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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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第七十四話 停戦の担保



 停戦命令は、午前零時に発効した。


 共同監視所の窓には夜のキミロフが黒く映り、卓上の表示灯だけが赤、琥珀、緑の小さな列を作っていた。空調は人間より先に夜勤へ疲れ、温い埃の臭いを吐く。誰も乾杯しなかった。秒針が零時を越える音は聞こえず、ヘッドセットの向こうから遠い照明弾の発射音だけが届いた。


 午前零時二分、最初の違反が記録された。


 ナルヴェ東岸から照明弾一発。


 零時七分、タルヴァ東部で小銃射撃。


 零時十一分、カレングラード南方で射撃管制レーダーが十五秒起動。


 零時十九分、帝国側迫撃砲陣地から三発。着弾は無人の農地。


 停戦は、時計の針を合わせれば始まるものではなかった。


 命令を知る者。


 知らない者。


 知っていて試す者。


 上官が変わったと認めない者。


 全員へ、同じ一行を届かせる必要がある。


「違反四件」


 若い参謀が言った。


「停戦失敗と記録しますか」


 ペトレンコは右手で報告書を押さえた。


「いいえ。違反四件と記録してください」


「失敗では」


「接触線全体で、昨日の同時刻は砲撃百八十六件でした」


 成功とも書かない。


 撃たれなかった百八十二件を勝利へ数えれば、撃たれた場所の人間を消す。


 停戦は二択ではない。


 銃声が、何発から何発へ減ったかを監視する作業だった。


     *


 共同停戦監視団には、九か国が参加した。


 全て別の法的根拠だった。


 二国は議会決議で非武装監視員を派遣。


 三国は北方三国政府との二国間協定で工兵と衛生隊を派遣。


 一国は自国商船の安全確保を理由に哨戒機を出す。


 残る三国は外交官と技術者だけ。


 共同防衛条約が、自動的に全員を同じ戦争へ連れてきたわけではない。


 各国が、自国の議会と法律へ責任を負ったうえで来た。


「面倒です」


 西方連合の調整官が言った。


「国ごとに活動範囲が違う」


 ソフィアは九色の権限表を見た。


「面倒だから正当性があります」


「統一指揮が遅くなる」


「停戦監視で、速い誤射は要りません」


 武装無人機は外した。


 RQ-4D、P-8A、E-7A、地上レーダー、音響センサー。


 監視機は見る。


 攻撃判断は各国部隊へ戻す。


 公国は共通状況図を作るが、発射ボタンまでは集めない。


 接続できる国家が、全員の引き金を持つ必要はなかった。


     *


 カレングラードのミサイル旅団へ、監視団が入った。


 発射装置六両。


 輸送装填車四両。


 弾頭輸送容器八基。


 帝国側は、弾頭が通常弾だけだと申告した。


 監視団は容器を開けない。


 放射線測定。


 重量。


 封印番号。


 車両の走行距離計。


 発射管制装置へ改ざん検知シールを貼る。


 凍った車体へ手袋を当てると、鋼の冷たさが縫い目から指骨まで入った。輸送容器は朝の光を吸わない暗緑色で、クレーンの吊り環には古い塗膜の剥がれと新しい工具痕が重なっている。弾頭一基の重量は書類の一行で済むが、検査員はその数字が落ちれば地面と人間を一緒に潰す重さだと知っていた。


 エンジン始動は禁止しない。


 寒冷下で完全に停止させれば、機器が故障し、後で廃棄工程そのものが危険になる。


「動かせるなら撃てる」


 北方三国の記者が言った。


「壊せばいい」


 監視団長は首を振った。


「壊す作業にも手順がいる。燃料と弾頭を載せたまま、テレビの前で爆破はできない」


「信用するのか」


「信用しないから、封印とカメラと監視員を置く」


 倫理も軍縮も、信用の別名ではない。


 裏切った時に、早く分かる仕組みだった。


     *


 強制移送者名簿は、暗号回線で届いた。


 二万八千四百十一人。


 ファイル上は、全員に現在地がある。


 照合を始めると、四千六百人が重複。


 八百十二人は生年月日が同じ一月一日。


 収容施設名のうち三か所は存在しない。


 死亡欄が空白の者、千九百三十七人。


「完全な名簿を渡したと言っています」


 担当官が言う。


 ペトレンコは、空白の死亡欄を見た。


「彼らにとって完全なのでしょう」


「受領を拒否しますか」


「受領します。不完全であることも通知します」


「帝国は、名簿開示条件を履行したと主張します」


「こちらは、何人見つかったかを主張します」


 書類の完成と、人間の帰還は同じではない。


 名簿を拒めば、そこに載った人間まで失う。


 受け取って、間違いを一つずつ直す。


 ペトレンコの思考は、喪失の数から離れない。


 国家が二万八千と書くとき、彼女はその下の一人目を探す。


     *


 停戦発効から十一時間後。


 ヴェルニア北東八十キロで、帰還者を乗せたバス六台が砲撃を受けた。


 一二二ミリロケット弾八発。


 最初の飛翔音は、空気を裂く低い唸りだった。バスの運転手が正体を理解する前に、前方の路肩が土と雪解け水を柱にして持ち上がった。爆圧がフロントガラスを白く曇らせ、次の瞬間には細かな立方体へ砕いた。


