第七十六話 配信の外側
戦争が終わっていないので、配信は三十分遅延だった。
映像から港の景色を消す。
窓を暗幕で塞ぐ。
艦内時計を外す。
背景の航海日誌へぼかしを入れる。
飲み物の銘柄まで、補給経路を推測されないようラベルを剥がした。
艦外では薄暮の海が砲金色から黒へ変わり、長い船体がうねりを斜めに踏むたび、隔壁の奥で鋼材が低く擦れた。艦内には温められた潤滑油、古い塗料、潮を吸った電線被覆の臭いがある。配信用の卓へ敷いた白布だけが、その工業的な空気から無理に切り取られた食卓だった。
「これで楽しい番組になると思う?」
マリヤ・チェルヴォナ大佐が聞いた。
公国海軍登録のキーロフ級巡洋戦艦艦長。
配信上では、自称十七歳の船長。
実年齢を尋ねた士官は、翌朝から甲板清掃になるという噂がある。
「酒があれば何とかなります」
スヴィトラーナ・オレーシュコ中佐が答えた。
同型艦艦長。
「酒のラベルも剥がされました」
ヨシップ・リーキチ大佐が瓶を見た。
同型艦艦長。
「毒物だった場合、遺族は銘柄を訴えられませんね」
「開始前に縁起悪いこと言わないで」
マリヤが睨む。
「遅延だから、今の切れるよね?」
広報官は首を振った。
「残します。普段の三人を見せる企画です」
「普段の船長は、もっと上品だよ」
二人の艦長が同時に黙った。
「何か言って」
*
配信タイトルは、《停戦したので、壊れた船で飲む》。
戦争が終わったとは書かなかった。
開始時の同時視聴者、八万一千。
三分で十二万。
コメント欄には祝福と罵倒が同じ速度で流れた。
『生きてた』
『北方三国おめでとう』
『まだ帝国を許すな』
『停戦は罠』
『船長17歳は戦時宣伝』
「最後のやつを消して」
マリヤが画面を指す。
「検閲ですか」
ヨシップが聞く。
「軍事機密」
「何年間、機密なんです」
「永遠」
スヴィトラーナが瓶を開けた。
「じゃ、乾杯するっス」
「何に?」
三人が止まる。
勝利。
停戦。
解放。
どの言葉も、画面の外にいる死者へ軽く聞こえた。
ヨシップがグラスを持つ。
「今日、帰ってきた人へ」
マリヤが頷いた。
「それから、帰れなかった人へ」
三人はグラスを合わせなかった。
カメラへ少しだけ掲げ、飲んだ。
*
最初の質問は、視聴者からだった。
『キーロフ級って最強なんですか』
スヴィトラーナが答えようとする。
マリヤが先に言った。
「最強だよ。今日は四基ある発電機のうち三基も動いてる」
「それは最強じゃないっス」
「《ヴァルタ》は?」
「三基中二基」
「負けた」
ヨシップが指を折る。
「《ドゥナイ》は主機が生きています。給水ポンプが二台停止。右舷近接防御システムは射撃禁止。艦首区画の空調は、蹴ると動きます」
「蹴るのは整備手順じゃない」
「技術員が蹴っています」
「なら正式手順」
コメント欄に笑いが流れる。
三隻のキーロフ級は、外から見れば巨大なミサイル巡洋艦だった。
中にいる者から見れば、蒸気漏れ、ポンプ、配線、腐食した弁の集合だった。
艦が波へ船首を入れるたび、何千トンもの水圧が外板を撓ませ、机のグラスに細い同心円を作った。遠い区画で工具を落とした音が配管を伝って足元へ届く。巨大艦の静けさは無音ではなく、壊れていない部品がそれぞれ違う音で働いている状態だった。
「ミサイル何発積んでますか」
スヴィトラーナがコメントを読む。
広報官が大きく首を振る。
「ゼロから、いっぱいの間っス」
「軍事機密として満点」
「情報量はゼロです」
「それが満点」
その時、《ボフダナ》の艦内放送が鳴った。
広報用に音量を落としていた警報ではない。
『第二機械室、主蒸気管圧力低下。隔離弁応答なし』
