第七十八話 アルシェール行き
アルシェールへ向かう公国代表団は、代表団の形をしていなかった。
大公ヴォロディミルとシェフチェンコ外務卿は、ヴァローニュ政府のA319CJ。
ペトレンコ、ソフィア、ボンダレンコは、二時間後のC-17A輸送機。
第八十八特務支援群と証拠保全班は、前日にA400Mで出発。
シェレメートはSu-35BM二機のうち一機を操縦し、別経路から入る。
ホロボロドコは北方三国に残る。
ザハルチェンコはアンバー海の艦隊指揮を継続。
ヴォロディミルが死んでも、公国軍は動く。
ペトレンコが死んでも、作戦命令は失効しない。
二人が同時に死んでも、継承順位と統合指揮権の移行先は封印命令書にある。
三通の封筒は鉛封印のついた耐火箱へ収まり、箱はさらに別々の車両へ積まれた。紙の厚みは数ミリしかないのに、護衛は一箱を二人で運ぶ。落とせば壊れる重さではなく、開く状況になれば国家の形が変わる重さだった。
「縁起が悪い」
ヴォロディミルは三通目の死亡時手順を読んだ。
「必要です」
ソフィアが答える。
「新婚旅行の行程表にも、死亡時手順を入れる気か」
「目的地が安全なら不要です」
「今回は」
「必要です」
迷いがなかった。
*
出発前夜、ヴォロディミルとペトレンコは同じ部屋にいた。
窓の外ではキミロフの冬雨が宮殿の銅屋根を黒く濡らし、復旧した街灯とまだ暗い街区を交互に映していた。暖炉は使われず、仮設暖房機の送風音がカーテンをわずかに揺らす。二つの鞄の金具が床へ触れる音だけが、部屋を出る時刻を近づけていた。
荷物は二つ。
飛行機は別。
到着後の宿泊施設も別棟。
公式日程で二人が同じ空間へ入るのは、全体会合の四十八分だけだった。
「結婚生活の改善を要求する」
ヴォロディミルが言った。
「停戦条件へ追加しますか」
「帝国も驚くだろう」
「共同寝室の提供は、戦争終結と関係ありません」
「私にはある」
ペトレンコは右手でネクタイを結び直した。
左腕は固定具の中にある。
「帰国後、四十八時間の休暇を申請してください」
「承認者は」
「私です」
「利益相反では」
「共同利益です」
ヴォロディミルは少し笑った。
「必ず帰る」
「守れない約束はしないでください」
「努力目標」
「数値化を」
「百パーセント」
「却下します」
彼女はネクタイから手を離さず、額を彼の胸へ一秒だけ預けた。
感情を長く置けば、出発できなくなる。
一秒で十分だった。
*
A319CJは午前六時二十分、キミロフを離陸した。
護衛はF-2A二機。
飛行経路は事前公表せず、離陸後に三候補から選んだ。
機内の会議机で、シェフチェンコが帝国側最終回答を読む。
停戦延長、十四日。
カレングラードの重火器後退開始。
強制移送者名簿の再提出。
重大犯罪の証拠保全委員会へ参加。
帝国側は、皇帝の法的免責を要求していた。
「受け入れない」
ヴォロディミルが言う。
「即答ですか」
「元首だから免責なら、私も何をしても裁かれない」
「帝国は、退位と権限移譲の対価だと主張します」
「退位は免罪符ではない」
「交渉が止まります」
「では、訴追対象を限定する。地位ではなく行為で判断する」
シェフチェンコは修正案を書く。
皇帝であることを罪にしない。
皇帝であることを免責理由にもしない。
命令、認識、阻止可能性、結果。
責任を肩書から行為へ戻す。
*
二時間後、C-17Aが離陸した。
貨物室前方に仮設された十六席。
後部には証拠保全用の耐火コンテナ、通信車一両、医療器材、予備発電機。
外交団が乗る機体としては快適ではない。
床は冷たく、エンジン音が会話を削る。
四基のF117エンジンが巡航出力へ落ちても、貨物室の薄い内張りは低周波の震えを止めなかった。胴体が乱気流へ入るたび、耐火コンテナの固定鎖が床環を硬く引き、通信車のサスペンションが機内で数センチだけ沈む。航空燃料、油圧作動油、金属床へ染みた古い汗の臭いが、冷たい空気へ混じっていた。