 先頭バスの前へ二発。


 四台目の側方へ一発。


 残りは道路後方。


 狙いは全滅ではなく、車列を止めることだった。


 急制動した二台目の前輪が舗装の欠けへ落ち、車体は左へ傾いた。乗客の額と肩が前席へ打ちつけられ、天井棚から紙袋と毛布が降る。四台目では側板を貫いた破片が座席の骨組みに沿って跳ね、薄い鉄と人の骨を区別しない音を続けた。車内は割れたガラス、軽油、血の鉄臭さで満たされた。


 停戦監視用MQ-9Bが発射地点を捉える。


 帝国第十九ロケット砲旅団の残存BM-21《グラート》二両。


 暫定政府からの停戦命令へ、受領確認を返していない部隊。


 ラトヴァ軍のF-16AM二機が上空待機していた。


『攻撃許可を』


 許可権者はラトヴァ本国の防空司令部だった。


 回線は接続中の表示から動かない。


 共同監視所は、帝国側連絡官へ最後の警告を送る。


『当該部隊を停止させられるか』


 返答。


『連絡不能。暫定政府は当該射撃を承認しない』


 責任を否定するだけでは、次弾を止められない。


「共同監視所に、他国機への武器使用命令権はありません」


 法務官が言った。


 ペトレンコは、BM-21の再装填表示を見た。


「帰還車列の保護条項を適用します。異議は記録してください」


「ラトヴァ政府の承認前です」


「承認が追いつくまで、ロケット弾は待ちません」


『自衛交戦を許可。発射車両のみ』


 F-16AMがGBU-54《レーザーJDAM》を二発投下した。


 高度を取った二機の翼下から、灰色の爆弾がほとんど音もなく離れた。切り離し金具の衝撃が主翼を一度軽く震わせ、誘導翼が開く。地上では雲の切れ目を滑る小さな影にしか見えなかった。


 一両目は林道で直撃。


 ロケット弾が誘爆し、車体を炎が包む。


 爆弾の衝撃がBM-21のシャシーを中央から折り、発射管束を木々の上へ投げた。残弾が時間差で破裂し、一本は推進剤だけを燃やして土中へ潜り、もう一本は空中で弾頭を割った。松の枝が剪定されたように落ち、燃えたゴムと固体燃料の刺激臭が林道を覆った。


 二両目は学校跡の裏へ移動した。


 民間人の熱源が校舎地下にある。


 二発目は投下後に照準を外され、学校から百五十メートル離れた空地へ落ちた。


 発射車両は生き残った。


 十四発のロケット弾も残る。


 だが、位置は公開され、帝国暫定政府にも通告された。


 夜、同旅団の兵士二十七名が発射車両を放棄し、徒歩で投降した。


 旅団長は逃走。


 バス車列の死者三、重傷九。


 停戦違反部隊の死亡推定六。


 ペトレンコは、数字の下へ動画を開いた。


 四台目のバス。


 窓ガラスが全て抜け、右側面にロケット弾の破片が斜めへ並んでいる。


 帰還者たちは、占領地の収容施設から十七時間かけて戻ってきた。車内に荷物は少ない。名前を書いた紙袋、渡された毛布、施設で履いていた靴。


 爆発直後、一人の老女が座席の間へ倒れた子供へ覆い被さった。


 子供は無傷。


 老女は背中へ破片を受け、搬送中に死亡した。


 破片はコートと毛布を抜き、肩甲骨の下へ入って肺を傷つけていた。彼女は少年を離すよう言われても腕をほどかず、救護員が指を一本ずつ開いた。担架へ移された時、少年の頬には彼女の血で五本の指跡が残った。


