第六十八話 燃料のない翼
リトネア共和国シャウレン航空基地に、Su-35Sが七機残されていた。
衛星画像では、十二機だった。
二機はグディンへ退避。
一機は誘導路で脚を折り、機首を地面へつけている。
二機は掩体内で焼けた。
残る七機は外見上、無傷。
西方連合の報道官は《最新鋭戦闘機七機を鹵獲》という発表文を用意した。
ソフィアは一行目へ赤線を引いた。
「まだ、一機もこちらの機体ではありません」
「基地は確保済みです」
「鍵を持っていることと、家を所有することは同じではありません」
シェレメートがSu-35Sの主脚を覗き込んだ。
「そもそも鍵がないよ〜」
射出座席の安全ピンは抜かれ、機上酸素は空。航法データカートリッジも消えている。キャノピーを開けたまま雨へ晒した機体さえある。
帝国軍は持ち出せない機体を、飛べない形で置いていった。
「美人が七人。全員、財布と靴がない」
シェレメートが言う。
「一人は椅子へ爆薬を置いています」
「別れ方が悪かったんだね〜」
*
シャウレン基地は、午前二時にリトネア抵抗組織が南門を開いた。
公国第八十八特務支援群とリトネア亡命軍が侵入。
守備隊二百七十名のうち、九十六名が投降。およそ百二十名は北東へ退却。残りは弾薬庫と管制塔で抵抗した。
戦闘は二時間十一分続いた。
管制塔の階段には、まだ血が乾いていない。
滑走路へは、焼けたUAZと消火剤の白い泡が残る。
ソフィアは戦闘終了から四十分後に降りた。
彼女のSu-24MPは飛行場上空を一度回り、路面の破片と不発弾を確認してから着陸した。左右並列の操縦席で、左席の操縦士が逆噴射を使う。右席のソフィアは、停止するまで基地の電波を記録していた。
沈黙したS-400の指揮車が、格納庫横にある。
発射機四両。
96L6捜索レーダー一基。
92N6射撃管制レーダー一基。
形は残っている。
「戦利品ですね」
リトネア将校が言った。
「確認してから喜んでください」
ソフィアは発射機へ近づかなかった。
車両周辺の土に、新しい掘り返し跡がある。
工兵が細い棒で地面を探る。
TM-62M対戦車地雷。
一枚ではない。
発射機へ最短で近づく通路へ六枚。射撃管制車のドアには、ピンを抜けば作動するF-1手榴弾。電子機器ラックの下へ遅延式焼夷装置。
「置き土産が多い」
「愛されていたのね〜」
「あなたが先に触ってください」
「愛は遠くから見守る主義〜」
シェレメートは三歩下がった。
*
第三格納庫で、整備兵の遺体が見つかった。
帝国軍曹。胸部へ一発。
右手に工具。
機体へ爆薬を仕掛ける命令へ従わず、上官に撃たれたらしい。
彼のポケットには、機体七番の始動キーと整備記録用USBメモリがあった。
記録の最後。
《右発圧縮機振動、規定超過。飛行禁止を上申》
外から見れば無傷の七機目は、飛べばエンジンが壊れる。
「この人がいなければ、誰かが乗った」
若い整備士が言った。
ソフィアは遺体の傍らへしゃがんだ。
名札を読む。
アントン・レヴァコフ。
敵軍の軍曹。
自軍機を壊す命令に逆らい、次に乗るかもしれない敵を救った。
忠誠の向きを、国旗だけで説明できない人間だった。
「身元を記録。遺族を照会してください」
「敵兵です」
「だから何です」
ソフィアは立ち上がった。
怒りを声量へ変えれば、一秒で終わる。
手順へ変えれば、遺体が名前を失わずに済む。
「整備記録も証拠保全。彼が最後に止めた機体へ、誰も触れないよう封印します」
*
午後一時までに、Su-35S七機の検査結果が出た。
一号機。燃料系統へ砂糖ではなく微細な研磨材。全系統洗浄が必要。
二号機。射出座席下に爆薬。工兵が解除。
三号機。飛行制御ソフトの記憶装置を抜去。
四号機。左主脚油圧配管を切断。
五号機。外見上正常。整備履歴なし。
六号機。機関砲弾薬を残したまま給電系統へ罠。
七号機。右エンジン飛行禁止。
「何機飛べる?」
シェレメートが聞いた。
「今日ならゼロ」
「明日は」
「ゼロ」
「来週は」
「五号機の内視鏡検査と燃料分析が終われば、一機」
「七機もらって、一機〜」
「もらっていません。危険物七件を預かりました」
シェレメートは五号機の機首を撫でた。
「それでも、いつか飛ばす?」
「飛ばせる状態にします」
「誰が乗るの」
「あなた以外」
「つめたい〜」
「左翼の穴を修理したばかりの人へ、新しい壊れ方を渡すほど温かくありません」
シェレメートは笑った。
拒絶されているのに、妙に嬉しそうだった。
ソフィアはそれを見ないふりをした。
人を大切にする言葉を、彼女はうまく言えない。
