第七十七話 大人になるまで
ルツェンコ少将がキミロフへ戻った日、アレクセイは十一枚の質問票を持って待っていた。
第一防空旅団の戦闘詳報。
Buk-M3の射撃記録。
パンツィリ-S1が追尾を外した三件。
識別不明機へ発射を保留した二件。
そして、質問票の最後に一枚だけ、軍事と関係のない紙が挟まっていた。
会議室の窓から、冬の終わりの滑走路が見えた。除雪車が寄せた灰色の雪、融雪剤で白く乾いた舗装、遠くで暖機するBuk-M3指揮車の排気。室内にはコピー紙の乾いた臭いと、ルツェンコの野戦服が持ち込んだディーゼル煙が残っていた。
「多い」
ルツェンコは会議室の机へ書類を置いた。
野戦服の左袖に新しい縫い跡がある。タルヴァ東方で破片を受け、布だけ裂けた。
布の下では、衝撃でできた紫色の痣が肘から肩へ広がっている。腕を机へ置く角度によって鈍痛が走ったが、彼女は紙をめくる速さを変えなかった。無傷という報告は、仕事を止める傷ではないという意味にすぎない。
「少将が、分からないことは書けって」
アレクセイが答える。
脚の固定具は外れている。
走る許可はまだない。
「十一枚も分からないのか」
「九枚」
「残り二枚は」
「意見と、お願い」
「嫌な予感がする」
ルツェンコは一枚目を開いた。
*
質問一。
なぜ敵味方識別装置が応答しない輸送機を、すぐ撃たなかったのか。
「応答しない理由が、敵だからとは限らない」
ルツェンコは戦術画面を表示した。
停戦初日、接触線へ近づいたAn-26。
トランスポンダ応答なし。
無線も不通。
飛行計画にない。
Buk-M3中隊は追尾し、発射準備まで進めた。
「条件だけ見れば敵だ」
「じゃあ、なぜ」
「速度が遅い。針路が一定。護衛なし。機体後部から煙」
An-26は電気系統故障で通信と識別装置を失い、最寄りの滑走路へ向かっていた。乗員は窓から白い布を出していた。
「白旗?」
「操縦士のシャツだ。洗濯不足が一機救った」
「もし敵だったら」
「撃たれるかもしれない」
「怖くない?」
「怖い」
「少将も?」
「指揮官は、怖くない人間を前線へ置くべきじゃない」
アレクセイは書き留めた。
怖くない人は強い、と書きかけて消す。
「何を消した」
「別に」
「消した文字ほど読みたくなる」
「見ないで」
「なら最初から正しく書け」
*
質問二。
なぜ撃墜数より、発射保留の記録が長いのか。
「撃った後は結果が分かる」
ルツェンコが答える。
「保留した時は、撃たなかった理由を後から証明する必要がある」
「敵を逃がしたと言われる?」
「言われる。特に、画面だけ見ていた奴から」
「怒る?」
「報告書へは書かない」
「報告書の外では」
「よく知ってるな、ガキ」
質問三。
S-400とBuk-M3とパンツィリ-S1は、なぜ一つの部隊なのに別々の画面を使うのか。
「作った会社と年代と、偉い人の都合が違う」
「統合できない?」
「できる。完全には無理だ」
固定回線。
無線中継。
音声報告。
手入力。
最も新しいレーダー情報が、最も古い電話線を通ることがある。
「公国の防空網は強い?」
「強くなった」
「同じ?」
「違う。強いと思った瞬間から、穴を探さなくなる」
ルツェンコは少年のノートへ、赤で書いた。
《味方の宣伝を、敵の偵察より信用するな》
「子供向けじゃない」
「戦争が子供向けじゃない」
「でも教えてる」
「戦わせないために、分からせている」
質問四は、紙ではなく訓練室で答えた。
壁面へ投影されたのは、北方三国上空の模擬状況図。
訓練室は窓がなく、床下の計算機と冷却装置が低く唸っていた。投影された空は黒く、航空機は色のついた記号でしかない。現実の操縦席なら聞こえるエンジン音も、焦げた配線の臭いも、被弾した機体の震えもない。その欠落こそ、操作卓の判断を簡単に見せた。
旅客機一。
護衛戦闘機二。
識別不明の高速目標一。
