第七十五話 誰の制服
ヴェルニアには、五種類の警察がいた。
占領前のリトネア国家警察。
帝国軍政下で再編された治安警察。
抵抗組織の自警班。
帰還政府が新しく任命した暫定警察。
そして、倉庫から制服を盗んだだけの人間。
全員が青か黒の上着を着て、腕章を巻き、銃を持っていた。
朝のヴェルニアは薄い灰色だった。砲撃で煤けた煉瓦、雨を吸った制服、窓へ打ちつけられた黒い板が、街から色を奪っている。時折、腕章だけが青や緑に濡れて光った。通りにはパンを焼く臭いと、焼けた配電盤、排水溝へ流された血の鉄臭さが同居していた。
住民から見れば、誰が合法かは分からない。
「腕章の色を統一します」
リトネア内務相代理が言った。
ホロボロドコは五色の見本を見た。
指で触れもしなかった。布地も染料も問題ではない。色を見て安心した人間が、確認を一つ省く。その一つを敵は使う。彼の答えは、考えた時間より短かった。
「盗まれる」
「顔写真つき身分証を」
「偽造される」
「では、どうしろと」
「毎朝、名簿を更新して無線で照合する。二人一組。逮捕者の受渡しは署名。銃を撃ったら薬莢を数える」
「面倒です」
「警察は面倒を引き受ける仕事だ。面倒が嫌なら、銃だけ配って解散しろ」
国を取り戻した翌日、人々が最初に求めるのは自由だった。
二日目には、盗まれた車と行方不明の息子を探してくれと言う。
自由は演説で渡せる。
治安は、番号札と夜勤表がなければ渡せない。
*
元治安警察捜査官、レオニド・マスロフが見つかったのは、旧地方裁判所の地下だった。
占領期、反帝国活動の容疑者を取り調べていた男。
拷問への関与を訴える証言、十一件。
強制移送命令への署名、四十八件。
本人は、命令書へ署名しただけだと主張した。
マスロフを見つけた抵抗組織は、その場で撃たなかった。
裁判所前へ引き出した。
十分後、二百人の群衆が集まった。
「吊せ!」
「娘を返せ!」
「こいつが連れていった!」
石が一つ飛ぶ。
マスロフの額へ当たり、血が流れた。
暫定警察は盾を並べる。
群衆の中には、帝国占領下で殴られた者がいる。
家族を失った者がいる。
制服を見ただけで吐く者もいる。
怒りは本物だった。
本物だから、誰かが利用できる。
*
ホロボロドコは装甲車で裁判所へ着いた。
群衆は公国軍のT-84《オプロート》を見て道を空けた。
彼を乗せた装輪装甲車の後ろで、護衛のT-84が低速のまま主機を唸らせていた。排気熱が雨粒を白く蒸発させ、幅広い履帯は石畳の割れ目を一枚ずつ押し広げる。砲塔は群衆へ向けず、銃身を空の路地へ逃がしてある。それでも五十トン級の鋼が近づけば、罵声は胸郭へ響くディーゼル音に削られた。
ホロボロドコは護衛が扉を開ける前に降りた。怒鳴って道を作らせず、前へ歩く。群衆の唾も、投げ損ねた小石も避けない。黙っている時の方が、彼は命令を出す直前に見えた。
戦車が正しさを証明したのではない。
踏まれたくないだけだった。
「マスロフを拘置所へ移す」
抵抗組織の男が前へ出る。
「裁判所が動いていない」
「だから動かす」
「裁判官は逃げた」
「別の裁判官を任命する」
「証拠は全部、こいつらが焼いた」
マスロフが口を開いた。
「焼いていない」
群衆が揺れる。
「地下第三書庫に移送記録がある」
「嘘だ!」
「記録がなければ、私は本部へ人数を報告できなかった」
人間を消す制度は、消したことを記録する。
予算と車両と食料を請求するためだった。
悪意にも会計がある。
「書庫へ案内させる」
ホロボロドコが言った。
「その後で裁く」
「逃げたら」
「脚を撃て。頭は記録を覚えている」
優しい命令ではなかった。
群衆へ渡すより、役に立つ形で生かす命令だった。
*
マスロフを移送する車列は、暫定警察のバン二台と公国軍CV9035一両。
裁判所裏口から出る。
道路の両側へ、群衆が詰めていた。
罵声。
唾。
写真を掲げる手。
先頭バンが交差点へ入ったとき、警察制服の四人が停止を命じた。
交差点には焼け残った路面電車が斜めに止まり、架線は風のたび低く軋んでいた。露店の林檎だけが煤けた街で鈍い赤を残している。先頭バンのタイヤが散ったガラスを踏み、乾いた破砕音を立てた。
「中央拘置管理局だ。被疑者を引き渡せ」
腕章は正しい色。
身分証もある。
無線照合に、名前がない。
「所属番号を」
暫定警察官が聞く。
四人のうち一人が答える代わりに、短機関銃を上げた。