搭乗禁止の手順なら作れる。
*
基地燃料庫は爆破されていなかった。
ただし、航空燃料JP-8の地下タンクには水が入れられていた。
保有量二百八十万リットル。
使用可能量、現時点でゼロ。
分離・濾過・再検査に最低三日。
ヘーチマン社の燃料分析車が到着し、タンクごとに採取する。
マゼパは結果を見て、基地司令代理へ言った。
「飛行機は七機。燃料は二百八十万リットル。戦力はゼロです」
「三日で戻せる」
「ポンプが生きていれば」
ポンプ棟の主軸には、細い切断痕があった。
回せば折れる。
「四日です」
「予備ポンプは」
「帝国規格。こちらの電源と合いません」
「変換器を」
「今作ります。料金は後で喧嘩しましょう」
国家が基地を取るのは、地図の色を変える瞬間だった。
基地が国家を支えるのは、濡れた燃料から水を抜き、切られた軸を削り直し、六種類の書類へ印を押した後だった。
*
シャウレン基地が安全になったことで、ヴェルニアへ向かう南部回廊が開いた。
午後三時。
リトネア亡命軍のBoxer装輪装甲車十二両、CV9035六両、公国T-84二両が首都外縁へ到達した。
帝国軍は政府地区へ地雷を敷き、テレビ塔と中央駅へ狙撃手を残している。
最初の交差点で、Boxer一両が側面からRPG-7V2を受けた。
増加装甲が弾頭を止めたが、車内の兵士二名が衝撃で負傷。後輪二本が破れた。
後続車が煙幕を張る。
リトネア兵が建物へ入る。
テレビ塔の狙撃手は、住民を屋上へ集めていた。
攻撃ヘリは撃てない。
歩兵が階段を一階ずつ上がる。
午後七時二十分。
政府地区西端を確保。
国立図書館地下から人質三十二名を救出。
テレビ塔は未確保。
中央駅東側では戦闘継続。
首都解放の宣言は出さなかった。
市の半分が停電し、警察組織は解体され、帝国軍小隊が住宅地へ分散している。
旗を掲げれば映像にはなる。
夜を安全にはしない。
*
テレビ塔の狙撃手は、日没の二十分前に動いた。
人質三人を保守用エレベーターへ入れ、自分たちは非常階段から下りる。
監視していたRQ-20《ピューマ》が、塔の中層階で開く防火扉を捉えた。
リトネア兵は正面玄関へ入らない。
外壁の保守レールへ高所救助用のゴンドラを取り付け、二班を百十メートルまで上げた。
風速十二メートル。
ゴンドラが鉄塔へぶつかるたび、金属音が市街へ響く。
狙撃手の一人が気づき、下へ撃った。
弾丸がゴンドラ床を貫き、兵士のふくらはぎへ入る。
落下防止索がなければ、身体ごと外へ出ていた。
隣の兵士が止血帯を締める。
「降ろせ」
「上げろ」
「脚を撃たれた」
「もうすぐ着く」
負傷兵は悪態をつき、自分で銃を持ち直した。
ゴンドラが保守デッキへ着く。
閃光手榴弾を投げ、二班が窓を割った。
塔内の階段で短い銃撃。
狙撃手一名死亡、一名負傷、一名投降。
人質三名はエレベーター内で発見された。手首を結束されていたが、負傷なし。
放送設備は破壊されていない。
占領軍は撤退前、録音済みの降伏勧告を繰り返し流すよう設定していた。
リトネア放送技師が送出卓へ座る。
「何を流します」
亡命政府の広報官が原稿を差し出した。
《首都は解放された》
技師は窓の外を見た。
東駅の方向で火が上がっている。
「まだです」
「政府地区は確保した」
「母が東側にいます」
広報官は原稿を下ろした。
「では何と」
技師はマイクを開いた。
『こちらヴェルニア放送。政府地区西部とテレビ塔は合同部隊が確保しました。中央駅東側では戦闘が続いています。市民は外出せず、窓から離れてください。給水所は明朝六時に三か所開設します』
勝利の音楽は流さない。
英雄の名前も読まない。
安全になった場所と、まだ危険な場所を分けた。
その放送を聞いて、地下室の人間が扉を開けるのをやめた。
それも戦果だった。
*
日没後、ソフィアはSu-35S五号機の梯子へ座った。
シェレメートが缶入りの茶を二本持ってくる。
「一機も飛ばないね〜」
「はい」
「がっかり?」
「安心しています」
「変わってる〜」
「飛べない機体を、飛べないと判断できました」
ソフィアは缶を受け取った。
「それも航空戦力です」
滑走路の向こうで、工兵がS-400発射機の地雷を一枚ずつ掘り出している。
格納庫には、翼を持ちながら飛べない七機が並ぶ。
ヴェルニアでは、地上部隊が一つの建物を取るために階段を上っている。
速く見えるものほど、実際には多くの人間に支えられている。
国も飛行機も同じだった。
翼を手に入れただけでは、空へは上がれない。
燃料と手順と、壊れていると言える人間が必要だった。