アレクセイは子供用に高さを合わせた操作卓へ座った。発射ボタンは接続されていない。指令入力をしても、画面上の記号が動くだけだ。
「不明機が旅客機へ近づいてる」
「そうだな」
「護衛機は」
「燃料が少ない。三分後に離脱する」
「S-400なら届く」
「旅客機のすぐ横だ」
少年は射撃範囲を表示した。
円は大きい。
円が大きいことは、答えが増えることではなかった。外した時に落ちる場所まで増える。
アレクセイは画面の円を指でなぞりかけ、途中で止めた。指先一つ分の距離の下に、実際には町と道路と人がいる。記号は衝突しても痛がらない。だから、訓練する側が痛みの分まで想像しなければならなかった。
「警告する」
「応答なし」
「護衛機を近づける」
「燃料警報」
「旅客機を降下させる」
「雲の下に別の民間機」
条件が一つずつ増える。
アレクセイの手が止まった。
「ずるい」
「敵が公平な問題を出すと思うか」
「正解は」
「まだない」
ルツェンコは時間を進める。
不明機が針路を変えた。
旅客機ではなく、海上へ向かう。
信号故障した公国のSu-24MPだった。
「撃ってたら」
「味方を落としていた」
「待ったから助かった」
「今回はな」
画面を初期状態へ戻す。
「次は、待ったせいで旅客機が落ちる条件にする」
「どっちもやるの」
「片方だけなら、教える側が答えを誘導している」
アレクセイは新しい頁を開いた。
次の模擬状況では、レーダーはエスティア、迎撃機はラトヴァ、防空ミサイルは公国軍に属していた。
同じ目標を見ているのに、武器使用の確認先が三つある。
ラトヴァ側の回線だけが遅れた。
「少将が、全部決めたら早い」
アレクセイが言った。
「早いな」
「じゃあ、そうすればいい」
「私が正しい間はな」
ルツェンコは、三つの射撃範囲を一枚へ重ねた。
「一人へ集めれば、命令は速くなる。間違えた時も、全員が同じ方向へ速く間違える」
「どうすればいいの」
「速さを捨てず、止める人間を残す。まだ誰も、うまくできていない」
少年は、《一人に任せれば早い》と書いた。
その下へ、《早いことと正しいことは別》と足した。
正しい人が正解を知っている、という期待を一行目で消した。
ルツェンコが教えたかったのは、撃ち方ではない。
間違える可能性を、自分より先に疑う癖だった。
*
九枚目まで、二時間かかった。
アレクセイは途中で水を飲み、ルツェンコは煙草の代わりに硬い飴を噛んだ。基地内禁煙が厳しくなり、彼女の機嫌は防空警報より分かりやすくなっている。
「十枚目」
ルツェンコが読む。
《意見。少将は煙草をやめた方がいい》
「却下」
「医官も言ってた」
「医官は敵の手先だ」
「停戦違反」
「言うようになったな」
彼女は紙を裏返した。
十一枚目。
表題は、《大人になった時のお願い》。
ルツェンコの手が止まった。
アレクセイは椅子へ座り直す。
足が床へ届くようになったわけではない。
顔だけを真っすぐ向けた。
「僕は、少将が好きです」
「知ってる」
「強いからだけじゃない」
「今、説明しなくていい」
「聞いて」
ルツェンコは黙った。
「怖いって言うところ。分からない時に撃たないところ。父さんたちが帰らないかもしれない時、嘘を言わなかったところ」
少年は一度、息を吸う。
「大人になったら、僕と結婚してください」
*
会議室の外には、ヴォルコフとシーリンがいた。
聞き耳を立てるつもりはなかった。
扉が薄かっただけだ、と二人とも後で主張する。
ヴォルコフは額へ手を当てた。
シーリンは夫の脇腹を肘で押す。
「入らないの」
「入ってどうする」
「父親らしいことを」
「具体的には」
「分からないから、黙ってなさい」
二人は扉の外に残った。
これは、親が代わりに返事をする話ではない。
*
ルツェンコは、十一枚目を机へ置いた。
笑わない。
怒鳴らない。
