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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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第七十話 花火の下の銃声



 占領部隊がナルヴェ川を渡ってから、四十八時間後。


 ヴェルニアの政府広場には、まだ弾痕が残っていた。


 正面庁舎の窓は合板で塞がれ、街灯は二本に一本しか点かない。石畳の東側は地雷処理が終わらず、赤いロープで立入禁止になっている。


 夜明けまで降った雨が、砲弾で欠けた花崗岩の窪みに残っていた。水面には薄い油膜が虹色に浮き、焼けた路面電車の架線から錆びた雫が落ちる。広場を渡る風には、濡れた石と石灰、二日前まで燃えていた庁舎の煤が混じっていた。


 その中央へ、三千人が集まった。


 祝賀式典という名だった。


 実際には、帰還した政府の宣誓、戦死者の追悼、行方不明者名簿の公開、給水時間の告知を一つの舞台で済ませる催しだった。


 ロマネンコは警備配置図を見て、顔をしかめた。


「国が戻ると、最初にするのが人間を一か所へ集めることか」


 第八十八特務支援群の隊長が答える。


「政治は群衆を必要とします」


「爆弾もだ」


「縁起が悪い」


「警備で縁起を信じるな。信じるなら俺を帰せ」


 帰るつもりはなかった。


 広場北側に狙撃班二組。


 地下通路を閉鎖。


 屋上はリトネア憲兵が確認。


 携帯電波の妨害はしない。避難民が家族へ連絡する回線と、医療班の通信を残すためだ。


 代わりにスペクトラム監視車が、不審な短時間送信を拾う。


 入口の金属探知は三列。


 車両阻止柵は、消防車を通すため西側だけ可動式。


「穴は」


 ロマネンコが聞く。


「人間です」


「そこは塞げないな」


     *


 ヴォロディミルは壇上の控室で、原稿を半分に破った。


「長すぎる」


 ペトレンコが残った半分を見る。


「外務省案は七分です」


「七分あれば橋を一つ失う」


「演説中に橋を守る必要はありません」


「政治家は演説で橋を落とす」


「あなたが短くすれば、少なくとも今日は助かります」


 彼女の左腕から吊り帯は外れていた。


 まだ高く上げられない。制服の袖の下に固定具がある。


 ヴォロディミルは彼女の襟章を直そうとして、右手を叩かれた。


「曲がっている」


「そういう意匠です」


「昨日は真っすぐだった」


「大公殿下は、他人の服より自分の原稿を整えてください」


「妻の襟を見るのは職務外?」


「勤務時間外なら検討します」


「今夜」


「生きて帰ったら」


 軽い言葉だった。


 二人とも、その条件を冗談だけとして扱えなくなっている。


 ヴォロディミルは笑い、破った原稿を彼女へ渡した。


「三分にする」


「二分四十秒です」


「愛が細かい」


「時間管理です」


     *


 式典は正午に始まった。


 最初に名前が読まれた。


 タルヴァで死亡した十四人。


 リグナの橋で死亡した九人。


 ナルヴェで死亡した三十八人。


 民間人の確認済み死者。


 帝国軍捕虜のうち、身元が判明した死者。


 国籍を分けず、場所と氏名だけを読む。


 風が広場を通る。


 壊れた窓の合板が、低く鳴る。


 シェレメートは壇上脇で、黙っていた。


 普段なら、沈黙が長くなる前に何か言う。


 今日は言わない。


 読まれる名前の中に、ソーコル三番機を救出した救難員の同期がいた。


 冗談で処理できる喪失と、処理してはいけない喪失がある。


 彼女は、その境界だけは間違えなかった。


 名前が終わる。


 ヴォロディミルが演台へ立った。


「私たちは、三つの国を救ったとは言いません」


 広場が静まる。


「橋を一本残し、病院へ燃料を入れ、占領軍を川の向こうへ退かせた。それだけです。森には兵が残り、家に戻れない人がいる。蛇口の水は濁り、明日の電気も約束できない」


 原稿を見ない。


「だから、今日ここで勝利を完成させません。未完成の国を、未完成のまま引き受けます」


 拍手はすぐには起きなかった。


 前列の老女が一度手を叩く。


 次に、杖を持つ男。


 音が少しずつ広がった。


 大きな歓声ではない。


 疲れた人間が、まだ仕事が残る演説へ払う拍手だった。


     *


 午後零時十九分。


 最初の花火が上がった。


 リトネア政府は中止を考えたが、花火業者が前金を返せないと言ったため、予定どおり三十発だけ打ち上げることになった。


「国家再建の理由として最低だな」


 ロマネンコが空を見る。


「経済政策です」


 第八十八群の隊長が言う。


「あんたらも冗談を言うようになったか」


「悪い影響を受けました」


 二発目が開く。


 赤い光が庁舎の壁へ映る。


 スペクトラム監視員の画面に、短い送信が一つ出た。


 四百三十三・九二メガヘルツ。


 市販帯域。


 長さ〇・七秒。


「不明送信。広場南東」


 ロマネンコの視線が下がる。


 清掃作業員の服を着た男が、赤い立入禁止ロープの内側にいる。


 右手にごみ袋。


 左手はポケット。


「止まれ」


 男がこちらを見る。


 目ではなく、ロマネンコの胸元を見た。


 照準する人間の視線だった。


 ロマネンコは走った。


 男がポケットの送信機を押す。


     *


 爆発は広場ではなく、西側の車両阻止柵で起きた。


 消防車に偽装したGAZトラックの荷台。


 爆薬と直径六ミリの鋼球。


 可動式の柵を通過するため、偽造通行証を使っていた。


 荷台が外側へ裂ける。


 鋼板は扉として開かず、花弁のように四方へ剥けた。車体の骨組みが一瞬赤く透け、次いで灰色の圧力の壁が広場を横切る。腹へ先に衝撃が入り、その後で耳を内側から平手打ちされたような音が来た。


 爆風が警備テントを潰し、鋼球が群衆の背へ飛ぶ。街灯が折れ、消防車の梯子が回転しながら壇上脇へ落ちた。


 合板の窓が一斉に内側へへこみ、遅れて釘と木片を吐き出した。切れた消火ホースから水が噴き、爆薬の甘い臭い、ディーゼル燃料、破れた消火剤の粉が雨上がりの空気を塗り替えた。


