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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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第六十九話 ナルヴェの橋



 ヴェリチコ大佐は、撤退命令を三度読み直した。


 帝国西部軍管区司令部から届いたのは、一行だけだった。


 《ナルヴェ線を死守せよ。撤退は国家反逆と見なす》


 補給予定も、増援時刻もない。


 国家反逆という言葉だけは、弾薬を使わずにいくらでも送れる。


 ナルヴェ川西岸。


 帝国軍残存、二千八百六十四名。


 戦車三十一両。うち自走可能二十二。


 歩兵戦闘車五十八両。


 百五十二ミリ砲弾、通常射撃で約六時間分。


 野戦病院、負傷者四百九十一名。


 民間避難民、およそ六千。


 橋は一本。


 東岸は帝国領。


 橋を落とせば追撃を止められる。


 同時に、負傷者と避難民の道も消える。


 副官が古い携帯音楽プレイヤーを机へ置いた。


 ジャズのピアノが小さく流れる。


「不謹慎でしょうか」


「砲声より静かだ」


 ヴェリチコは角砂糖を一つ、欠けたカップへ落とした。


「音量を上げろ。司令部の命令が聞こえない程度に」


     *


 公国側の要求は、午前四時に届いた。


 一、重火器を放棄し、帝国軍は東岸へ撤退できる。


 二、負傷者と民間人を優先し、橋の北側車線を人道回廊とする。


 三、撤退部隊は小火器を安全状態で携行できる。ただし弾倉を外し、封印袋へ収容。


 四、橋梁への爆薬設置を解除。


 五、六時までに受諾しない場合、合同部隊は西岸拠点の制圧を開始。


「寛大です」


 副官が言った。


「侮辱だ」


「では拒否を」


「寛大だから侮辱なんだ」


 ヴェリチコは地図を見た。


 公国軍。


 エスティア、ラトヴァ、リトネアの亡命軍。


 西方連合各国の部隊。


 彼らは一枚の条約で自動的に来たのではない。


 ある国は議会の避難民保護決議で工兵を出した。


 ある国は自国商船への攻撃を根拠に防空部隊を出した。


 ある国は北方三国政府との二国間協定で航空隊を出した。


 法的根拠は不揃いだった。


 公国が、その不揃いな部隊を同じ時刻表へ載せた。


「敵兵力は」


「西方合わせて一万一千。航空優勢あり」


「橋を爆破すれば」


「半日は稼げます」


「その後は」


「川を渡られます」


「帝国は我々を救出するか」


 副官は黙った。


 答えは、届かない増援予定に書かれていた。


     *


 午前五時二十八分。


 帝国国家保安総局の督戦隊が、橋梁爆破班を射殺した。


 爆破班長が起爆器の引き渡しを拒んだためだった。


 銃声は六発。


 橋下で作業していた工兵二名が即死。班長は腹部を撃たれ、欄干へ倒れた。


 督戦隊は起爆器を奪う。


 ヴェリチコの副官が止めようとし、肩を撃たれた。


 司令部へ報告が入ったのは、五時三十一分。


 ヴェリチコは受話器を置いた。


 決断の直前、彼が考えたのは帝国でも名誉でもなかった。


 橋を渡ろうとしている救急車の列だった。


 負傷者四百九十一名。


 その中には、昨日まで自分の命令で撃った兵士がいる。


 見捨てる権利だけは、首都の地下壕にいる人間へ渡したくなかった。


「第五機械化大隊を橋へ」


「敵が来ます」


「敵ではない。督戦隊を排除する」


「命令違反です」


「今朝は品切れだ。別の商品を出せ」


     *


 橋の東詰めで、帝国軍同士の戦闘が始まった。


 督戦隊のBTR-82Aが三〇ミリ砲を撃つ。


 第五機械化大隊のBMP-2が、救急車を遮蔽物にせず横へ押し出した。二両が並んで射撃し、BTRの砲塔を抑える。


 橋上の避難民が伏せる。


 砲弾が欄干を削り、鉄片が川へ落ちた。


 爆破班長は腹を押さえながら、起爆回線へ這った。


 督戦隊員が彼へ銃口を向ける。


 一発。


 撃ったのはヴェリチコだった。


 督戦隊員が倒れる。


 大佐は拳銃を下げず、起爆器を拾った。


 表示は待機。


 橋脚四か所へ爆薬が繋がっている。


「解除できるか」


 工兵班長は血のついた歯を見せた。


「撃った連中よりは、簡単です」


 主回線を切る。


 予備の無線起爆器がある。


 それを探す時間はなかった。


 午前五時四十六分。


 西岸で合同部隊の砲撃準備が始まる。


     *


 ペトレンコは《スヴィターナ》の戦術指揮所で、橋上の銃撃を見ていた。


 RQ-4Dの映像。


 帝国軍同士が撃っている。


 避難民が車両の間へ伏せる。


 白十字を描いた救急車が、橋の中央で止まっている。


「攻撃開始まで十四分」


 作戦士官が言う。


「橋東詰めの敵防空を先に叩きます」


 ペトレンコは映像を拡大した。


 帝国戦車が砲塔を東へ向けている。


 こちらではない。


 橋梁爆破班が配線を切っている。


 これは罠かもしれない。


 罠でなくても、十四分待てば督戦隊が起爆器を取り戻すかもしれない。


 不明を不明のまま扱う。


 かつての彼女なら、それを恐れて決断を遅らせた。


 今は違う。


 不明だからこそ、戻せる命令を先に出す。


「砲撃開始を保留。橋から半径五百メートルは射撃禁止」


「敵主力が西岸へ残ります」


「人道回廊を開けます。E-7Aから帝国軍共通周波数へ呼びかけ」


「ヴェリチコが応じなければ」


「六時に攻撃します」


 ペトレンコは送信キーを押した。


『ナルヴェ西岸の帝国軍へ。こちらキミロフ公国統合司令部。橋上の内部交戦を確認した。砲撃開始を十四分延期する。負傷者と民間人を北側車線から渡せ。重火器は西岸へ置け』