最初の連射が先頭バンの運転席を貫いた。
短機関銃弾がフロントガラスへ白い花を三つ作り、四発目で内側へ崩した。運転手の肩が跳ね、血と安全ガラスが計器盤へ散る。クラクションは額が触れたまま鳴り続け、周囲の銃声を一本の不快な音で縫った。
運転手がハンドルへ倒れ、車両が街灯へ衝突する。
偽警察官二名が後部扉へ走る。
目的は奪還ではない。
RPG-26を持っている。
マスロフごと車両を焼くつもりだった。
「伏せろ!」
CV9035が車体を横へ入れる。
RPG-26が発射された。
弾頭はCVの増加装甲へ命中。爆発反応装甲ではなく、複合装甲と空間装甲が成形噴流を削る。外板が裂け、車内へ衝撃が走った。
車体側面が白く閃き、爆圧で周囲の窓が一拍遅れて砕けた。空間装甲の外板は内側へ花弁状にめくれ、溶けた銅と鋼の粒が車内壁を赤く叩く。燃えた塗料と断熱材の煙が乗員区画へ入り、喉の粘膜をざらつかせた。
砲手は照準器へ額を打つ。
ヘッドレストが衝撃を吸いきれず、視界の中央へ白い輪が広がった。口の中に血の味がする。額を触る余裕はない。照準映像は一度横へ流れ、安定装置が唸りながら画面を水平へ戻した。
機関は生きている。
三十五ミリ砲を使えば、背後の店舗ごと撃ち抜く。
車長は砲塔上の同軸機銃だけを使った。
偽警察官の足元へ短い射撃。
一人が倒れる。
二人目は路地へ逃げた。
暫定警察が追う。
*
路地の先は、市場だった。
停戦後初めて開いた露店に、人が集まっている。
偽警察官は拳銃を抜き、買い物客の間へ入った。
「近づくな!」
左腕で老人を抱え、銃口を首へ当てる。
追ってきた暫定警察官は二十三歳。
占領前は交通課。
人質事件の訓練は二時間しか受けていない。
照準は震えていた。
「銃を下ろせ」
「マスロフは死んだか」
「生きている」
偽警察官が舌打ちする。
救出に失敗した反応ではない。
口封じに失敗した反応だった。
「誰の命令だ」
「お前の制服は借り物だ」
「お前もだ」
その言葉で、若い警察官の指が止まった。
占領期、彼も治安警察の交通部門で働いていた。
生活のためだった。
それで無罪になるとは思っていない。
だが、今日誰かを守る資格まで失うのかは、まだ決まっていなかった。
老人が、偽警察官の足を踏んだ。
銃口が一瞬外れる。
若い警察官は胸ではなく、右肩を撃った。
拳銃弾は鎖骨の外側へ入り、偽警察官の身体を半歩回した。骨へ当たった鈍い音と同時に、握力が切れる。本人が痛みを理解するより先に、腕が自分のものではない重さで垂れた。
拳銃が落ちる。
老人を引く。
市場の人々が偽警察官へ殺到しようとする。
「下がれ!」
若い警察官は今度、群衆へ向けて盾を構えた。
撃った相手を守る。
それが、昨日までと違う制服の使い方だった。
*
襲撃者四名のうち、死亡一、負傷二、逃走一。
暫定警察官死亡一、負傷三。
市場の民間人は軽傷二。
マスロフは無傷だった。
「私を守ったのか」
彼が聞く。
ホロボロドコは答えた。
「お前の記憶を守った」
声に勝利も嫌悪もなかった。彼は負傷した警察官の搬送方向と、逃走者が消えた路地を一度ずつ見た。それから初めて、マスロフへ視線を戻した。守ったものの値段を、本人だけで決めさせる気はなかった。
「裁判で死刑になるかもしれない」
「俺は裁判官じゃない」
「英雄気取りか」
「勘違いするな」
ホロボロドコは書庫の鍵を彼へ見せた。
「お前を殺したい人間に、順番を守らせているだけだ」
マスロフは鍵を見た。真鍮の歯には紙粉が詰まり、柄の側には占領政府の備品番号が刻まれている。権力が替わっても、扉を開ける金属は同じだった。
「その順番の最後に、俺を撃つのは誰だ」
「知らん」
ホロボロドコは答えた。
「だが、裁判記録を読んだ奴に決めさせる。路地で一番怒っている奴じゃない」
怒りがないわけではなかった。彼は怒りを、射界と当直表と鍵の受渡簿へ分解していた。分解できない怒りを持つ者には、銃を渡さない。それが彼の人道ではなく、軍紀だった。
*
地下第三書庫には、紙の台帳が百四十七冊あった。
地下は暖房が死に、石壁から冷気が滲んでいた。棚を開くと、黴、糊、鼠の糞、古い複写インクの臭いが一度に立つ。革表紙の台帳は湿気を吸って膨れ、一冊でも両手に重かった。頁の縁には尋問室から持ち込まれたらしい茶色い指跡が残っている。
強制移送者、拘束者、尋問担当、移送車両、収容施設。