ボンダレンコは耳栓を外した。
「A319の座席は革張りか」
「確認していません」
ソフィアが答える。
「国家元首だけ尻が柔らかいのは不公平だ」
ペトレンコは右手で安全ベルトを締める。
「撃墜時の生存性は、こちらが上です」
「慰めになってない」
「財務卿の座席は貨物固定点へ直結しています」
「もっとなってない」
離陸後四十分、衛星通信でA319側と接続する。
ヴォロディミルの映像は一秒遅れた。
『快適?』
「あなたの死亡時手順を読んでいます」
『愛情を感じる』
「第三版に誤字があります」
『死後に直す』
「今、直してください」
回線の向こうで、彼は修正ペンを取った。
夫婦の会話は、遺言の誤字を挟んでも続いた。
シェレメートのSu-35BM編隊は、二便より四十分遅れてヴァローニュ防空識別圏へ入った。
高度一万一千メートル。
成層圏の光は色が薄く、下方の雲海だけが青い影を持っていた。Su-35BMの機首は微細な乱流を拾い、前縁と風防枠から絶えない振動をシェレメートの背へ送る。機体の油圧ポンプと彼女の人工肺は別々の周期で働き、旋回に入ると二つの圧力変化が胸郭の内外から同時に来た。
外部燃料タンクなし。
兵装はR-77-1四発、R-73二発。外交会議の護衛としては多い。式典の空へ武装襲撃機を通した後では、少ないと言う者もいた。
『公国編隊、こちらヴァローニュ管制。識別のため右へ三十度』
「公国一、右三十〜」
声はいつもどおり伸びる。
操縦桿は、一度で必要な角度へ入った。
右旋回のGが身体を座席へ押し、飛行服の下で強化胸郭が短く軋んだ。生身なら無意識に遅れる血圧補正を、体内制御器が先に開始する。視界は狭まらない。代わりに診断表示の片隅で、左肺側の圧力差だけが数字として跳ねた。
右前方からラファールC二機が接近する。ミーティアとMICAを搭載し、片方は機首下の前方監視装置をこちらへ向けていた。
護衛ではない。
最初の仕事は、入ってくる公国機が本当に公国機か確認することだった。
『公国一、左翼下面の識別灯を点灯』
「はいはい。次は翼を振る?」
『必要なら』
シェレメートは灯火を点けた。
僚機とのデータリンクは正常。
後方百八十キロのE-7Aから受ける共通状況図も一致。
ただし、識別信号が一致しても操縦士まで本物とは限らない。
ラファールが三百メートルまで寄り、操縦席を目視する。
シェレメートは酸素マスク越しに手を振った。
『写真より喋りそうだ』
相手の無線へ、別の低い声が入った。
後でサンソンと名乗る男だった。
ヴァローニュ国家憲兵特別介入群でのコードネームは、《ケルベロス》。
「見ただけで分かるの〜?」
『飛び方で半分。無線で残り半分』
「撃墜判定?」
『入域許可だ。第三掩体へ誘導する』
愛想はない。
だが、飛行計画と違う掩体を無線で平然と指定した。
シェレメートは僚機へ暗号短文を送る。
《地上警備、予定変更。指示者を確認中。警戒維持》
信用は、歓迎の言葉では生まれない。
互いに疑い、疑う理由を説明できた時に、ようやく始まる。
*
アルシェール国際空港の北側軍用区画へ、二便は別々に降りた。
アルシェールの空は雨上がりの淡い銀色だった。滑走路の向こうに、灰青色の屋根と蜂蜜色の石造建築が霞み、市内河川沿いの並木は濡れた黒い枝を伸ばしている。誘導灯の赤と緑が水膜へ長く滲み、着陸したジェットの逆噴射がその色を霧ごと後方へ吹き払った。
滑走路周辺にはヴァローニュ共和国のラファールB四機。
地上警備は国家憲兵特別介入群。
黒い戦闘服の指揮官が、シェレメートを待っていた。
ガスマスクは着けていない。
三十二歳。
金髪を短く切り、左耳へ古い火傷痕。