子供の気持ちだからと、小さく扱わない。
同時に、大人の関係として受け取らない。
「アレクセイ」
初めて、ガキではなく名前で呼んだ。
「私は返事をしない」
少年の肩が下がる。
「嫌い?」
「そういう質問へ、今は答えない」
「待ってくれない?」
「待つとも約束しない」
言葉は硬い。
曖昧に期待を持たせないためだった。
「お前は八歳だ。私の保護対象で、訓練生で、後見契約の相手だ」
「でも、大人になったら」
「成人して、自分の生活を持って、私の命令を断れる立場になれ」
ルツェンコは続ける。
「それでも同じことを言いたいなら、その時に聞く。今日の返事を予約はしない。お前の未来も、私の未来も、今ここで縛らない」
アレクセイは唇を噛んだ。
「ずるい」
「大人はずるい」
「大公と同じ」
「あいつよりは予算に厳しい」
少年は笑わなかった。
泣くのを我慢していた。
ルツェンコは頭を撫でない。
頬にも触れない。
訓練生用の青い布章がずれているのを、指で真っすぐ直した。
布章の面ファスナーが小さく鳴った。触れたのはそこだけだった。慰めるために距離を曖昧にするより、境界を保ったまま話を聞く方が、大人の側には重い。彼女はその重さを少年へ持たせなかった。
「気持ちが本物でも、今できないことはある」
「飛行機と同じ?」
「似てる。クッションを入れれば安全になるわけじゃない」
アレクセイは、初めてL-39Cの操縦席へ座った日の航空医官を思い出した。
射出座席の硬い縁は脚の裏へ届かず、古いクッションは航空燃料と汗の臭いがした。肩ベルトを締めても身体は操縦桿から遠く、ペダルへ爪先を伸ばすと背が座席から浮いた。計器盤の黒い円は目の前に並んでいても、機体はまだ彼の身体を乗員として認めていなかった。
「身体が座席に合うまで待つ」
「身体だけじゃない」
「分かってる」
「本当か」
「少し」
「なら、今日はそれでいい」
*
ルツェンコは十一枚目へ、返答を書かなかった。
代わりにアレクセイへ返した。
「捨てないの」
「自分で持て。軍の記録へ入れる内容じゃない」
「少将は覚えてる?」
「防空指揮官の記憶力を疑うな」
ルツェンコは紙を折らなかった。子供の言葉を笑えば、今日だけは簡単になる。約束に変えれば、もっと簡単になる。どちらも、大人が自分の居心地のために子供の時間を使う行為だった。
肩の痣が脈を打つ。戦場の判断なら、射程、速度、残弾で切れる。人間の未来には射撃諸元がない。だからこそ、自分の階級と年齢だけは境界標にしなければならなかった。
「じゃあ紙はいらない」
「なくすな。大人になった時、読み返して恥ずかしくなる権利がある」
「恥ずかしくならなかったら」
「その時考えろ」
扉が開く。
ヴォルコフとシーリンが、偶然通りかかった顔で立っていた。
「長い会議だったな」
父が言う。
「聞いてた?」
「聞いてない」
「母さんは」
「扉が薄かったわ」
「聞いてた」
アレクセイは紙を胸へ抱えた。
恥ずかしさで顔が赤い。
それでも逃げなかった。
「僕、大人になる」
ヴォルコフは答える。
「急ぐな」
「どうして」
「大人になると、質問票が増える」
ルツェンコが十一枚を揃えた。
「こいつは今でも多い」
*
その夜、定時連絡は同じ二十時に行われた。
ルツェンコは第一防空旅団の指揮車。
アレクセイはキミロフの訓練室。
『今日の任務は』
「質問九個、意見一個、お願い一個」
『結果は』
「質問は回答。意見は却下。お願いは保留じゃなくて、回答なし」
『正確だ』
「明日は」
『学べ。治せ。大人になるのは、その後だ』
「了解」
関係は変わらなかった。
変えないことを、大人の側が選んだ。
子供の一途さを美談へせず、拒絶で傷つけるだけにもせず、未来の本人へ返した。
大人になるまでの時間は、約束の空白ではない。
自分の人生を、誰かへの返事より先に作るための時間だった。