帝国から届いた名簿にない氏名、三千二百余。
死亡と記録された者、六百十一。
死亡理由欄には、《移送中の事故》《急性疾患》《逃亡時の負傷》が繰り返されている。
マスロフ自身の署名もあった。
彼は目を逸らさない。
「命令だった」
リトネア司法官が言う。
「その言葉も記録します」
「従わなければ、私が入れられた」
「それも」
「理解する気はないのか」
「理解と免責は別です」
台帳を一冊ずつ撮影し、封印袋へ入れる。
家族照会用の複製を作る。
原本は裁判所地下へ残さない。
警備先を分散する。
その日の夕方、暫定警察は最初の公開訓練を行った。
場所は、占領期に身分証検査所として使われた中央駅前。
訓練役の警察官が、市民役の男へ近づく。
「身分証を提示してください」
「理由は」
警察官が詰まった。
占領下では、理由を尋ねた時点で拘束された。
新しい手順では、警察官の側が答える。
「盗難車両の同乗者と服装が一致しています。確認後、該当しなければ返却します」
「あなたの番号は」
「暫定警察、東二区、一〇四八」
「無線で確かめても」
「構いません」
見ていた市民から、小さな笑いが起きた。
制服の男へ質問してよい。
それだけのことが、占領後の街では冗談のように聞こえた。
次は逮捕訓練。
警察官が容疑を告げ、時刻を読み上げ、身体検査の立会人を呼ぶ。
手錠をかけられた訓練役が聞いた。
「抵抗したら」
「必要な範囲で制圧します」
「必要な範囲は誰が決める」
また詰まる。
ホロボロドコが後ろから言った。
「その場ではお前だ。後で映像と負傷と報告書を見て、他人が決め直す」
彼はそれ以上説明しなかった。銃撃の瞬間に委員会は呼べない。だから現場へ決めさせる。現場の恐怖を神託に変えないため、後から名前と時刻と傷を机へ戻す。彼の規則は、人を信用するために、人の判断へ監視をつけた。
「現場を信用しないのですか」
「信用して銃を渡す。信用しすぎないから記録させる」
訓練を見ていた女性が手を上げた。
「占領中に働いていた警察官も、その制服を着るんですか」
内務相代理が答えに迷う。
一律排除すれば、明日の交番を開ける人数が足りない。
無条件で残せば、昨日の加害者が同じ机へ座る。
「一時採用です」
ホロボロドコが代わりに言った。
「重大犯罪の嫌疑がない者だけ。三か月ごとに審査。市民から異議を受け付ける。前歴を隠したら、その日に外す」
「被害者が顔を見たくないと言ったら」
「配置を変える。罪が確認されれば裁く。嫌われているだけなら、嫌われたまま働かせる」
正義としては、汚れていた。
治安としては、他に人がいなかった。
国を再建する時、きれいな手だけを選べるとは限らない。
だから、汚れを隠さず、洗った回数まで記録する必要があった。
暫定警察の制度は、九十日間だけキミロフ公国の警務規程を借りることになった。
逮捕権の根拠はリトネア法。
制服番号、薬莢照合、苦情受付、監査書式だけを公国方式へ揃える。
占領で壊れた給与システムの代わりに、警察官の手当は公国復旧会計から立て替えた。
「よその国の警察を雇うのか」
ボンダレンコが決裁書を見た。
「立替払いです」
内務相代理が答える。
「制服番号も、公国の人事サーバへ登録される」
「現地サーバが再建されるまでです」
「便利な言葉だな」
彼は《期限九十日・自動延長なし》と赤で書き足し、署名した。
二日後、エスティアとラトヴァから同じ書式の提供依頼が届いた。
公国は三国の警察を指揮していない。
ただ、誰が勤務し、誰が給料を受け取り、誰が弾を撃ったかを、同じ帳簿で読めるようになった。
*
夜、ヴェルニア暫定警察は全制服へ通し番号を縫い付けた。
腕章は毎日色を変える。
名簿は公開端末で照会できる。
逮捕時には、警察官二名が自分の番号と理由を告げる。
薬莢は勤務終了時に照合。
完璧ではない。
番号は盗める。
名簿は改ざんできる。
二人とも共犯なら、署名も役に立たない。
それでも、昨日より嘘をつく手間は増えた。
「誰の制服か、これで分かりますか」
内務相代理が聞いた。
ホロボロドコは首を振った。
「分からん」
「では失敗ですか」
「制服だけでは分からないと、市民へ教えられる」
国家は、正しい制服を配れば戻るものではない。
制服を着た者へ名前を名乗らせ、撃った弾を数えさせ、間違えた時に裁く仕組みから戻ってくる。