放送の背後で、警報ベルと蒸気が噴く連続音が重なっていた。高圧蒸気は白く見える前に空気を歪ませ、近づいた整備員の睫毛と露出した皮膚から水分を奪う。配信区画の床にも、ごく弱い振動が靴底を通して届いた。
マリヤの表情が変わる。
グラスを置く前に、右手が卓上電話へ伸びた。
「第二機械室、漏洩位置」
『前部継手付近。白煙で視界不良。熱傷者一』
実際の機械室では、断熱材の裂け目から噴く蒸気が照明を丸ごと消していた。防火服の表面へ水滴が付くそばから沸き、面体の外側を白く曇らせる。熱傷者の右前腕は手袋と袖の境目から赤く剥け、遅れて来る痛みに顎を震わせていた。
「主機出力を四〇パーセント。前後の手動弁を閉める。防火服班を二組、片方は救出だけ。配信区画の換気を独立へ」
ヨシップがカメラの電源灯を見る。
「止めますか」
広報官が送出時計を確認した。
「三十分遅延です。いま視聴者へ流れているのは乾杯前です」
スヴィトラーナは既に艦内回線へ、自艦の整備士を待機させている。
「《ヴァルタ》から耐熱パッキンと溶接班を出せるっス」
「規格が違う」
「削れば合う」
「整備士が聞いたら泣くよ」
「もう泣いてるっス。うちの在庫表を見て」
マリヤは送話口を押さえた。
「ヘーチマン社へ連絡。あの連中、どこかに帝国規格の弁を隠してる」
「隠している前提?」
「持ってないと言ってから持ってくるのが、あの会社の礼儀」
機械室から、隔離弁閉鎖の報告。
圧力が落ちる。
弁軸は熱で膨張し、二人掛かりの延長棒を使っても半回転ずつしか動かなかった。金属が噛むたび工具が掌へ跳ね返り、防火手袋の内側で皮が擦れる。最後の一周で蒸気音が獣の唸りから細い笛へ変わり、隔壁を打っていた振動がようやく弱くなった。
白煙の向こうから熱傷者一名を搬出。
生命危険なし。
マリヤは三十秒だけ目を閉じた。それからグラスを端へ寄せる。
「続ける」
広報官が聞く。
「事故を切りますか」
「位置と時刻が分かる部分だけ切る。壊れた船で飲むって題名にしたのに、壊れたところ全部隠したら詐欺でしょ」
配信の中では、まだ三人が乾杯の言葉を選んでいた。
配信の外では、主蒸気が人を焼きかけている。
遅延サーバの監視窓には、事故の三十秒が黄色い帯で表示された。広報官は切除指定へカーソルを置き、マリヤの指示どおり港の方位と艦内時計だけを隠す。白煙、駆ける機関員、延長棒へ体重を掛ける二人の姿は残した。
「見せすぎでは」
「勝手に無敵だと思われる方が高くつくよ」
マリヤは空になった椅子を見た。
「次に助けを頼む時、壊れない船へ援助する馬鹿はいない」
巨大な軍艦の威厳は、しばしば三十分の遅延で守られていた。
*
配信開始から二十六分。
質問が変わった。
『一番怖かった時は』
マリヤはすぐ答えなかった。
用意された台本には、《カレングラード沖海戦》《セーレ岬支援》《弾道攻撃》と候補がある。
彼女が怖かったのは、もっと小さい瞬間だった。
「負傷者名簿を開く時」
二人が彼女を見る。
「戦闘中は、次の命令を考えてるから怖がる暇がない。終わって、名前が届く。知ってる名前があるか、開くまで分からない」
コメントの流れが遅くなる。
「開かなければ、まだ誰も死んでない気がする。もちろん、気がするだけ」
マリヤはグラスを置いた。
「艦長は最初に開く。部下より先に知るのが仕事だから」
自称十七歳の声から、冗談が消えた。
スヴィトラーナが続ける。
「自分は、帰投命令を出した時っス」
「帰る時?」
「全員を拾えなかった。海に二人いた。でも対艦ミサイルが来てた。艦を残せば、百人以上死ぬ」
彼女は瓶の水滴を親指で拭いた。
「二人を残して、面舵を切ったっス」
「二人は」
「一人は別のヘリが救助。一人は、翌朝遺体で見つかった」