 雑音。


 十秒。


 二十秒。


『公国司令部へ。こちら帝国軍ヴェリチコ大佐』


 低い声が返った。


『十四分では足りない』


『何分必要です』


『四十五分』


『長いです』


『負傷者は時刻表どおり歩かない』


 ペトレンコは目を閉じなかった。


 相手の本心は読めない。


 読めるのは、橋へ並ぶ救急車の数だけだった。


『三十分。六時十六分まで。南側車線から武装部隊を東へ移動させた場合、回廊を閉じます』


『三十五分』


『三十二分』


『参謀長は市場でも強いな』


『港の人間に習いました』


『三十二分で』


     *


 人道回廊が動き出した。


 救急車十九台。


 路線バス十二台。


 担架を持つ兵士。


 毛布を被った民間人。


 南側車線では、帝国兵がT-72B3の砲尾を開き、閉鎖機を取り外した。BMP-3から機関砲弾を降ろし、道路へ積む。


 投降ではない。


 重火器を捨てて東へ去る。


 兵士たちは小銃の弾倉を抜き、透明袋へ入れた。


 一人が袋を川へ投げようとする。


 ヴェリチコが止めた。


「記録へ残せ。捨てれば、次の国が拾う」


 午前六時九分。


 西岸北部の帝国第百四連隊が命令を拒否した。


 連隊長は帝国司令部の死守命令を掲げ、2S19《ムスタ-S》の砲兵陣地から合同部隊へ射撃した。


 最初の斉射が公国前線指揮所へ落ちる。


 M113指揮車が直撃を受け、車内の四名が死亡。アンテナと地図が燃えた。


 停戦は、戦場全体へ届かなかった。


 合同部隊が反撃する。


 AH-64E二機が川沿いへ進入。


 Longbowレーダーが砲兵車両を捕捉。AGM-114Rを二発。


 一発がPzH 2000の後部へ命中し、装薬庫が燃える。もう一発は隣の弾薬運搬車へ入り、二次爆発が堤防を揺らした。


 第百四連隊のT-72B3八両が西へ突進する。


 公国T-84とリトネア軍CV9035が迎える。


 一二五ミリ砲弾が通りを横切り、建物の壁を抜く。


 CV9035一両が正面から被弾。操縦手死亡、歩兵三名負傷。


 T-84一両が側面へ回り、先頭T-72の砲塔基部へ撃つ。砲塔が浮き、車体へ斜めに落ちた。


 残る戦車が発煙弾を撃つ。


 煙の中から歩兵が下がる。


 公国側は追い込みすぎなかった。


 東へ向かう通路を一本残した。


 退路があれば、最後まで撃つ理由が一つ減る。


 それでも第百四連隊は二時間戦った。


 午前八時十四分、連隊長戦死。


 残存兵三百十一名が投降。


     *


 午前九時。


 ナルヴェ西岸の組織的抵抗は終わった。


 帝国軍二千三百余名が東岸へ撤退。


 捕虜四百二十七名。


 帝国側死亡推定百九十から二百六十。負傷者は人道回廊で搬送。


 合同部隊死亡三十八、重傷七十四。


 民間人死亡十二。砲撃によるもの七、橋上の銃撃によるもの五。


 橋梁は残った。


 西岸には、砲尾を外された戦車と積み上げられた弾倉が並ぶ。


 ヴェリチコは最後の救急車を見送ってから東へ渡った。


 橋の中央で振り返る。


 公国兵は彼を撃たない。


 彼も敬礼しなかった。


 互いの尊敬を、制服の儀礼へ変える関係ではなかった。


 ただ、橋を壊さなかった事実だけを残した。


     *


 同日夕刻。


 エスティア、ラトヴァ、リトネアの主要都市と交通結節点から、帝国軍の組織的占領部隊は退いた。


 戦争が終わったわけではない。


 森林地帯には孤立部隊が残る。


 地雷原は未処理。


 警察、裁判所、学校、配電網の復旧には数か月を要する。


 帝国側へ連行された住民の所在も分からない。


 北方三国政府は《軍事占領の組織的継続能力が失われた》とだけ発表した。


 《完全解放》とは書かなかった。


 ペトレンコは損害表の最後へ、橋上で切断された爆破回線の写真を添付した。


 ヴォロディミルが隣で読む。


「勝った気がしないな」


「勝利は感想ではありません」


「妻としては?」


「今日は、あなたが前線へ飛ばなかったので高評価です」


「愛情の基準が低い」


「達成率は高いです」


 彼は彼女の右手へ、自分の指を絡めた。


「次も達成する」


「約束は記録しました」


 窓の外で、北方三国の旗が三本上がる。


 その下では、工兵が地雷を掘り、衛生兵が名札を洗い、役人が避難民の名前を書いていた。


 国が戻る音は、歓声より小さい。


 それでも、橋を渡る最後の救急車より長く続いた。

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