の油が薄く染み、現場で折り畳まれた跡が何本も走っていた。画面へ移せば検索できる。紙で持てば、書き換えた時の筆圧とインクの違いが残る。サンソンは代替要員の欄だけが別の青で書かれているのを、指腹でなぞらずに見た。
清掃業者二十八名。
調理員四十一名。
通訳二十三名。
設備員十六名。
全員、三系統の身元照会を通過。
一人だけ、今日の午前に代替要員へ変わっている。
食器回収担当、エミール・ロラン。
元の担当者は急性胃腸炎で欠勤。
診断書あり。
代替者の顔写真と、入口カメラの顔が一致しない。
「どこにいる」
警備官が無線で照会する。
『食堂にはいません』
『食器搬送用エレベーター、地下二階で停止』
『監視カメラ、十二分前から静止画』
サンソンは立ち上がる。
「会議再開を遅らせろ」
『理由は』
「食器が一枚足りない」
『冗談ですか』
「人間も一人だ」
腕端末が短く震えた。空港側の整備回線から、シェレメートの診断終了通知が届いている。
《左人工肺、圧力差正常。飛行許可継続》
その下へ、本人が権限外の一行を足していた。
《頭なで一回受領。ハグ一回未払い〜》
サンソンは通知を既読にし、返信欄へ《任務後》と打ちかけて消した。代わりに《飛行待機。勝手に来るな》と送る。
三秒後、《考えとく〜》と返った。
命令を聞く気があるのかないのか分からない。だが、危険の方角を示せば、あの操縦士は最短距離で来る。サンソンはそれを、頼もしさではなく警備上の問題として処理した。
*
午後二時十五分。
警備側は会議再開を十五分遅らせた。
公式理由は、通訳設備の不具合。
地下二階のエレベーターは空だった。
扉が開くと、油の切れた案内レールが長く軋んだ。地下の空気は冷たく、排水管の錆と厨房から降りた洗剤の柑橘臭が混じっている。非常灯の緑が床の水膜へ映り、誰もいない廊下を二重に見せた。
床に食器用カートの車輪痕。
旧証拠品搬送路へ続く石膏壁の前で消えている。
壁裏の振動センサーは反応していない。
誰かが、センサーを避ける位置を知っている。
二酸化炭素センサーは、基準値より〇・〇三パーセント高い。
人がいるのか。
換気が止まっただけか。
断定できない。
午後二時二十八分。
全体会合は再開された。
シェフチェンコが席へ着く。
ラドヴィンは新しいコーヒーの温度を確かめる。
ヴォロディミルとペトレンコは、机を挟んで別々の列。
サンソンは地下二階へ向かう。
食器用カートが一台、貨物エレベーターへ乗った。
積まれているのは皿ではない。
折り畳まれた防弾盾と、ヴァローニュ警備隊の制服だった。
盾の縁には布が巻かれ、金属同士が触れて音を出さないよう処理されていた。制服は洗濯済みの糊の臭いがし、その下には短銃身の小銃、結束帯、使い捨て手袋が重量順に収められている。食器カートの小さな車輪は本来の積載量を超え、継ぎ目を越えるたびゴムを潰して低く呻いた。
午後二時二十九分五十二秒。
法廷になる前の会議は、あと八秒だけ平和だった。