その前で、公国の整備員がシェレメートの飛行服を開き、左鎖骨下の診断端子へケーブルを接続した。
端子周囲の人工皮膚には、繰り返し接続した細い圧痕が残っていた。ロックが掛かると、小さな機械音の直後に胸の奥でポンプ圧が一段変わる。冷えた外気の中、排熱口に近い皮膚だけが人肌よりわずかに高い温度を持っていた。
人工肺の圧力。強化胸郭の歪み。高G耐性インプラントの温度。
機体の飛行記録と、操縦士の体内記録が同じ端末へ吸い上げられる。
サンソンは、その作業を見ても視線を逸らさなかった。
「ジャン=リュック・サンソン少佐。会議区航空警備担当」
「シェレメートだよ〜」
「知っています」
「写真より若い?」
「写真より喋る」
「サイボーグを見るのは初めて〜?」
「飛行前点検を人間と機体で同時にやる奴は初めてだ」
「七割は機械だから、まとめた方が速い〜」
シェレメートは一瞬止まり、それから笑った。
「気に入った〜」
整備員がケーブルを抜こうとした時、診断画面に人工肺の左右差が残った。サンソンは端末を覗き込み、許可を求めるより先にコネクタの固定環へ指を当てた。触れたのは皮膚ではなく、金属と樹脂の境目だけだった。
「飛行中、左が遅れたな」
「分かるの〜?」
「ラファールの環境制御系と似た脈動が出ている。配管ではなく、固定環の遊びだ」
四分の一回転。人工肺の圧力差が〇へ寄る。
シェレメートはサンソンの手首を掴み、逃がさない程度に引いた。
「直した人には、ご褒美いる〜?」
「整備記録へ署名を」
「ハグとか〜」
「初対面だ」
「じゃあ頭なでるだけ〜」
サンソンは三秒黙り、手袋を外さないまま彼女の頭頂を一度だけ撫でた。あやすというより、点検済みの機器へ封印を置くような不器用さだった。
「これで第三掩体へ行け」
「は〜い」
強者に命令されることを嫌う彼女が、その一言には素直に従った。彼女自身、その理由をまだ言葉にしなかった。
サンソンは笑わない。
「機体を第三掩体へ。第一と第二は整備員名簿に不一致がある」
「罠?」
「分からない。分からない場所へ、あなたの機体を入れない」
その答えで、シェレメートの目が少し真面目になった。
「元パイロット?」
「ラファールM」
「空母?」
「六年前まで」
「なぜ憲兵に」
「飛行機は、撃ってくる相手が見える。地上の方が難しい」
「変わってる〜」
「よく言われます」
恋ではない。
尊敬にも、まだ早い。
ただ、危険の見方が似ている人間を見つけた時の、短い興味だった。
会議区の警備組織は、五つに分かれていた。
国家憲兵。
首都警察。
空軍基地警備隊。
司法警察。
各国代表団の護衛。
無線周波数も、位置表示も、身分証の形式も違う。
ヴァローニュ内務省は、会議期間中の状況図だけを《スティナ》へ統合するよう、公国へ正式に依頼した。
指揮権は移さない。
武器使用も各組織の規程に従う。
公国は、誰がどこにいて、どの命令を受け取っていないかを表示する。
「あなたが私を指揮するのか」
サンソンがソフィアへ聞いた。
「しません」
「では、何をする」
「あなたの命令が、三分遅れて届いた事実を全員へ見せます」
「嫌な仕事だな」
「よく言われます」
サンソンの視線が、ソフィアの襟元から腕端末へ伸びる細い診断線へ移った。
「それも医療機器か」
「人工心臓と人工肝臓の保守端末です」
「任務中につなぐのか」
「任務中だからです。停止してから異常を知っても遅いので」
「公国の人間は、全員こんな調子か」
「比較対象が不足しています」
最初の情報統合許可は六時間。継続時には再署名する条件で、ヴァローニュ側が署名した。
六時間後、異議なしの更新書類が届いた。
二度目の書式には、次の更新欄が三つ、最初から印刷されていた。
代表団の車列が軍用区画を出る直前、ボンダレンコは制限区域の格納庫で足を止めた。