 二人は血縁ではない。


 同じ収容棟にいただけだった。


『お祖母ちゃんの名前は』


 衛生兵が少年へ聞く。


『知らない』


 少年は答えた。


『みんな、お祖母ちゃんって呼んでた』


 名簿には、年齢が近い女性が十一人いた。


 腕輪の番号で照合するまで、死者三名のうち一名は氏名を持てない。


 ペトレンコは戦果欄を閉じた。


 BM-21一両撃破。


 投降二十七。


 軍事的には、反撃は機能した。


 それで四台目の座席から血が消えるわけではない。


「停戦違反報告へ、車列映像を添付します」


 若い参謀が戸惑った。


「刺激が強すぎます。各国議会へ出す資料です」


「刺激の弱い砲撃はありません」


「世論誘導だと言われます」


「編集前映像、医療記録、発射位置、交戦判断を一緒に出す。死者だけを見せて攻撃許可を正当化しない。攻撃だけを見せて死者を隠さない」


 医療記録の紙は救護車内で濡れ、端が乾いて波打っていた。映像ファイルは無重量でも、それを真正だと証明する署名、撮影者、時刻、搬送記録は紙の束になる。ペトレンコが持ち上げると、再負傷した左腕の奥が鈍く脈打った。痛みは命令の正しさを保証しない。ただ、急いだ判断にも身体へ残る費用があると知らせた。


 彼女は一度息を止め、再生画面へ戻った。


 感情を手順へ変える。


 手順へ変えなければ、怒りは次の発射許可を雑にする。


 停戦は破られた。


 同時に、破った部隊だけを切り離す仕組みは動いた。


 ラトヴァ政府が交戦を追認したのは、五十四分後だった。


 共同評議会も全会一致で承認した。二か国は、同じ遅延を繰り返さないため、限定的な緊急武器使用権を共同監視所へ預ける案を提出した。


 ソフィアは作戦記録へ、《緊急例外二》と入力した。


「二度とも成功しました」


 若い参謀が言った。


「成功しなければ、三度目はありません」


 ソフィアは画面を閉じた。


「成功したので、次は規程になります」


 若い参謀の顔には安堵があった。次は迷わず撃てる。その安堵を、ソフィアは責めなかった。迷って死ぬ現場を見た者が、明確な命令を欲しがるのは自然だ。


 ただし、明確さは麻薬に似ていた。九か国の法、四本の承認経路、百八十六件の銃声を、一人の声で短くできる。犠牲者が減るほど、その声を手放す理由も減る。


 彼女は《緊急例外二》の直下へ、失効条件、異議申立先、全通信記録の自動公開を追記した。ブレーキは、速度が出る前に付ける。速度が出た後では、付けた者まで英雄扱いされる。


     *


 アルシェール会議の議題は、三つに分けられた。


 第一会合。停戦延長と兵力分離。


 第二会合。強制移送者、捕虜、行方不明者。


 第三会合。重大犯罪の証拠保全と、将来の裁判制度。


 裁判は、まだ開かない。


 誰を、どの法で、どの裁判所が裁くか。


 被疑者の弁護権。


 証拠の入手経路。


 指揮責任の範囲。


 死刑を認める国と認めない国の調整。


 全てが未決だった。


「帝国指導部を会場で逮捕すべきです」


 北方三国代表が言った。


 シェフチェンコは首を振る。


「交渉へ呼び、会場で突然逮捕すれば、次の交渉相手は来ません」


「逃げる」


「だから、先に身柄の扱いを合意します」


 帝国暫定政府へ提示したのは、暫定保全措置だった。


 皇帝、元国防相グロモフ、国家保安総局元長官ザハロフ、外相ラドヴィンを含む十二名について、出国禁止と指定居所監視。


 証拠隠滅の防止。


 会議へ出席する場合、ヴァローニュ司法当局の保護下へ入り、終了まで自由移動を認めない。


 有罪ではない。


 無罪でもない。


 裁判へ到達するまで、人と証拠を消させない措置だった。


     *


 帝国側は、十二名中五名について暫定保全措置を受諾した。五名は協議継続。


 グロモフ元国防相とザハロフ元長官は所在不明。


 皇帝は健康を理由に遠隔参加。


 ラドヴィンは出席を表明。


 残る三名は、ヴァローニュ司法当局の監視下へ移送される。


 タブレットに残った一語、《回収》。


 誰かが会議場から連れ出したい対象は、三人へ絞られた。


「会議を中止すべきです」


 警備担当官が言った。


「中止すれば、相手は別の場所で動きます」


 ソフィアは会議区の図面を開く。


「監視できる場所へ来させます」


「餌にするのですか」


「人間を餌とは呼びません」


「実質は」


「保護対象を守り、攻撃者を特定する。同時に行います」


 彼女の声は変わらない。


 だが、式典でペトレンコが倒れた場所の映像を、一度だけ閉じた。


 感情を消したのではない。


 図面へ戻せる大きさに畳んだ。


 停戦の担保は、白旗でも署名でもなかった。


 破った者だけを見つけ、止め、記録する能力だった。

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