 花火の破裂音と爆発音が重なる。


 一秒、誰もどちらか分からない。


 次の一秒で、人々が走り始めた。


 清掃服の男がごみ袋からSR-3Mを出した。


 消音器つきの短銃身。


 ロマネンコへ三発。


 消音器は銃声を消さなかった。硬い板を金槌で続けて割るような三つの破裂音が、花火の残響の下を走った。短い銃身が跳ねるたび、排莢口から真鍮が一個ずつ回転して落ちた。


 一発が左肩をかすめる。


 熱い針金を皮膚の下へ引かれた。上着の布が弾け、遅れて血が脇へ流れ込む。腕は動いた。動くなら、痛みは後回しにできる。


 もう一発が背後の憲兵へ入り、三発目が石畳で跳ねた。


 ロマネンコは男へ体当たりした。


 二人が立入禁止ロープを越え、未処理区画へ転がる。


「地雷!」


 第八十八群の隊長が叫ぶ。


 男は笑った。


「なら一緒だ」


 ロマネンコは左頬の傷が地面へ触れるほど頭を下げ、男の手首を両手で押さえた。


「俺は愛国者じゃないが」


 銃口を逸らす。


 二発が地面へ入る。


「知らない奴と心中する趣味はねえ」


 男の肘を折り、銃を奪う。


 立ち上がらない。


 赤い杭の間には、未処理の対人地雷がある。


 第八十八群が安全通路から近づく。


     *


 第二の攻撃班は、政府庁舎の三階にいた。


 屋上は確認されていた。


 三階の文書保管室は、リトネア政府職員の身分証で入っている。


 二名。


 PKP機関銃一挺、AK-74M一挺、RPG-26二本。


 窓の合板を内側から外す。


 壇上まで百六十メートル。


 PKPが撃った。


 七・六二ミリ弾が演台を横切り、マイクを砕く。護衛がヴォロディミルとペトレンコを床へ伏せさせた。


 ペトレンコの左腕が下敷きになる。


 痛みで視界が白くなる。


 彼女は声を出さなかった。


 代わりに、弾着方向を見る。


 三階。右から四枚目の窓。


「北棟三階、四番窓」


 近衛が無線へ流す。


 シェレメートが壇上の鉄骨へ背をつけ、拳銃を抜いた。


「届かないよ〜」


「分かっています」


「言ってみただけ〜」


 声は軽い。


 目は笑っていない。


 狙撃班が窓へ撃つ。


 射手は合板の陰へ下がった。


 もう一人がRPG-26を構える。


 狙いは壇上ではない。


 群衆の避難路にある石造アーチ。


 崩せば出口を塞ぎ、圧死者を増やせる。


 ペトレンコが気づいた。


「西門を閉じないで! 南へ流して!」


 RPGが発射される。


 発射筒の後方へ粉塵と紙片が吹き、窓枠の内側が一瞬、橙色に染まった。弾頭は石造アーチへ向けて白い尾を引く。音より先に、その影が避難する人々の頭上を横切った。


 第八十八群の狙撃手が射手へ一発。


 弾頭は上へ逸れ、アーチ上部へ命中した。