半開きの防爆扉の向こうに、C-130系の太い垂直尾翼が二枚並んでいた。灰色の覆いは機首から主翼根元まで掛けられていたが、左舷側だけ布が不自然に膨らみ、砲架用フェアリングの角張った輪郭を隠しきれていない。さらに奥には三機目。エンジン二基を外され、翼下の配管へ赤札が束になって下がっていた。
「輸送機の保管費としては、弾薬管理員が多すぎるな」
ボンダレンコが呟く。
扉の前にいた第八十八特務支援群の隊員は、表情を変えなかった。
「退役機材です」
「退役機材は、二十五ミリ弾の給弾機構を毎朝点検しない」
「財務卿は見なかったことに」
「請求書が来るまではな」
車列が動き、扉は閉じた。内部では補助動力装置が一度だけ咳き込み、古いターボプロップの骨格へ電気を流した。公式には、まだ飛ばない機体だった。
*
会議場監査は、到着から始まった。
アルシェール国際会議区は、旧法務省庁舎と新会議棟を地下通路で結んでいる。
正面入口。
地下搬入口二か所。
地下鉄保守通路。
屋上ヘリポート。
清掃業者用エレベーター。
タブレットから復元した図面には、現行図面にない通路が一本あった。
旧法務省時代の証拠品搬送路。
三年前に封鎖済み。
現場では、壁が新しく塗られている。
旧庁舎の地下には、石灰、配管の錆、長年閉じた書庫の黴が染みついていた。そこだけ塗料の溶剤臭が新しく、白は周囲の象牙色から浮いている。靴裏で床を踏むと、封鎖壁の手前だけ響きが半拍長かった。
サンソンがハンマーで叩く。
音が軽い。
「コンクリートではない」
内視鏡を差す。
石膏ボードの裏に、幅一・二メートルの空間。
床には新しい靴跡。
電池式の誘導灯。
壁の向こうは地下駐車場だった。
「閉鎖は」
ヴァローニュ警備官が言う。
「しない」
サンソンが答える。
「監視する。相手が知っている入口を潰せば、知らない入口を使う」
ソフィアは小型センサーを三つ設置した。
振動。
二酸化炭素。
無線。
通路を通る人間は呼吸する。
電波を使わなくても、壁を踏む。
*
屋上ヘリポートの耐荷重票にも改ざんがあった。
原設計、最大九トン。
会議用資料、十二トン。
中型輸送ヘリを降ろせる数字へ変えられている。
署名した構造技師は、二か月前に退職。
本人へ連絡すると、署名を否定した。
「ヘリで回収する」
警備官が言う。
「可能性の一つです」
ソフィアは屋上から周囲を見る。
濡れたアルシェールは、上から見ると鉛色の屋根と淡い石壁、走る車列の赤い尾灯でできていた。川面は冬空を映して鈍く光り、遠い救急車の音が建物の谷間で向きを失う。美しい都市ほど射線が多い。観光写真の欄外に、給気口、非常階段、橋脚、屋上機械室が並んでいた。
隣接ビル三棟。
河川敷まで二・一キロ。
高架道路。
市街地のため、地対空ミサイルは置きにくい。
「屋上へ車両阻止杭を置きますか」
「ヘリが来なければ邪魔になる」
サンソンが言う。
「来た時だけ展開できる鋼索を、四方向へ」
「ローターを切る?」
「着陸させない。墜落させれば、庁舎へ落ちる」
目的は派手に落とすことではない。
使わせないことだった。
*
会議前日、帝国側の監視対象三名が到着した。
元軍需相。
西部軍管区元司令官。
国家保安総局の元作戦部長。
三人は別々の航空機、別々の車列。
ヴァローニュ司法当局の保護下へ入る。
表向きの収容先は、会議場隣接の司法宿舎。
実際には一人だけ別施設へ移した。
誰を移したかは、公国側でも五人しか知らない。
地下駐車場の監視カメラが、最初の車列を映す。
向かいのビル屋上で、清掃員の服を着た人物が窓を数えた。
車両は三台。
予定では四台だった。
人物は耳元へ触れる。
電波は出ない。
口の動きだけが、望遠カメラに残った。
――一人足りない。
誰かが、罠の形が変わったことへ気づいた。