コメント欄に、《仕方ない》《正しい判断》と流れる。
「仕方ないって言われると、少し腹が立つっス」
スヴィトラーナは画面を見た。
「正しかった。もう一度でも同じ命令を出す。でも、残された人にとって仕方なくはないっス」
正しい判断は、痛まない判断ではない。
艦長席は、その両方を同時に持つ場所だった。
*
ヨシップは、自分の番が来ても話さなかった。
「リーキチさんは?」
マリヤが聞く。
「一番怖かった時」
「忘れました」
「嘘」
「道化にも、言わない自由があります」
スヴィトラーナが彼のグラスへ少しだけ酒を足した。
ヨシップは止めない。
「《ドゥナイ》の防空士官が死んだ夜です」
彼はようやく言った。
「私が士官室へ行くと、机に家族宛ての手紙があった。出撃前に書いていた。封がされていた」
「読んだ?」
「読みません。送った」
「それで」
「三日後、家族から返事が来た。本人が死んだことを知らずに」
ヨシップは笑おうとした。
口元だけ動き、音は出なかった。
「返事を、どこへ届ければいいか分からなかった」
マリヤが手を伸ばし、彼の袖を一度掴んだ。
慰めの言葉は言わない。
カメラの前だからでもない。
適切な言葉がない時、無理に作らないことを知っていた。
*
配信は予定を二十分超えた。
視聴者は最大二十七万。
寄付金は、公国海軍遺族基金と北方三国の行方不明者捜索基金へ半分ずつ送られる。
金額は画面へ出さなかった。
多いことを祝えば、次も悲しみを商品へしたくなる人間が出る。
終了予定の五分前、一つのコメントが急速に共有された。
『北方三国も、公国へ任せればいい』
同じ意味の書き込みが続く。
『防空も補給も警察も、もうキミロフが繋いでいる』
『国境を残す意味があるのか』
広報官が削除判断を求めた。
マリヤは首を振る。
「脅迫でも機密でもない。残して」
スヴィトラーナが画面を見る。
「艦長三人で国境を消す配信じゃないっス」
「決めるのは、そこに住む人です」
ヨシップが言った。
「ただ、午前三時に燃料と曳船を送ってくれる相手は覚えます」
「政治的すぎる」
「港湾実務です」
コメント欄では、《公国へ任せろ》の文字が消えなかった。
賛成だけではない。
《解放の次は併合か》という反発も、同じ速さで流れた。
三人は、どちらにも答えなかった。
最後の質問。
『戦争は終わりますか』
三人は互いを見た。
「分からない」
マリヤが答えた。
「アルシェールで停戦を延ばす会議がある。でも襲撃の証拠も出てる。帝国軍の一部は命令を聞いてない」
「希望は?」
「あるよ」
「根拠は」
「根拠があるのは予測。希望は、根拠が足りない時に持つもの」
スヴィトラーナが笑う。
「十七歳が、たまにいいこと言うっス」
「たまに余計」
ヨシップがカメラへ向く。
「明日の当直があるので終わります」
「現実的すぎる」
「国は当直表で守られます」
配信終了ボタンが押された。
*
画面が暗くなっても、三人はすぐに席を立たなかった。
広報官がカメラの電源を切る。
遅延用サーバが、最後の三十分を送出し続けている。
「泣かなかったね」
マリヤが言う。
スヴィトラーナは目元を拭いた。
「今泣いてるっス」
「配信の外ならいい」
「中でもよかったでしょう」
ヨシップが言う。
マリヤは少し考えた。
「うん。でも、外で泣ける場所も要る」
遠くで機関室の警報が鳴った。
三人とも顔を上げる。
「《ボフダナ》?」
「たぶんポンプ」
「蹴る?」
「正式手順で」
マリヤは立ち上がった。
配信の外側には、止まったポンプと、開いていない負傷者名簿と、明日の当直が残っている。
生き残った者は、悲しみを語った後も艦を動かさなければならなかった。