 石材が崩れる。


 成形炸薬の噴流が目地を焼き、百年持った石が砂糖菓子のように割れた。拳ほどの破片が鉄柵を曲げ、細かな石粉が口と眼へ入り込む。至近の者は悲鳴より先にしゃがみ、鼓膜を押さえた。


 出口の半分が塞がれた。


 憲兵が群衆を南側の路面電車通りへ誘導する。


 押すな、と叫んでも人は押す。


 前列で子供が転ぶ。


 リトネア兵が身体を盾にして流れを割り、子供を引き上げた。背中へ人々がぶつかり、膝が石畳へ落ちる。それでも立つ。


 式典のために並べた鉄柵が、避難を妨げる。


 ヘーチマン社のBergepanzer 2が広場へ入り、牽引索で柵をまとめて引き倒した。


 履帯が血と消火用水を踏み、石畳の継ぎ目で一枚ずつ重く鳴った。排気の黒煙が花火の硝煙へ重なり、牽引索は弦のように張ってから、留め金を火花ごと引き千切った。


「請求先は政府でいいな」


 マゼパが無線で言う。


『国家財産です』


 ボンダレンコが答える。


「だから聞いてる」


 柵が石畳を擦り、新しい避難路が開いた。


     *


 庁舎内の戦闘は十一分続いた。


 第八十八群が三階へ上がる。


 射手は書庫へ後退し、棚を倒して通路を作る。紙が床へ広がり、薬莢がその上を跳ねた。


 銃声は石造廊下の角ごとに倍へ膨らんだ。古い公文書は弾丸の風圧で頁をめくり、赤い綴じ紐を引きずって床を滑る。発射薬の刺激臭に、壁の漆喰と濡れた紙の黴臭さが混じった。


 最初の角で隊員一名が胸部へ被弾。防弾板が二発を止め、三発目が脇腹へ入る。


 一、二発目は胸骨へ杭を打たれたように息を奪い、三発目は装具の脇から肉を押し分けた。隊員は倒れながらも銃口を上へ向けたままにし、味方の脚を撃たない位置で指を離した。


 衛生兵が引く。


 別班が外壁の窓から進入した。


 MH-60Sが屋上ぎりぎりで停止し、ファストロープを下ろす。ローターウォッシュが割れた合板と公文書を空へ巻き上げた。


 射手は挟まれた。


 一人は自決しようと拳銃を顎へ当てた。


 第八十八群の隊員が手を撃つ。


 拳銃が飛ぶ。


 もう一人は機関銃を捨て、両手を上げた。


「撃てよ」


「後で喋ってもらう」


「何も知らない」


「それを確認する仕事がある」


     *


 午後一時十二分。


 銃声が止んだ。


 花火は二十七発目で中断。


 広場の死者、二十三名。


 重傷五十一、軽傷百十余。


 警備側死亡六。襲撃者二名死亡、三名拘束。一名逃走。


 ヴォロディミルは無傷。


 ペトレンコは左腕を再負傷。


 シェレメートは倒れた照明器具で額を切った。


 血は眉を越え、右目の外側へ細く流れた。頭皮の傷は生身だったが、視野の隅では体内診断が神経接続、人工肺、強化胸郭を順番に走査している。異常なしを示す緑の文字と、鉄臭い温度を持った血が同時に存在した。


「照明さん、着陸が下手〜」


 シェレメートは潰れた灯体へ言い、衛生兵へ額を差し出した。冗談はそこまでだった。隣の担架へ白布が掛かると、人工肺の一定した駆動音だけが、喉の奥に残った言葉を代わりに運んだ。


 ロマネンコは左肩に擦過銃創。


 式典は終わった。


 勝利宣言の紙は、血と消火用水で石畳へ貼りついている。


 印刷された《帰還》の二文字だけが水を吸って滲まず残った。靴底が紙の端を踏むたび、赤黒い水が薄く押し出される。救護所の周囲にはヨード剤、焼けたゴム、洗っても落ちない発射薬の臭いが層になっていた。


 ヴォロディミルは救護所へ運ばれるペトレンコの担架に並んで歩いた。


「生きて帰った」


 彼が言う。


「勤務時間です」


 ペトレンコは痛みで青い顔のまま答えた。


「今夜まで待ってください」


「了解」


 担架を運ぶ衛生兵が、ほんの少しだけ笑った。


 笑った直後、別の担架へ白布が掛けられる。


 何も軽くはならない。


 それでも人間は、次の一歩を出すために息を抜く。


     *


 午後四時。


 拘束した三人は、自らを《灰環戦線》と名乗った。


 標語は、《国家は灰から一つになる》。


 政治綱領は二ページ。


 連邦国家の解体、軍政による大陸統一、国境の廃止。


 宗教、民族、出身地への言及はない。


 公表されたばかりの組織で、過去の活動記録もない。


「作り物ですね」


 分析官が言った。


「作り物でも、人は死ぬ」


 ソフィアは押収品を一つずつ見た。


 AK-74Mの製造番号は削られている。


 だが、ボルト面の工具痕は消せない。


 五・四五ミリ弾のロット番号は三種類。二種類は帝国内務軍向け。残る一種はカレングラードの弾薬庫から三年前に廃棄処分された記録になっている。


 消防車の偽造通行証は、リトネア政府の正規用紙。


 印刷機の微細な欠けは、占領期の治安省地下印刷室で押収した機械と一致。


 短時間送信機には、民生部品の中へ軍用暗号モジュールが一個だけ入っていた。


 シリアルは削られている。


 メモリには、消去しきれなかった時刻同期パケットが残る。


 送信先は、国境の東ではなかった。


 アンバー海上。


 式典開始の三時間前から、貨物船を装った一隻が沿岸を航行している。


 AISは正常。


 船名も、旗も、保険も正しい。


 正しすぎた。


 その船のAIS航跡だけが、衛星画像の船影から四百メートルずれていた。


「スプーフィング」


 ロマネンコが肩へ包帯を巻かれたまま言った。


「船は別の場所にいる」


「洋上から指揮したと?」


「または、そう思わせたい」


 ソフィアは位置のずれを拡大した。


 海面に、もう一つの細い航跡がある。


 小型艇。


 貨物船から離れ、北へ向かっている。


 出港記録なし。


 識別信号なし。


 乗員数不明。


 逃走した襲撃者一名を回収できる位置だった。


「《ネポコルヌイ》へ連絡」


 ソフィアが言った。


「貨物船は沈めない。小型艇も撃たない。まず両方の位置を固定する」


「逃げます」


「逃げる方向が情報になります」


 窓の外で、打ち上げられなかった三発の花火が処分班に運ばれていく。


 広場では、血を水で流し、落とした靴を一足ずつ並べていた。


 北方三国の占領は終わった。


 それを祝うために集まった人間を、誰かが次の戦争の材料にした。


 国家は頭角を現した。


 敵も、もう正面からだけは撃ってこなかった。

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